私達に、特にこれ、と言った思い出はない。物語になるような劇的なことが起こったわけじゃないし、そもそも毎日べったり一緒にいたわけでもない。けれども、部室で何気ない話をしたり、クラスのことを話したり、一緒にテスト勉強をしたり、本を読んだり星を見たり、文化祭に出す申し訳程度の冊子を作ったり、そんなささやかな思い出がいくつもある。取るに足らないことだ。私達より輝かしい物語を持って生きた同世代の子達なんてそれこそ沢山、数え切れないほどいる。恒星の輝きにどうしたって六等星は負けてしまう。私達の思い出は、私の思い出は、つまらないものだろう。
 でもそういうことの一つ一つが劇的なものに敵わないなんて、一体誰が決めたと言うのか。どんなドラマであろうと同じものは一つとしてなく、どれもが同じ価値判断で決めつけられるものでもない。それから、小さいものは儚く、愛おしい。確かに、小さいからすぐに終わってしまう。零れていく。そして零れた先から消えていく。あまりに小さいから、どうしたって取り戻せないのだ。
 私は取り戻せない。その穴を塞ぐことも出来ない。塞ごうともしなかった。終わりは、最初から明白だったのに。
 だから、だからこの熱は、今私を燃やす熱は、聖女を燃やしたそれよりも熱い。




 廃部になるんだ、と言った彼に、言うのが遅すぎる、と詰ることも出来なかった。やはり彼と部室の調和が素晴らしかったからだろう。大きな笹が小柄な彼を守るように立ち、彼も笹に寄りそうようにして穏やかに時を過ごしていた。黄昏の緋色の光がぼろぼろの部屋に差す。それは無残に垂れ流される血のようにも見えた。でも彼の面持ちはどこまでも優しい。終焉の時が来ても彼は限りなく慈悲深く存在するんだろう。その日の彼は女装をしておらず男子の夏の制服を身に纏っていた。大事な話をしている。冗談ではない。私は何かを言い掛けて結局口を閉ざしていた。何を言っても、もう遅いのだ。
「この棟の取り壊しが決まってね」
 ぼろぼろだもんね、と苦笑する。多過ぎる部活を粛清しようとしてるのかもね、ともどこかとぼけた顔で付け加えた。
「まあ、新入生も入れてないし、これといった活動もしてないし、当然と言えば当然なんだけどね」
「当たり前、よね」
 言い淀みながらも何とか絞り出せた言葉だったし、本心でもあった。けれど、そんなことを口に出して言いたくはなかった。だねえ、と彼は何度も頷いていた。私は彼をよく見ていたからわかるのだけど、普段とほとんど変わらない表情だった。瞳の奥の光さえ揺らいでいない。やはりどこまでも彼は優しいのだ。それはずっと変わらないのだ。動揺することなんか、彼には一つも無いんだ。
「それで何、この笹」
 そのことについて深く考えたくなかった私は咄嗟にそう訊いていた。
「ああ、無理言って立退きを七月八日まで延ばしてもらったんだ」
 だからさ、と笹の葉を抓んで鳴らした。
「七夕、やろうさ」
 にっこりと笑う。私は瞬きをしたまま何も言えずにいた。呼吸の音さえも私から遠ざかっていく。
「君、去年はいろいろと理屈こねて、短冊書かなかっただろ」
 勿体ないことしたねえ。去年の七夕の時と同じように唇を尖らせ、眉を反らす彼。
「今年はちゃーんと書くこと。最後なんだしね」
 ぴん、と伸ばした指を私に向ける。部長命令だよ、おまけとばかりに得意げに笑う。部長なんて、特に自分から名乗ることもなかったくせに。何よそれ、と私は笑おうとした。けれど顔が固まったようになって、どう笑えばいいかわからなかった。そもそも、笑いたくなんて無かった。でもこのままでいたら、きっと心の状態がそのまま表情になってしまう。醜くも見えるだろうし、その反面、無表情にも見えるかもしれない。それを見て彼がはどう想うだろう。急いで私は顔を背け、体全体を彼から背けた。用事思い出したから、と言い捨てて部室を後にした。
 それから、何を想いながらどうやって帰宅したのか、ほとんど覚えていない。ただ、どうにもならないことによって大きな何かがぼろぼろと失われていくことを感じていた。そしてそれを、無力な自分が黙って見ているだけということがどういうことなのか、思い知らされて途方に暮れていた。手を伸ばしたところで、何にもならない。何度も何度も息を飲みながら、その両方を感じていた。
 最後なんだ。天文部が終わる。私と彼の日々が終わるのだ。それは例えば、卒業式だとか月の終わりだとか、決まり決まった最後ではなく、唐突に降ってくる極めて純度の高い最後であるような気がしたのだ。
 そしてそれはきっと、死にも近い。


