「喜備さん?」
 鎖で縛られた重い思念が代わりに飛び出し、そこには空白だけが残る。それほどまでクリアになって、七備は解放された。
 右手を掴んでいたのは、薄雲春龍だった。
「よかった。どうしてか、まだ遠くに行ってない気がしたんです。喜備さんが紅茶館を出られたのは、もう大分前だったのに」
 声を聞くだけで苛立ちが湧く。彼もまた、喜備と似たような偽善者である。冷たい本当の顔を見せたまま、生きていればよかったのに。七備は手を掴む彼の手を離そうとぶんと乱暴に腕を振った。呆気にとられた春龍の顔を何故か見たくなくて、目を逸らした。
 だが彼はもう一度手を差し出してくる。それもまた、気に食わなかった。どうせそれは、七備を喜備だと思ってしていることなのだ。七備が彼女の体を借りている以上、その誤解は仕方ない。むしゃくしゃする気持ちを表に出せばいいのだが、 気分が悪くてどうも上手くいかない。その所為で、釈然とした想いはなお募る。
 ああ、と何かに合点がいったのか春龍は微笑む。手を更にこちらへよこした。
「あなたは……喜備さんではない、別の――もう一人の」
 気付かれた。強く春龍を睨んだ。
「あたしは、喜備よ!」
 痛快なほどの破裂音を立て、手を払った。やはり春龍は目を丸くするが、顔を背けることは無い。そのことよりも七備は、自分の言ったことに焦りを覚えた。
「……違う、喜備じゃ、ない」
 あたしは、と髪を一房掴んで、くしゃくしゃに潰した。
「ううん、喜備で……違う。喜備じゃ……でも」
 喜備になるつもりだった。最初に現れた時のように、傲慢に、加虐的に、喜備じゃない誰かを演じながら、喜備を更に演じればいいのだ。だけど、今のこの状態でそれは難しい。単に気持ちが悪いからというだけではない。強い耳鳴りがする。頭を更に抱え込む。
 自分が――七備が、それを望んでいない。七備は、そんな人間ではない。
「大丈夫ですか」
 けれど、春龍の声がするだけで、不思議と痛みと不快は和らいでいく。さっきは苛立ちの種となっていたはずなのに。悪寒すらしそうだったが、恐る恐る春龍を見た。人の良さそうな微笑がふいに解かれて、何か考えでもあるのか頬を掻く。どこか滑稽だ。七備には意図が掴めない。もしかしてあなたは、とまたそこで微笑が甦った。
「予定が狂ったんじゃないですか?」
 十分、間を置いてしまう。それなのに七備は、は? の一言だけしか発せない。
「あなたは……何の目的かは知りませんが、喜備さんを追い詰めて、彼女の意識ないしは地位というか――まあ存在を、奪うおつもりだったんでしょう?」
 一般における多重人格がこういうものだとはちょっと思いませんが、と自信が無さそうだったが、妙にけろりとしていた。
「だけど……あの喜備さんのことです」
 ああ、勿論いい意味でですよ、と手を振った。七備には、彼が何と言わんとしているかわかるような気がした。
「あなたを――受け入れてくれたんでしょう」
 目が細くなる。それはどこか遠い存在を見つめている。
 七備ではない、別の誰か。
 七備と似ている、もう一人の誰か。
 確かな体と声と熱と、魂を持っている存在。
「まあ、付き合いの浅い私が偉そうに言えませんけれども」
 苦笑して首を掻く。何も言えず、また彼のように遠くの存在に想いを馳せることも出来ない。七備は所在を失ったように顔を背けた。最初から、自分の居場所など、無いのだけれど――また湧き起こりそうな痛みと不快感に耐えようとしたが、春龍は知ってか知らずかなお話す。
「私としては、あなたは、誰よりもそれをわかってるんじゃないかと思うんです」
「……あたしが? 喜備の……その部分を?」
 向いの男は当たり前のように頷いた。喜備が、自分を受け入れると言ってくれたくらいに、普通に、当たり前に。
「だって、ずっと一緒にいたのでしょう?」
「一緒、に?」
 それにも何の躊躇も無く頷いた。
 どうしてか不思議と、腹立たしくはならなかった。目を閉じてみる。
そうだ、例え心の奥底にいて、忘れ去られていたとしても、どんなに距離が開いていても、性格が違っていたとしても、自分と喜備は同じ体を共有して生きてきたのである。そして七備には、春龍の証言を証明できる、微かな記憶がある。
 誰よりも喜備の、寛大な心を理解できる証拠が。
「……あたし……喜備に」

 それが、いつのことなのかは全くわからない。遠い遠い昔なのか、それともつい最近なのか、その記憶から時間はいらないと言わんばかりに抜け落ちていた。いつのことなのか、関係は無いのだ。些細な問題に過ぎない。その事実さえあればいいのだ。

