全ての感情が、歌に包まれて解放された。世界に満ちる感情を、想いを、全て肯定するように。
「歌っている私を見て二人が笑顔になって、私も笑顔になって、観客の皆さんが笑顔になって……そして犬も尻尾を振って、わんわんと楽しそうに吠えて、一緒に歌って。歌は可能性と次元、全てを超えて届く。そんなことを何となく感じながら歌っていました。この世界を超えて、歌も笑顔も、現実の母に届いている。そう感じたんです。
 歌い終わって、沢山の拍手が届けられて、お父さんとお母さんも笑顔で拍手してくれて……私は万感の想いで元の世界に帰ってきました。犬も傍にいました。ありがとう、と笑って、そして歌を歌ってみました。ゆうやけこやけ。なんのことはない童謡です。ちゃんと現実でも歌を取り戻したことに、私はほっとしました。犬もほっとしているようです。ありがとう。そう伝える為に、頭を一つ撫でて、そしてぎゅうっと抱きしめました。
 しばらくすると、私は空虚を抱いていることに気付きました。あの犬は、もういなくなっていたんです。白い毛もついておらず、匂いもしません。不思議と悲しい気持ちはありませんでした。犬が私に歌をくれたと思っていましたし、それならば歌を取り戻した私は、あの犬と共にあるということなのですから。
 それからです。私が歌手を志したのは。父と母だけじゃない。もっともっと、沢山の人を喜ばせたいと、笑顔にしたいと」
 だから私と歌う犬の冒険は、今も続いているんです。これからも。そう笑う彼女は、十周年を記念して開催されるアジアツアーのことを言っているのだろう。そうです、と自信たっぷりに返す。
「でも、夢をもう一つ語るなら……合間を見つけて、私はかつての私みたく、一人で寂しがっている誰かの元へ歌を届けたいと思ってるんです。日本、世界を問わずに。歌を授けてくれたあの白い犬のように。隅っこにいる人にも、一番後ろにいる人にも、全ての人に、歌と笑顔を届けられるようになりたいと、思ってるんです」
 それこそが、Iと歌う犬の冒険の本当の目的なのだ。貴重な話を聞かせてくださって、ありがとうございましたと固く握手をする。私の方も、誰かに話したかったんですとIはそれまで秘密にしていたものを共有出来た喜びを素直に顔に出していた。
 しかしどこまでを記事にしていいものか。デタラメを書くなと言われてしまうかも知れない。いろいろと調整を重ねなければならない。それを話すとそうですね、調整はどれだけでも応じますとお互い苦笑しながら彼女の足下を見た一瞬、傍に白い犬がいたのは私の見た幻覚か何かだったろうか。尻尾を振って、笑っていた。
 それは本当に一瞬でしかなく、すぐに見えなくなったけれども、彼女と共に今も在ることを私は無条件に信じられた。鼻歌と共に帰っていく彼女の傍にもきっと犬がいて、きっと共に歌っているのだろう。穏やかな午後の光が射す中、世界中に歌を届けに行く彼女達の行く末を暖かく、しかし、必ず夢が叶えられるという確信を持って見守ろう。私はそう心に誓った。

(了)

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