 私は一つも短冊を書かなかったのに、彼は何をそんなに願うことがあるのか、赤青黄色、色とりどり沢山の短冊を日を経るごとに吊るしていった。貧相だった笹が明るく、可愛らしく着飾られていく。色は違えども、夜空の星がぽつぽつと現れて天をほのかに照らしていく様に似ていた。去年から残っている七夕飾りも全部付けた。何せ去年の笹は一メートルもないほどの小ささだったのだ。今年の笹は去年の残りでも足りないくらいの大きさだった。一体どうやってこの部室に入れたんだか。そう何となく悪態づきながら、きらきらした川の飾りらしきものを笹につけるでもなく、指先で弄んでいた。
「願い事考えた?」
 私一人だったところに彼がやってくる。その両手にはカフェオレの缶が握られている。はい、と一本渡された。うっすら浮かぶ水滴が冷たくて心地いい。
「前にも言ったでしょ。書いたところで意味なんかないって」
「もう、部長命令って言ったのに」
「こんだけ下げてるんだから、十分でしょ」
 なんせ友達の分も下げてるからね。缶のプルトップを開けながらそう言い、紅に染まりゆく空を背にした笹を見つめた。いくつか短冊を見ていたけど、彼の筆跡でないものが沢山あったのはそういうことか、と一人合点していた。私もカフェオレを開ける。
「それでも沢山過ぎ」
「まあ、僕は物欲のある方だからね」
 へらへら笑って、首を掻く。その顔をどうしてか見ていたくなくて、俯いてぎゅっと飾りを握った。形を覚えて、くしゃくしゃになりそうなくらい。ごくりと飲んだ唾はカフェオレの所為でどろどろと甘ったるい。
 彼の短冊を見て回ったけど、そのどれにも、この部活が無くなりませんように、とは書かれていなかった。当たり前よね。いつかの自分の声が無情にリフレインする。彼だって何もしなかったし、終わりを私以上にすんなりと受け入れているようだった。いつものように、ひどく穏やかに微笑していた。
 彼にとって、ここは執着する場所じゃない。立退きの日を伸ばしたのは、ただ単に七夕の行事がしたかっただけだろう。それだけなんだ。
 物欲のある方だからね、なんて、本当にそう。君は物欲の塊みたいなものよ。七夕にかこつけて、ただ願いを叶えたいだけ。
 自分の心に立てた彼の幻影に向かって、こう訊いた。

 君にとって、この部活は物欲を起こすほどの「もの」じゃないの? 大切なものじゃないの?
 私との時間なんて、無くなってしまってもいいの?

