愛の病



 曹と操が出会ってしばらくが過ぎ、七月に入った。
 梅雨と夏が入り混じり、天候の機嫌も波があるこの季節、多くの学生達はテストやレポートという名の迫りくる恐怖に脅かされていた。鷲羽操は、根がそれなりに真面目である所為か、それとも天性の運の良さでなのか、はたまたそうでないのか、それ程焦らずに日々をのんびりと過ごしていた。
 白なのか銀なのか判断がしにくい、まるで真珠を溶かしたようなそんな曇りのある日、何気なく学食の一席に座り、ノートやレジュメや手帳を広げながら、操はぼうっとしている。しかし勉強をするでもなく食事をとるでもない彼女は、携帯電話を片手に昨日届いたメールをただ読み直していた。鷹巣曹からの、何の変哲もない電子手紙だ。
 六月に出逢った鷹巣曹のことが知りたいと、操は純粋に思った。繁華街の大庭に出掛けることが多くなり、週に何度か、メールや電話をしてみることにしていた。今操が文面を追っているのも、その書簡の一つだ。やりとりを交わす度、曹は嬉しそうだったし、操もどこか嬉しかった。どうでもいい彼の話も楽しく聞こえるのが操にはひどく不思議だった。
 そして彼と触れ合っていくうちに、操にも自然に友達が増えていった。






 六月の終わりか七月の初めに彼を訪ねに大庭に向かった時のこと、いつもは女性ばかりが立ち寄るヒミコの占い館の前に曹と、見慣れない男性がいた。二人は仲良さそうに談笑している。いつもは店に訪れる女性とばかり話しているのに、と操はその見慣れない男性を思わずまじまじと見つめてしまう。
 背は曹と同じくらい高く、スポーツでもしているのか、全体的に日焼けしている。その肌に似合うような明るい茶髪で、笑顔もその健康的な肌によく似合っている。曹の友達だろう。曹は全国津々浦々に友達がいるらしく、操との電話でもよく話題に上ったものだ。
「曹さん」
 二人の楽しそうな会話は途切れそうもなかったので、仕方なく操は曹に声をかけた。その時男の顔を初めて正面から見た。男は左目を細めていた。
いや、細めているのではない――男に左目がないのだった。操はそれに気付くまで何も言葉が出なかった。気付いても言葉が出なかった。
「どした? 操」
「えっ」
 ようやく操は声を出す。間の抜けた操の声に、真顔に戻っていた男は再び笑った。
「ああ、あんたが噂の操ちゃんか」
「いいタイミングだったな、今お前の話をしてたんだ」
 ということは操の話題で二人は楽しんでいたのだろう。
 操の特質、類稀なる強運と凶運――操にとっては当たり前の現象だが、曹にとっては面白い現象は、曹と関わり始めてから、何度か発揮されていたのだ。
 ほんのささやかなことだが、自販機のお釣りが残っていることが続いたり、バスや電車がものすごくいいタイミングでやってきたり、しかし違う行き先のものだったり、急に降ってきた雨に操は傘を持っていても友達が持っておらず彼女らが濡れながら帰って操は少し気の毒に思ったりと、そんなことがあった。
 別に話のネタにされてもさほど困らないが、妙に居心地が悪いのは何故だろう。
「こいつは常夏惇公。俺の従兄弟なんだ」
「あ、鷲羽操です。はじめまして」
「どーもどーも、常夏惇公って言います」
 操が自分を物珍しげに見ているのが気になってか、彼は人懐こい笑顔をさらに強めた。
「貿易関係の仕事やってびゅんびゅん地球上飛んでるんで、こんな焼けてんだ」
 はあ、と操は言い、そしてその褐色の手と操の白っぽい手で握手をした。
「みんな惇兄って呼ぶ。まあ俺は惇公で通すけどな」
「兄貴っていうのが俺っぽいっしょー」
「じゃあ惇兄で」
 操はちらちらと気付かれないように彼の細い左目の線を見る。そうした細かいそぶりに気付いた曹は惇公と同じように笑顔で彼女に説明する。
「こいつの左目は無いんだ」
「ち、ちょっと曹さん、そんなストレートに言わなくても……」
「ああいいのいいの。俺のこれは生まれつきじゃなくて事故ったやつで」
 事故でも失ってしまったのには変わりない。しかし惇公はにこにこ笑って左目を指していた。
「中東行ってた時、仕事中に爆破テロに巻き込まれて」
「え? ……本当ですか」
「ってのならかっこいいだろ。……って、ほんとはこんなこと言っちゃいけねえな。
 一杯被害者もいるし、今の世の中物騒だしよ。いつ世界戦争が起こっても不思議じゃないし」
 いつだったか、北米の方で大規模な空爆事件が起こってから毎日のように、爆撃や戦争、テロや核実験の話題が飛び交う。海外だけではない。日本でも多くの幼い命が奪われる殺人、親を殺す子供、その他の凶悪な事件が新聞やニュースを埋め尽くす。まるでそれがあるのがもはや当たり前だったようで、操は少し気が滅入る。
「弟の淵仁っていう奴、まあそいつも俺の従兄弟なわけだが、弓道やっててな、
 ちょっと色々とあってよ、その矢でぐさーっと! そう、ぐさーっと!」
「わー曹、えぐいえぐい、グロいグローい」
 曹はしかしそんな操の心境は気付かないのか、惇公と一緒になって過去に受けた傷を茶化して笑いあっていた。その幼稚さは今まで何度見てきたことか。今更ながら呆れてしまう。だけど、もうだいぶ慣れてきた。






 隻眼の男はこれから中国に行くらしい。
「その後に韓国、あー台湾も行って、インドも出来たら寄りてえなー。内蒙古! は、十一月くらいか」
「そんなに行くんですか」
「惇は旅が好きだからなー」
「違うって。仕事仕事。……まあでも、好きでやってるからな。旅も好きだし」
 館の裏の方に停めてあった大型の黒いバイクにまたがり轟音でその旅人は出発した。仕事、と言いながらも楽しそうに、そして気楽に、まるで自由人の様に旅に出た。操はまだ学生という身分でいた。勿論学生だって気楽で自由なのだろう。しかし社会に出ていて尚、彼のように自由でいられるというのは滅多に無いことだ。彼にも彼なりの苦労や束縛はあるのだろうが――いつか時間や規則に縛られてしまう未来を持つ操には、少し羨ましく見えた。
「どうした?」
 曹が操の目を覗きこむ。幼く見えていたそれは、今は幾分か大人びて見えるのはどうしてだろう。もしかしたら、幼く見えていたのは、惇公という兄貴分の存在に彼が甘えていたからなのかもしれない。従兄弟というのならば、昔から付き合いはあったのだろうし。
 彼が一旦帰ってくるのは九月の終わり頃ということだった。
 そして曹はこう言う。
「俺のかわりに旅をしてくれる。ちゃんとおみやげも買ってきてくれる。惇はいい奴だ」
 おみやげが目当てなんじゃないですか、と軽くからかってみる。少々図星だったようで、うるさいやい、と操は優しく額を小突かれた。
「曹さんだって旅に出られるじゃないですか、このニート」
「ニートじゃないもん」
 頬を膨らませる曹の目が大人びて見えたのは、やっぱり錯覚だったのだろう。
「まあ、一応このお店の手伝いっていう職はありますもんね」
「だろだろ」
「旅に、出ればいいのに」
「いや、出ない」
 曹は即答した。ああ、そうですか、と操は特に気にしなかった。
 曹も確かに自由人だった。ニートという程でもないが、何もせずヒミコの家に留まるだけの人間だと、その時点での操の認識はそうだった。

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