意識を取り戻した時は眠りから覚めるようだった。路地裏にいて、左手が妙に痛くて、そして申し訳なさそうな顔をした春龍がいた。また、口の中は甘い。
 どうしてここにいるのか、何がどうなったのか全く喜備にはわからなかった。それでも、春龍が丁寧に説明してくれたから落ち着きは持てた。そして、またここに戻ってくることが出来たのに心から安堵した。七備に対しそこまで恐怖を覚えていないことにもほっとした。春龍が伝えた様子に依ると、彼女は喜備の考えにも納得してくれたように思える。美羽や幹飛、希威馬に黄桜、そして――亮にも彼女のことを伝えなければいけない。喜備は帰路で足を止め、胸に手を当てた。心の声は、今は聞こえない。だが、確かに彼女はいるのだ――もう「彼女」と呼ぶ必要も無い、七備という確かな少女が。止まらない時の中で、二人の影が伸びる。
 家に帰って、カーテンを閉める際に空を見上げると、もう大分暗くなっていた。ぽつぽつと街灯がつき始めている。西の方をよく見れば、夏の大三角の頂点が確認できる程には、星も姿を見せ始めているようだ。ひと際輝いているのは宵の明星だろう。蛙は賑やかに合唱している。星の鼓動に合わせて鳴いているような気がした。何となく夏の気配を感じて、無性にわくわくしてしまう。七備もわくわくするだろうか。同じ夢を見れるだろうか。

(……でも、やっぱり私、我儘過ぎるな)

 春龍から区別出来るようにと渡されたネクタイピンに紐を通し、いつでも取り出せるようにポケットに入れて手持無沙汰になった時、そんな風にため息をついた。逃げていたのは自分の方で、抑えつけていたのも自分の方だ。七備と付き合っていく決心したのはいいけれど、その背景故に罪悪感がはやる気持ちを抑えてしまう。後悔にも似た不安を持て余したまま、黄桜から貰ったクッキーを食んだ。
(だけど、もう決めた。決めたんだ、私)
 その距離を埋めよう。開いてしまった距離は、こちらから縮めていかなければ、ますます広がるばかりだ。また広がって、また七備に恐怖することの方が嫌だ。いなくなることの方が嫌だ。そして、七備は春龍と会ったのだ。また会いたいだろう。友達だから、当然だ。

 間違ったことだったから、やり直せばいい。
 自分の非を認めるから、受け入れたい。

 引き出しからレターセットを取り出す。夕食に呼ばれるまでずっと、喜備は机に向かってペンを走らせていた。









 七備は目を覚ました。白い光がぼんやりと部屋を照らしている。掛け時計は六時を過ぎていた。雀が歌うように鳴いている。朝の六時だ。夏が近いからか、外は明るいように思えた。思えばこうして布団に包まれて、眠りから目を覚ますのは、七備にとっては初めてだ。ゆっくりと上体を起こした。
 週の始まり、月曜日だ。当然授業はあるから、昨日の内に準備をして喜備は眠ったらしい。机の椅子には教科書やノートの入った鞄が置かれていた。七備は焦る。自分が大学に行かなくてはいけないのだろうか。どこにあるかや、電車の乗り方が完全にわからないわけではないが、突然過ぎる。冷や汗を流しながら机の上に目をやると、そこには小皿と手紙らしきものがあった。小皿にはクッキーがある。昨日貰ったものを移したのだろう。手紙には七備へと書かれてある。
 喜備からの手紙だろうか。何もすることもないので、読んでみることにした。文頭でも、七備へ、とやや丸みを帯びた文字が並んでいた。

「突然こんな手紙を送ってしまってごめんなさい。やっぱり、どうしても謝りたいことがあるから、手紙を書きました。また公園の噴水に七備が出てくるかどうか、わからないし。
 ずっとずっと、無意識に抑えつけていてごめんなさい。私がもっと早く、大人になっていれば……友情や、友達という存在に対して、冷静になっていれば、七備は辛い想いをしなかったんじゃないか。亮君だって、苦しまなくて済んだんじゃないか。そう思います。きっと私が、あまり意識しなかった、悪い方の心(と書くと、何だかおかしいけれど)がずっと七備の方に押しやられてきたんじゃないかと思うと、本当に申し訳ないです。苦しかったよね。……ごめんなさい」

 便箋は二枚目に移る。七備の表情はやや翳っていた。

「これから、私がどうなるか、七備がどうなるか、全くわかりません。私が消えるかもしれないし……七備が消えてしまうかもしれない。けれど、私はそれを望まない。七備は消えて欲しくないです。春龍先輩と会ったなら、もう一度会いたいだろうと思うし」

 図星だった。どうしてかはわからないけれど、会えるなら彼にまた会いたいと思っていた。

「美羽や幹飛にも話します。亮君にも話します。みんなと会って欲しい。みんな、きっと七備の友達になると思います。これからのことはわからないけれど、今は、笑い合いたいです。七備はそんなことないと言うかもしれないけれど、私はそうなの」

 すぐ傍で言われたような気がして、頷いてしまう。喜備のことは憎い。何でこんな奴といるのか、考え込んだら腹が立つけれど、そうすることはあまり気持ちのいいことではない。そもそもどっと疲れてしまうのだ。不服な顔をしながら少し距離をおいて立っている方がいくらかましな気がする。

「みんな仲良く出来ればいい。そうしたい。それが私の夢です」

 馬鹿じゃないのとやはり呆れたが、でもその形は、居心地がいいように思えた。悪くない。
 それから、と便箋に残りはあるが、喜備の文章は三枚目に移った。思わず、目を丸くする。文章を追う目が止まった。

「七備とは、不思議な話だけど、どこかで会ったことがあるような気がします。
 七備は何か、思い当たりますか?」

 長くなったからこの辺でと、手紙は終わっていた。七備も手紙を残してくれると嬉しいですと追伸が書かれていた。手紙を降ろすと、スタンドライトで春龍から貰ったピンが光っている。少し、プリズムが輝いていた。
 七備は窓の方を向く。
 カーテン越しの光は柔らかに眩しい。こう白い光だと、きっと雲が多い白い空になっている。部屋には白い陽光が射すばかりで、そこに七色が見えるわけはない。虹は雨上がりに架かるものだ。ましてや屋内で。
 どうして突然、虹のことを思ったのかわからない。もう一度眠った方がいいのかもしれない。眠ろう。今日の一日は、喜備のものであるべきだ。自分のことや春龍のことから、ようやく解放された彼女の、ひょっとしたら春以来の、平穏な一日だ。ようやく訪れた一日を反故にしてやる程、七備は喜備を嫌ってはいなかった。
 布団の中に潜る。起きるのも初めてなら、眠るのも初めてだった。喜備も心の中で眠っているのだろうか。そうだ。ずっと昔から自分達はこうして、共に眠っていた。七備はどうしてかそう思った。

 遠い記憶の箱は開かれるだろうか。でもそれより先に、暗い目蓋の裏で、夢の世界の入り口に光がさす。今は、何も考えることが出来ない。いや、考えるべきではないのかもしれない。

 喜備も七備も、ここから始まろうとしていた。今は、何も気にせず、共に眠るのが良い。

 雲の隙間から太陽が出て来たと見えて、喜備の部屋には幸せそうな陽だまりがゆっくりとあふれていった。





雲は白 リンゴは赤(了)

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