「初めて逢った河川敷でまた一人黄昏ていたら、当たり前のように犬がやってきました。そしてまた歌います。その頃になるともう大分慣れて、よく歌うねと目を細めながら私は呟いたりしていました。きっと小さい頃、歌うことが大好きだった私を見ていた両親の気持ちと、同じ気持ちになっていたと思います。
 それを想った時の私の目に、多分悲しみや寂しさがふっと降りたんだと思います。犬が歌ではなく、わん! と吠えました。びっくりして、膝を抱いていた腕が解いてしまって、その腕を、犬が引っ張りました。その時でした。
 夕焼け空の世界が消えて、私は青空を飛んでいたんです」
 え? 瞬きし困惑する私に、話も飛び過ぎて、そうなっちゃいますよねと笑うI。
「でも本当なんです。過ぎてみれば一種の幻覚でしたけど、青空と、真下には雲の海が広がっていました。隣にはあの犬も飛んでいます。やがて雲の海を割る巨大な船が――飛行船ではなく海を渡る船が飛んできました。犬はそれにしゅたっと降り立って、私も体を動かして降り立ちました。船は犬と私を乗せて空を駆けます。アニメで見たり、本で読んだような空想の世界に圧倒されて言葉が出なくて、ただただぼうっとしていました。犬は船首の方に駆け寄って、高らかに歌います。こんな世界に来ても歌うのかと若干の呆れと変わらない魅力への愛しさに、私は素直に笑いました。
 気が付くと、世界は元の、平日の夕方、夕焼け空の広がる私の日常に戻っていました。犬の姿も、勿論船もありません。戻ってみると、規模の大きい幻覚を見る自分に段々恐怖や焦りを感じてもきましたが、純粋に楽しかったのも確かです。またあの犬に連れてってもらいたい。そう思いました。楽しい夢を見て、その続きが見たくて夜眠るのが楽しみになる。そんな感覚です」
 その日から彼女と犬との冒険が、始まったのだ。
「犬は私をいろんなところに連れてってくれました。無人島を冒険したり、星空を渡ったり、舞踏会に行ったり。常夏の国へも、雪国へも、時代劇のようなところにだって。どんなところでも犬は歌っていました。そうして時々、私の方を振り返るんです。私も歌ってみないかと、きっと犬はそう言いたいんだと思います。私も少しは、と思って口を開くのですが、それでも音が出てこないのです。失望させるのが嫌で、犬の訴えを段々無視するようになりました。そしてただ、微笑むだけになりました。
 でもそうやって誤魔化すように微笑んでいるのは、嘘をついているのとほとんど同じです。かといって、歌を取り戻せもしないし、どうしようもなかった。犬はきっと私を想っていろいろとしてくれているのにと、申し訳なさも募ってきました」
 面倒くさい子供でしたとIは笑った。でもそこまで考えられるのは大人びている一方で、子供として可哀想なことでもある。その当時Iが何歳だったかはわからないが、子供ならもっと素直に、自分の心のままに生きてもいいだろう。そうIに伝えるとそうですねと何度か頷いた。
「犬との様々な冒険が何度か続いて、何度か誤魔化しの微笑みを浮かべて、大分経ったある日のことでした。犬はまた同じように、私を別世界に連れて行きました。大きな劇場で、劇団か何かがパフォーマンスをしています。大きく会場を沸かせた後、私の出番がやってきます。私は、舞台に出るだなんて知らなかったものですからただ慌てました。困惑する私を置いて、犬が真っ先に舞台に出て行きます。まあ、歌えなくても犬が歌うからいいかと観念し、私もステージに出て行ったんですが……さすがに言葉を失いました。
 観客席にいたのが、父と母だったのです。
 勿論現実世界の二人がここに来ているというわけではないです。中世のヨーロッパのようなところでしたし、服装だって物語の貴族のように着飾っています。でも一瞬の内に認識しました。お父さんとお母さんがいる、と。
 母の顔を見るのは随分久しぶりでした。お母さん、と呆然として呟いて、でもそれはお母さんには届いていません。けれど母の方も、そして父の方も、二人して申し訳なさそうに顔色を曇らせたんです。ここにいる両親が現実の、本当の両親と繋がっているわけではないけれど、何かを共有していてもおかしくありませんでした。
 劇場に小さなざわめきが広がっていきます。舞台に出たのに歌わないから当然でしょう。犬にお願いすることも、私は忘れていました。どうすればいいか、何もわからなくて、もし今ここで舞台を飛び出して二人の元へ行けば、私はまたあの幸せだった頃に戻れるんじゃないかという考えで頭を一杯にしていました。でもそう考えているのと同時に、これが幻覚で、幻想で、そんな考えを抱いたところで結局は幻滅するだけだと、冷めた頭で私は理解していました。そう解ってしまうことが悔しくて、目尻に湧き上がってくる熱い水気を、ただ感じていました。
 それは客席のお母さんもきっと同じだったんだと思います。お父さんもきっと。二人とも、泣きそうな顔で私を見ていました。そんな顔で見つめないで、こっちがもっと悲しくなる。でも言葉に出来なくて――何か声を発したとしたら、それはきっと涙声になっていたんだと思います。
 ただ、それと同じくらい強い気持ちで、私は二人に笑って欲しいと、そう思っていました。小さい頃、歌が大好きだったあの時、私が歌を歌えば二人は喜んでくれました。きっと私は自分が歌が好きなのと同じかそれ以上に、誰かが――いえ、父と母が喜んでくれるのが好きだったから、歌を歌っていたんでしょう。
 その時初めて、理解したんです。私が歌を愛した理由を。
 笑顔になって欲しい。笑って欲しい。あなたも、私も。
 そうだよと言うように、ずっと黙っていた犬がわん、と吠えました。
 そして、私の唇から歌が、こぼれだしたんです」
 涙も一緒に、でも、笑いも一緒に。彼女は笑う。

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