彼は私と同じ新入生で、知り合いだった部長からぼろぼろの天文部を譲り受けたと言う。私と同じような感じで、自分が自由に過ごせる場所を探していたらしい。ちなみに私はその部長に会ったことはないし、それは嘘だったのかもしれない。けどまあ、今となってはどうでもいい話だ。ともかく、私と彼は同じ部活だった。同じ部室で同じ時間を共有していた。ただそれだけだったけど、それだけの関係が、時間が、想い出がどれほど大切なものか、それは語りつくせないし計り知れない。過去と言うだけで価値があるのだ。それが大切ならば尚更のことだろう。
 けれどもまるきり、本当に「それだけ」だった。私達の関係はその天文部だけに留まっていた。互いの名前も在籍しているクラスも知っているけれど、放課後以外、部活の時間以外は赤の他人のように過ごした。そもそもクラスが別々の棟にある所為か、たまたま会うこと自体珍しいことだった。
 学校内で彼を目にすると私はその都度静かに驚いたものだった。何せ、大体は女子の制服で放課後を過ごしている彼がちゃんと男子の制服を着て、私以外の誰かと冗談を言い合っては笑ったり、話したりしているのだ。勿論私は彼が天文部でもちゃんと男子の制服を着ている時があるのを知ってるし、何度か見ている。だけどやっぱり、あの時間との彼とは違うと思ってしまう。当然のことだけど、私の知らない彼の顔があるのだ。でもそれは同時に、皆の知らない彼の顔を私が知っているとも言えた。それはどちらも切ない気持ちを私に湧かせる。一方はちくりと刺し、一方は甘く締めつける。
 でも天文部での彼だってそれほど別人、と言う程でもない。確かに静かな雰囲気ではあったけど、私に比べればずっと快活な子だったし、よく笑う子だった。私とよく本や勉強のことなどについて話し合ったりもして、私の言葉に対し彼はどんどん言葉を重ねていく。でも激高することはない。よく話し、よく笑う。学校よりちょっとだけ大人しいだけで、大した違いなどないのだろう。あるとすれば女装してるところくらいだ。
「何で女装してるの?」
 興味本位で訊いてみる。その日も確かに彼は女子の制服を着ていた。ん? とスティック菓子を咥えた彼は高めの声で答える。口を動かしぽりぽりと食べていく。咀嚼しながら、んー、と首を捻った。
「何となくかなあ」
「何となくって」
 けれども、そういう性癖にも似たものは、理屈じゃないのかもしれない。首を掻きながらだらしなく笑う彼を見て私も苦笑した。いつもいつも女装をしているわけじゃないけれど、彼が女装しているところは不思議と誰にも見つからないようだった。まるで、神様がその秘密を守りたがっているように。