 突然迷い込んだ自分に、喜備は手を差し伸べてくれた。

「でも」
 七備にとって大きなそれは、喜備にとっては失くしてもいいものだったのだ。
「え?」
「あいつは、忘れてしまったから――」
 目の淵から出る雫を、七備は理解できていない。憤りに任せて、腕を振った。うわ、と春龍は身を引く。
「あたし、それが嫌だった。嫌だった! こんな、こんな奴なんか、消えちゃえばいいのよ!」
 また目眩がする。その所為で体がふらつきついに尻もちをついた。だが、言葉は止まらない。消えちゃえばいい、と地面を叩く。擦り傷が手に増えていってしまう。
「消えればいいの、こんな、こんな、偽善者で、卑怯で、臆病者の、ただの弱虫のくせに! 逃げてばっかりで、何にも出来ないくせに! 何が……何が!」
 下しても意味のない鉄槌をもう一度下そうと、コンクリートの道に大きく左手を落とす、というところでその左手が黙っていた春龍の右手に掴まれる。七備ははっと息を止めた。顔を伏せているから、彼らしい憎たらしげな微笑も見えない。また、言葉も無い。
 その代わりのように、左手首に強い力が加わった。予想外の事態と痛みに、目は大きく見開かれる。
「痛……っ、やめ、やめ……てよ……」
 その言動や人となり、物腰の柔らかさから、彼は喜備同様ひ弱に見えた。だが、違う。彼は確かに男だった。それを考慮したって、思った以上に強い握力だ。七備の視界が歪み、汗が流れたような気さえした。
「や……痛い……やめ、あんた……これ、喜備の体なのよっ」
「わかっています。しかしあなたが喜備さんの体を借りている以上、仕方ありません」
 冷徹な響きだった。当然あるべき慈悲が無い。七備は灯りを失った、或いは谷底に堕ちていくような感覚を冷ややかに抱いた。いいですか? と、冷たい言葉は槍のように七備に向けられる。
「喜備さんに向かって、何かしてごらんなさい」
 彼の顔が上がる。それを見て、言葉も息すらも失った。
 誰も見たことが無いのではと思えるほど――冷酷で、無慈悲な瞳が黒く光っていた。

「林檎よりも赤くて、紅茶よりも紅いものを見ることになりますよ」

 ぱっと左手は解放された。人形の腕のように、力無く地に降りる。握られた部分は痣になっている。内出血したのだろう、青黒い。痛みや枷の無い腕がこんなに愛おしいものだったのか。冷や汗が背中に流れた。
「……なに、それ、脅してるの?」
 強がりだとわかるだろうが、七備は鼻で笑った。春龍はいつのまにか、もう普段のような微笑を浮かべていた。その変化の速さが恐ろしい。
「……喜備が知ったら何て言うかしらね」
 さすがに動揺するだろう。けれども春龍は、やっぱり当たり前のように笑みを深めた。
「まあ、こんな私も私ですよ。否定はしません。けれども、受け入れてくれるんじゃないかと思います」
「そんなの……あいつの優しさに甘えてるだけなんじゃないの」
 少し考えるそぶりを見せて、そうですねと苦笑した。でもそれが何だか、間違っていないように見えた。羨ましさを感じたことを、否定できず、下唇を噛む。でもですね、と春龍は七備をじっと見つめた。
「喜備さんだけではないです。あなたのことも、心配ですよ」
 はあ? と首を傾げた。依然、じっと見つめてられていることに気付いて、すぐ七備は顔を逸らした。変に顔が赤くなっているかもしれない。さっきはあんなに痛い目を見せられたのに、と悔しさが溢れた。
「見たところ、あなたはまだ、この世界に出てきたばかりの……」
 赤ちゃんというのはちょっとおかしいですが、という言葉も釈然とせず、むしろ癪に障ってますます眉間に皺が寄る。まあまあ、と不機嫌に気付いたのか春龍は宥めた。
「子供、と言うのもやはり聞こえが悪いでしょうが……いろいろわからないことも、あるでしょう?」
 ちらと、彼を見る。人の良い笑顔があった。喜備の持つものと、どこか似ている。
「何か困ったことがあれば、いつでも頼ってください」
 それから、さっきは怖い思いをさせて失礼しました、と頭を下げた。
 何と返せばいいのだろう。言葉に迷う。考えてみれば、こんなに長い会話は、喜備としかしたことが無い。言葉どころか、動きもどうすればいいのかわからない。混乱がじわじわ広がる。自分は今何をするべきなのだろう。何のために、ここにいるのだろう。何をしに、ここにきたのだろう。どうして、喜備を乗っ取ったのだろう。
 何もかもがわからなくなったその時、暖かいものが頭に降りる。
 春龍が、七備の頭を優しく撫でていた。
「……何だか焦っているようでしたので。落ち着きましたか」
 七備はそれにも、何も言えなかった。頬の赤らみを感じて肩身を狭くするばかりだ。
「あ、そうです」
 何か思いついたのだろうが、春龍はネクタイにつけていた銀色のピンを取った。しかしそれだけでは彼の意図がわからない。だが、そのピンは七備の右の手のひらに置かれた。
「喜備さんと区別をつけるために、あなたでいる時は、それをペンダントにでもして、つけていてください」
 紐がご用意できなくてすみませんと苦笑した。それから、ともう一つ手渡された。若干温かい。よく見ると、どうやらクッキーが入ってるようだ。どうぞ召し上がってくださいという春龍の顔は嬉しそうだ。
「……あたし」
 それは喜備に向けられた笑顔だろうか。だが今は、喜備ではない。
 七備である。
「あたし……七備よ」
「ななび?」
「あたしの名前……あいつが、喜備がつけた」
 あまり間をおかず、つけてくれた、と言い直す。ほうと春龍は目を細めた。愛しい誰かを見る目だ。何も知らないけれど、七備はそう思う。今、春龍の目の先にいるのは、喜備ではなく七備だ。
「可愛らしいお名前ですね」
 もしかしたら、と七備は息を飲む。