 うん。そうだよ。

 いつもと同じ微笑で、彼は破滅を招き寄せる。
 そう言われるのを恐れた。冗談でもそんなこと、実際の彼には訊けなかった。

「とっておきの願い事を書くには、金銀の短冊使っちゃおう」
 私がそんなことを考えているなんて、ちっとも思い至らないらしい彼はぴらり、と二枚の短冊を取り出す。黄昏の光がその光沢を煌めかせる。折紙の金銀を使った短冊だった。
「僕は金色を使うし、君は銀色使いなよ」
 去年と同じような笑顔で渡してくるそれを、拒めない。
「銀だからさ、なんか天の川みたいじゃない?」
 きっとご利益あるよー、と羨ましそうに見つめていた。細長い銀紙に、自分の姿が歪んで映る。どんな表情をしているかもわからない。家で考えてくるわ、と私はそれを鞄にしまう。くしゃくしゃになってしまった飾りを横目に、破れないようクリアファイルに挟んだ。
 七夕までに十分時間はあったのだけど、私の願い事は天の川に似た短冊には表すことが出来なかった。そもそも何を願えばいいのかもぴんと来ていない。自分の居場所を失くしたくないのか、天文部が続けばいいのか、それとも、彼と、部活も何も関係なく、また一緒の時間を過ごしたいのか。何気ない時間を、他の誰でもない彼と。
 でもそれを文字に表すことがどうにも恐ろしかった。私の方には明確な願いがあって、だけど彼にはおそらくそんな気はない。はっきりと形を持ったものが粉々になる。願いを灯した蝋燭が、芯ごと断ち切られてしまう。惨めで哀しく、残酷でもある。そんなのはごめんだ。だから、もやもやしたままでいい。形にしない方がいい。
 それに、毎年のようにどうせ悪天候に見舞われるに決まってるのだ。今年も六月ばかりが変に晴れて、梅雨の気配が七月にずれ込んでしまう。予報では七夕の日は曇になったし、七月に入った途端各地で大雨が降り、土砂災害のニュースも飛び込んできた。
 そう、七夕も予期せぬ大雨にでも、いっそ雷雨になってしまえばいい。そう思いながら雨風が笹を、彼の願い事を揺らすのを独り、見つめていた。雨音に混じって遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる。彼がここに来る気配はない。私の知らない誰かと、私の知らない顔で、私の知らない明日へ行ってしまうんだろう。
 そう。私達は最初から他人でしかなかった。大した繋がりなんか無かった。ただ私が、ここで過ごす時間を過大評価していただけなんだ。彼が私の知ることのない場所に行ったところで、私が何か言える立場にない。
 どうせ雨になる。土砂降りになって、彼の願いを多く抱いた笹は刑罰でも受けるように大粒の雨に打たれるだろう。私の、短冊に表さない願いも雨に流れて消えてしまう。
 そうなったら、もうしょうがないんだ。雨が降ってしまえば、私は彼に関する何もかもに思い切ることが出来る。そしてそれは簡単に訪れる。それもまた、死に近い完璧な終わりに思えた。世界の何もかもを拒絶する、純粋な終わりだろう。




 なのに。
 どうして晴れたの。

 何日かぶりの瑞々しい朝日に満たされた部屋が私を迎えた。起きぬけの頭だったのに何度もどうして、なんでが響き、繰り返す。異常なまでに鮮明な絶望の声。でもどちらかというと、それは失望に近かっただろう。
 ニュースの天気予報では、予報よりも速く雨雲が移動した為、全国的に洗濯日和、そして七夕日和になりそうですと伝えていた。時間ごとの移り変わりのグラフでも、夜までずっと太陽のマークが並び、夜には当然と言わんばかりに星のマークが並ぶ。昨日までそこは、雨マークか曇りマークが我が物顔で陣取っていたのに。嬉々として伝えるお姉さんの背景には部室にあるような笹が映っていて、きっと番組の出演者やスタッフが書いたのだろう短冊が下がっている。私は朝ご飯もそこそこにして、ゆっくりとした歩幅で登校した。とても、何かを食べられる気持ちじゃなかった。
 そんな私を横目に、朝から本当にとびきりの快晴だった。空は宇宙までその色なんじゃないかと言うくらい澄んだ青で、鳥も虫も花も木々も何もかも久しぶりの陽射しを思い切り浴びて気持ち良く過ごしているように見えた。天気が良いと言うことは、そしてその日まで雨が多かったと言うことは、当然湿度が高く蒸し暑くなると言うことだった。太陽が登校中の私を見下ろす。授業中の私を照らす。体育の時間で久しぶりに屋外へ出た私の肌を、蒸した空気の中じりじりと焦がしてくる。見上げるとぎらぎらと眩しい。プールの授業あればいいのに、とお喋りをする子たちが、じっと空を仰ぐ私を見て、不思議そうに顔を見合わせてくすくす笑ったようだけど、そんなことを気に病む余裕も無かった。
 私を刺すような陽射し。目を細める。誰かが見ればそれは悲痛な表情に見えただろう。
 今まさに何かが終わろうとしていると言うのに、何でこんなにもいい天気なんだろう。やり場のない想いが私に満ち充ちていく。静かに唇を噛み、気が急けば空に向かって憤慨してしまいそう。そんなの、まるで昔話かお伽噺みたい。そんなことをしたって、何が起こるわけでもない。終わりが途中で止むわけでもないのに。

 お前は生きているのだ。ああ、そうだ。何かが終わる。それでもお前は生きているのだ。そして生きていくのだ。

 そんな風に言っているようにも思える。皮肉な太陽は膨大な熱の塊だと言うのに、どこまでも冷ややかに私を照らしていた。

 さあ願え。今こそ願え。
 短冊にその願いを書き記すがいい。

 幻のその命令に、何も言えない。もたげた首をだらりと落とす。歯の跡がついた唇を閉じ、ただ黙った。

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