 私達が互いの空気に慣れてきた頃、彼はこう提案してきた。
「せっかく天文部なんだからさ、それっぽいことしようじゃん」
「それっぽいことねえ」
「天体観測だよね! やっぱり」
 埃よけの布を被っている望遠鏡に輝く目を送る。望遠鏡が無くても、この学校のある山をもっともっと高く登っていけば、街中よりも綺麗な星空が見られるんじゃない? そう提案してみたらまずはそれで行こう、と言うことになる。
 これが意外にも大当たり。土曜日の夜、まだまだ夜はこれからという頃なのに、数え切れないほどの星空が私達の頭上に広がった。私も彼も未だ見たことはない程のものだったらしく、ぽかんと口を開けて、じっと見つめていた。何も言えずにいることに対して、からかうことも出来なかった。
 本で見ることの出来る星空よりも沢山の星で、一応星座を頭に入れてきたはずなのに多過ぎて線で結ぶことが出来ない。どれがどの星かわからなくなって、手元の星座盤を赤いライトで照らして一生懸命照合した。春の夜空。北斗七星から乙女座のスピカと牛飼座アルクトゥルスを繋ぐ春の大曲線。スピカとアルクトゥルスに獅子座のデネボラを加えれば春の大三角、更に見えにくいりょうけん座のコル・カロリが見えたので、春のダイヤモンドが出来上がる。西の空にまだ双子座が見えていて、うす暗い蟹座だって見えた。中央のプレセペ星団だって目を凝らせば見えそう。
 知識としては知っていたけれど、あんなにも意味を持って星や星座が迫ってくるのなんてちっとも知らなかった。神様の秘密に触れてしまったけど、神様はそれを気前よく教えてくれている。そんな気がした。
 神様の秘密。ふと彼のことを思い出す。この目の中に、春の星全てを閉じ込めよう。そっと隣を見てみると、彼は全身でそう言わんばかりに空を見上げていた。私の視線にも気付いていないくらい真剣だった。静かに興奮している彼の横顔をしばらく見ていたけれど、これだけの星を見るのは私もやっぱり初めてだったから、やがて空を見上げた。
 でも今思うと、私は彼と同じものが見たかったのかもしれない。あの絵を壊したくなかったように、ずっとずっと、同じものを見ていたかったのかもしれない。
 星空に魅入られた私達は、都合が付けば土曜日、よく天体観測を行った。星空観測じゃなくて望遠鏡で月を見たり金星を見たりもした。ただ時間をだらだら過ごす為だけ、名前としてだけの部活じゃなくて、いかにも天文部らしくなっていった。まあ、きっと他の学校の天文部からしてみれば子供の遊びも甚だしいところだったろうけど、私は楽しかった。きっと彼も楽しかったと思う。

 だけど唯一私が、否定的な態度を取ったものがあった。
 七夕だった。

「やっぱ七月と言えば七夕だよね」
 雨がそぼ降る梅雨時、小ぶりな笹をどこからか彼は持ってきていた。
「というわけで、お願い事を短冊に書きまっしょー」
 にこにこ顔で短冊を渡してくるけれど、私はにべもなくこんなことを言っていた。七夕って大体雨降るじゃない、と。
「そもそも、七月七日って言うのは新暦じゃなくて旧暦での七月七日でしょ。それって仙台の七夕祭りじゃないけど、今で言う八月のことじゃない」
 私達がお願い事する星空は偽りの空ってことよ。言葉をそう締めると彼はぶう、と唇を尖らせて見るからに不満そうな顔をした。屁理屈だねえと腕を組む。本当のことじゃない、渡された短冊を脇に置きながら私はつまらない声で返していた。
 これは今でも同じことを言える。本当のことじゃないの、と。七夕は新暦に合わせてしまうとばっちり梅雨時だし、七月は六月以上に雨が降る時もままある。それと、願い事をするルーツはよくわからないし、叶えるパワーの拠り所がそこにあるとも言いきれないけれど、仕事を怠けて引き離された織姫彦星夫妻に何かを叶えてもらおうと言うのも、正直何となく信用ならない。
 だけども、そんな理由もまた後付けのようなもので、今まで短冊に書いた願い事がいまいち叶えられていない所為なのかもしれなかった。何かが出来ますようにとか、何かになりたいとか、お父さんとお母さんが今よりもう少し仲良くしてくれますように、とか。
 結局のところ願いを叶えるのは自分なのだ。自分が何も出来なかっただけ。多分私は、何も出来ない自分が好きじゃないんだろう。
「まあ、僕がいろいろ書いて賑やかな七夕飾りにするよっ」
 何書こうかなあ、とぺらぺらの色紙でしか無い短冊を眺めながら目を細める。その邪気のない顔を見ていると、叶えばいいのにな、と自然に思っていた。私の屁理屈はともかくとして。


 あの時は、来年の笹がとても大きなものになるなんてちっとも予期していなかった。そして私がとても大きな願い事を抱えるようになることも全く予感していなかった。そしてそのどれもが最後だということも、勿論知らなかった。


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