休日ということもあり、普段より多くの人が行き交う繁華街の大通りの地面は、もうすっかり乾いている。ほんの数時間前の雨は会話を切り出す些細な小道具にしかならないようだ。けれど、どこに行くともなく歩いている彼女の耳に通り抜ける雑音は、形を捉えることも出来ない程楽しそうだから、そんな小手先のことなどどうでもいいようだ。
 足取りがどこか覚束ない、少女のように可愛らしい外見である彼女は、人が知っている柳井喜備ではない。柳井喜備の姿を借りた、彼女に眠っていたもう一つの存在――七備であった。誰も話す人がいないから当然だが、七備は押し黙っていた。
 初めて、空気に触れた。初めてこんなに多くの人や色や景色をはっきりと見た。初めて街に溢れかえっている賑やかな音を聴いた。初めて、外に漂う、香ばしい甘い匂いを嗅いだ。闇、あるいは不鮮明な世界に閉じ込められていた人間が手にする生のそれらは、言葉がわからなくても感情の赴くまま、歓喜の叫びをあげる程驚異的なものであるはずだが、七備はそれでも口を固く閉ざしていた。
 何を見ているでもない。しかし、獲物に照準を合わせるような鋭さと憎しみをもって、七備は眉根を寄せた。石畳に幻として映す相手は、この体の持ち主だった。

 ――ねえ、あなたは……本当に、私?

 声が甦った。舌打ちし、いくらか不自然に石畳を蹴って前進する。眼差しと同じく、重く苦しいものが宿っていると誰の目にも明らかだった。
(……あたしは)
 髪をくしゃりと掴む。芳香が鼻をくすぐった。
 喜備に、なり変わるつもりだった。意識を完全に奪って、自分という存在を閉じ込め続けた――気付きすらしなかった憎い偽善者に復讐するつもりだった。けれども、それは至って単純な、憎しみと憤りから生まれる野望にしか過ぎなかった。野望を実現出来る程には、確かな目的を持てる程には、世界を知らなかった。
 第一、こんな展開になるとは思わなかったのだ。裏側の自分を受け入れることを、誰が決断できるというのだろう。ましてや、あんなにひ弱な喜備に。
 ふいに七備は立ち止まる。
(何で、なり変わろうと思ったんだろう)
 渦巻いた怨念の泉に、自分から疑問の石を投げた。自明のことであるはずだった。存在意義でもあるはずだった。それが今、風に煽られるように揺らいでいる。何で今になって、こんな風に形が乱れるというのだろう。全て、喜備の所為だ。奥歯を強く噛みしめた。
(あたしのことを、忘れていたからだ)
 ひとつひとつ、整理をつけよう。雑踏の流れから七備は身を引いた。
 どうしてかは知らないが、喜備の心の底に自分はいた。喜備が生きていく為に、友情を信じる為に――それに反する疑問や恐怖や焦りが押し込まれ、底の七備に全てが寄せられた。喜備の持つ頑固な友情に対する考えは全体に浸透していたはずだが、七備の空間だけ濃度が違っていたのだ。代わりに、全く違うものが澱となっていた。
 忘れ去られた存在に、そんなものを押しつけられた。それが、憎かった。

(……忘れた?)

 そう。喜備は、七備のことを――存在を、ずっと忘れていたのだ。忘れたということは、どこかで二人は出逢っている。それが外の世界でか、内の世界でかは、わからない。
 自分は、七備は、最初から喜備の中にいたわけではないのだ――顔をあげるが、往来の景色には七備に何の答えもヒントも教えてくれない。再び、喜備の言葉が脳裏で弾かれた。
 思い出せそうで、思い出せない。頭を抱える。微かに頭痛がした。
(ともかく、忘れていたのに……何が……名前とか)
 頭痛は段々激しくなってくる。それでも、七備は懐古の糸を手繰りたくなってしまう。自分が何者か知りたいから、喜備に真っ向から対立したいから。自分を忘れて、閉じ込めて、全ての裏側を押しやっていた、脆くて、逃げるだけしか出来ない偽善者を、どうにかしてしまいたい。憎悪だけが、自分の生きる証だ。
 顔をあげた。向かいには怪しげな外観の店が見える。店の前のテーブルに座っている女がこちらを見た。今初めて見た、というよりも以前からやけに凝視しているような気がして、どうしてか妙な緊張を覚えた。
 ぐらりと、視界が揺らぐ。喜備の意識を乗っ取るのは、これが初めてのことではないが、こんなに長い時間占領したことは無い。ゆるやかでない立ち眩みが、血の気を全て奪うような気がした。体を支えることもままならず、ゆらゆらと、誘導されるように暗がりの道へ入っていってしまう。人が通ることも殆ど無さそうな場所だ。
 もしかしたらここで倒れてしまうかもしれない。そして喜備に意識が戻れば、受け入れるとか馬鹿なことを平気で言っていたが、どうせまた怖くなって、自分を更に閉じ込めるに違いない。そうしたらまた、自分は暗黒の心の淵に落とされてしまう。
 そんなの、嫌だ。七備は苦しく息をついた。意識を乗っ取って何をどうするか、よくわからない。だけどこのままでは嫌なのはよくわかっていた。
(あたしは――あたしは)
 汗ばんだ額を撫でるように風が通っていく。
(……喜備を、あいつを……)

 けれども、自分が本当にしたいことは、それなのだろうか?
 喜備を追い詰めることは、果たして真の命題なのだろうか?

 他でもない――七備自身がそう思っていた。
 錯綜した思考を手放すように、身は倒れていく。しかし、それは止められた。右手が強い力で掴まれた。


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