雨が降っている。
かがり火の中武装を解いた彼女は、寒さに少し身を固めながらも空を見上げた。
完全な闇でもなく、完全な灰色でもない混沌に濁った曇天は、しとしと涙を流すように飽きることなく雨を降らせる。
頬に触れた。単なる水である。しかしそれがどこか粘り気があるように思えるのは、自分がことのほか焦燥を募らせているからだろうか。
無理もない。
夜が明ければ。
そこで彼の、自分を呼ぶ声がした。
呼ばれて振り返ると、彼が青ざめた顔で苦しげに自分を見ていた。行軍のさなか発生した腹痛の所為だろう。
顔色に現れる程に酷くなってきたか。彼女は少し眉を顰めた。
腹が、と脆弱に彼は呻く。
まったく、と彼女はため息とともに少しだけ背を向けた。
「こんな雨の中、無理なさるからですよ。
私は医者ではないので、どうしようもないです」
精々身体をこれ以上冷やさぬように眠ってください、と告げる彼女の口吻は、やや怒りを帯びている。
この期に及んで自分に甘えようとする彼を、突き放すことで叱咤しようとしているのか。
ともすれば彼を甘やかしてしまいそうな自分に対して、腹が立っているのか。
明日という一日へ募る緊張が、姿を変えているのか――。
何も言わない彼に彼女はもう一度振り向いた。
彼は、いつのまにか小さい彼になっていた。この闇の中で彼女が彼の「変化」にすぐ気付けなかったのは、空を見上げていたからだろうか。凛々しかった顔立ちは幼い顔つきになっている。
虚弱な表情にそれはひどく相応しい。彼の傲慢で横柄な性格にも、あるいは似つかわしいだろう。
そんな彼が孤独にたたずんで、自分を見上げていた。
「しょうがないですね」
複雑に思うことはある。が、彼女は折れた。
身をかがめ、彼の頭を撫でる。狐色をした量の多い髪は雨にしたたかに濡れて、普段とは違う面影を彼に与えていた。撫でる彼女の手のひらに伝わる印象も、少し変わっている。
こうして自分に甘えることに、彼でも彼なりに申し訳なさと抵抗を感じているようだった。それに加え腹痛の痛み、はかばかしい動きを見せない諸侯、明日に待ち構えた彼の一世一代の大戦と――それ以外にも、彼の表情に不安を加味するものはあるだろうか。
いい加減それだけで十分じゃないか。
それだけでいい。
彼女は切に願った。
彼の頭を、ぽんと軽めに叩く。
「あなたが不安そうな顔をしていては、勝てるものも勝てませんよ」
そんなことを言うのが意外だったのだろう、彼は心持目を丸くした。
だがそれにきちんと応えようとしてか、み、と彼は彼の癖で鳴く。
「そうじゃな。大義名分はわしらにある」
そして笑う。弱弱しくも彼らしい高潔な笑みだった。
それがどうしてか、今回の全ての元凶であるかのような象徴のようにも見え、ふと彼女は不意を突かれた気がした。動揺が暗に走る。
ああ、そうだ。
彼がいなければ、あらゆる諸国を巻き込んだこんな戦が起こることも、義父を喪うことも、女の身でこうして戦うことも、彼に少し失望したりも――。
「それに」
彼女に巡る暗い思考を遮ったのは、彼の一際明るい声だった。
「お前もおるし、な!」
また笑う。痛みで笑みが崩れていく顔で、自分だけを頼りだと言わんばかりに。
自分への揺るぎない信頼。
それが確かにあるのだと、ちっとも、その存在を疑ってはいない。
まっすぐに、言葉も視線も彼女の胸におちた。あらゆる疑念が、霧消したように思えた。
彼女はそこで初めて微笑する。ええ、と柔らかく結ぶ。
「この左近が――志摩子が、おりますからね」
最後におミツ様、と彼の愛称を呟く。彼は変わらず、笑っている。
彼と彼女の一番長い日は、未だ明けない。