見られたかな、と喜備は思った。
 昨日は喫茶店を出て、繁華街の方に向かった。その時だ。まさに喫茶店を出た時、喜備は視線を感じた。視野に二つの人影が映っていた。この学校の制服で、女生徒だった。一人は背が高く長い黒髪、もう一人も背が高く、寒さのわりに軽装で、ポニーテールを結っていた。喜備にそれだけの情報が視野の細胞から送られてきた。客観的には、それらの情報はほんの枝葉に過ぎない。しかし喜備にとって、美羽と幹飛を特定する材料としては十分過ぎる程だった。
 喜備の脳裏にさっと危機の信号が閃く。亮との会合は二人に秘密にしなければならない。たとえその会合が破綻しているものだとしても、あくまでも二人のため、喜備が亮の力を借りて何かをしなければならないのだ。二人は完全なるゲストとみなさなければならない。二人に知られては意味がなくなる。
 だから喜備はすぐにその場を離れた。振り返ることもしないで。振り返らなかったから、時が進むにつれ自分の幻覚だったのかもしれないという意見も浮上した。意見はやがて確実性を帯びた思い込みになる。家に帰った頃にはますます強まり、むしろそんなことは無かったと言えるくらいになった。眠りにつき、何事もなかったように次の日を迎えようと決めた。しかし――母から二人が訪ねてきたことを聞いて、その考えの支柱は脆くなっていった。だから、見られたかなと強く強く、昨夜から繰り返している。もはやその柱は崩壊寸前である。
 美羽と幹飛はしかし、いつも通りの対応だった。おはようの挨拶、昨日見たテレビ番組について、ニュースや、音楽や映画のこと……あまりにそれが普通すぎた。私を柔らかく縛り付けるのに、そのやり方はもってこいだなあ、と喜備は縛られながら思っていた。
 実際のところ、喜備は後ろめたかった。美羽と幹飛をおいて、亮との時間を過ごしていることが。だからと言って、簡単に亮を捨てることは、喜備にはどうしても出来ない。喜備は優しい人間だった。これまでと同じく、亮を――独りには出来なかった。
 友達なんかいねーもん。
 喜備は、回想の亮に対し軽く口を開いたが――教室の中、授業が行われているある種の静寂の中、そんなことない、と言えなかった。歯を食いしばる。
 今日も手紙は来ていた。いつのまに投函したのかと軽く疑問だった。喜備がこの一方的な約束を破ったら、亮はどう思うだろう。
 亮のことを何も知らなかった。知っていることと言えば、いつもお金だけはたくさん持ち歩いていて、左利きで、アイスが好物で、頭がよくて、運動神経もよくて、八重歯が可愛くて――家族は? 家はどこにある? 学校はどこの小学校? 本当はいくつ? 本当に、友達はいない?
 喜備は実に授業一時間分、亮のことを考えた。考えても考えても、答えなど本人に聞かない限りは、どんなに時間をかけた解答だとしても、それは偽物に過ぎない。
 午後になりたての空は少し濁っていた。そこにチャイムの音が重なり、次に教室中から教科書をしまう音、机を動かす音、鞄を机に置く音が響く。もう今日も終わってしまった。お昼の時間がなくて良かった。美羽と幹飛と机を囲むのが気まず過ぎる。早く、亮のもとに行こう――喜備は立ち上がった瞬間に右手首と左手首を掴まれていた。
 美羽と幹飛だった。話があるの、と囁いた二人の顔は、怒っているのか、悲しんでいるのか、喜備は一目見ただけではわからなかった。

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