 自分は誰かに愛されたかったのかもしれない。
 喜備の言うように、自分が寂しかったのかどうか、よくわからない。けれど、誰かに認められたくて、受け入れられたくて、喜備の中から出てきたのかもしれない。

 結局、喜備が言った通りだった。けれど、それに憎しみや悔しさを燃やすよりも、七備はやりたいことがあった。
赤くなったと自分でもわかる程の頬に照れを感じて、急いで顔を背ける。名前をつけたのは喜備だが、まるで自分が可愛いと言われたようで、恥ずかしくて仕方なかった。春龍はそれをわかっているのかいないのか、依然にこにこしている。
 憎らしいとも感じるけれど、どうしてだろう。もう少し彼と話していたい気持ちもある。
「クッキーどうぞ。まだ温かいでしょう」
「……」
「どうしました?」
「……開けてよ」
 包みをつっ返すように右手を春龍に突き出した。予想外の行動だったのか、それとも言わんとすることがわからないのか、彼は少し首を傾げた。
「あんたの所為で、腕、痛くなった。……開けてよ」
 ずっと顔を背けているのもおかしいから、ちらと彼の顔を見ていたが、やはり恥ずかしい。この暗がりだったら、頬が赤くなっているのもわからないかもしれないけれど、そうなっていること自体が恥ずかしい。どうしてそうなるかわからないのも、もどかしい。
「……利き腕は左なのですか?」
「そうよ!」
 嘘ではない。喜備は右利きなのだろうが、七備は右腕で何かしようという気にならない。
「かしこまりました」
 だだっ子を相手にするような顔が気に食わないから、更に注文する。

「……食べさせてよ」
「はいはい」
「こ、子供扱いしてるでしょ!」
「してませんよ」

 子供だと言ったのはそっちのくせに、と憤慨している隙に、彼の指が伸びる。
 菓子に隠れた指と、唇が触れた。
 さくさくとしたクッキーを砕くのは一瞬で、桃の香りが鼻孔を抜ける。甘さや、その芳香よりも、どうしてだろう。指が触れた部分がいつまでも気になっている。熱を持ったようだ。そしてそこから体全体を赤らめる命令が発信されているようで、どうすることも出来ない七備はただ、苛立って顔を背けた。
 もう少しここにいたいけれど、今のこの顔を春龍に見られたくない。
 もう、帰る時だ。
「あいつの……喜備の友達にも、会わなくちゃいけないから」
「え?」
 また来るって言ってんのよ! と吠えてみた。
「名前も、付けられたし……多分、喜備の方が話すと思うから……」
 その光景を思い描いてみるが、不思議と憎くない。そうですかと春龍は答えた。
「また、会えますね」
 いつもと同じ、彼の微笑みだろう。けれど少し違って見える。その言葉も聞き流すことが出来ない。自然とこう返せることが、七備にはまだ恥ずかしい。
「……そうね。また、来るわ」
「はい。紅茶館にもぜひいらしてください。お待ちしてますよ」
 手を差し出された。立ち上がる必要もあるのだろうけれど、握手を求められているのだと本能的に気付く。初めてする握手だった。ぎこちなさを感じたが、こんなに人の手は温かいのかとも、驚いた。
 それだけではない温もりも感じていたが――それをじっくりと愛おしみ、正体を掴むことは、七備にはまだ出来なかった。


 2 
みくあいトップ
小説トップ

inserted by FC2 system