落語の神様



 寺の鐘よりは柔和で、機械音よりも暖かい柱時計の音が一つ鳴った。零時半か、と思い本から目を離し時計を見やったが夢之助の判断とは三十分違っていた。時刻は午前一時。ラジオを捻れば、全国放送の深夜番組が夜の静けさを吹き飛ばさんと時報と共に始まる頃だ。前座の頃はこんな時間まで起きていることは無かったな、と夢之助はうん、と伸びをした。そしてごろりと畳の上に横たわる。

 噺家・桜家夢音に弟子入りし、前座修行に明け暮れた三年間を内弟子としてこの家で過ごしていたわけだが、こんな風にだらしなく身を横たわらせることはまず無かった。今でもまだ二つ目の身分でしかなく、あげく師匠の邸宅で堂々と寛ぐことなど、破門とまではいかなくとも十分不敬に当たる。けれど、ここには今誰もいない。
 師匠の夢音は現在地方の落語会の出演の為不在であり、女将もまた町内会の温泉旅行に出掛けてしまった。二つ目とは言え一歩間違えれば無職にも近い夢之助は――無論、彼が修業を怠っているわけでもなければ、仕事がないわけでもないが――ていのいい留守番役としてこの家に招かれたのである。
 だが夢之助以外、全くの無人と言うわけではない。一人、いる。だがその者に家を守らせるのは何かと不安だったのだろう。
 その者は女だった。尤も何も、年端もいかない少女というわけではない。一応成人している女性だ。それでも、彼女を一人にするのは不安だったのだろう。それは夢音と女将がある意味孫のように可愛がっている所為もあろう。
(……それでも俺と一緒にさせるかね普通)
 男女が一つ屋根の下にいるということもさることながら、夢之助と彼女は年齢差も程々で、更に言えば二人の仲も、最初こそ険悪だったが今は互いに悪態を突き合い笑い合う程度には良好であった。野卑な目を以て見れば、何か起きないかと藪を突いてみたくなることであろう。
(宮戸川じゃあるまいに)
 ああ言われてみればあいつは宮戸川のお花に少し似ているな――と考えて夢之助は眉間に皺を寄せた。何を考えているんだ、と乱れた髪を更に乱さんとでも言うように強く頭皮を掻きむしった。多分今自分の顔を鏡に映したら、それはそれは脹れっ面をしていることだろう。それも、微妙に火照った色合いで。けっ、と心中で唾を吐く。
「……稽古でもするか」
 ひとりごちたところで返事は無い。彼女――徳子は眠っているのだろう。そもそも階が違う。二階ですやすやと寝息を立てているだろう彼女に、稽古の声は届くまい。どっこいしょと体を起こし、テーブルを片付け座布団を敷き、扇と手拭を用意する。
 座布団に乗り、誰もいない空間に向かい、一礼。たとえ師匠がいなくても、聴衆がいなくても、必ず夢之助は頭を下げていた。気持ちの切り替えにもなるし、それに――落語の神様と言うものがいるかもしれないからだ。尤も酒の席でそう言ったら、兄弟子達にも弟弟子達にも笑われたのだが。何だそれは六代圓晶の幽霊でも出てくるのかと――だがそれはきっと酒が入っていたからだろう。皆、多分どこかで信じているはずだ。
 さて頭を下げてみたところで、何の噺を稽古するか考えていなかったことに思い至った。まだそんなに高座にかけていないネタにしよう、と座布団の上で軽く体を揺すって考える。天井を見て、そこに寝ているであろう徳子のことがふっと頭に浮かんだ所為だろう。「寝床」にするか、と体勢を整える。――寝床だからって、断じて深い意味はねえぞ、うん。そう自分に言い聞かせながら。

「どうも旦那、遅くなりましてあい、すみません――」

 それから数分間、夢之助は「寝床」の冒頭を演じた。
 義太夫に凝った旦那、自分の義太夫が酷いものだとはちっとも思わずに、長屋町内の連中に聴かせようと会を開く。長屋連中はたまったものではない。あの手この手で理由をでっち上げて一人も会に集まらない。これに怒った旦那は権力があるのをいいことに店賃を上げようとするので、渋々一同は会へ向かうのだが――という、落語好きならば馴染みの深い噺だろう。
 現代でも簡単に状況を置き換えられるし、笑いどころも多いので高座に掛け易く、名人若手を問わず音源も豊富だ。夢之助もまだ数回しかかけたことはないが、稽古を積めばもっと洗練されたものになるだろう。よく知られた噺だからとか、クスグリが多いからとか、そういう理由とは別の次元で誰からも笑いのとれるものに出来る。つまり、夢之助という噺家の力量の問題だ。
 自分に力量があるか否か――それは無理に考えない。そのつもりだった。ともかく稽古中は、余計なことは考えない。落語を演じる際は稽古、本番問わず噺に没頭する。落語自体と演じる噺家を極力分けて、客観的に考える――言わば作品と役者、作品と演出家のように扱うのが夢之助のスタンスだった。
 けれどそれは、逃げかもしれない。弱い自分に目を瞑るための。
 それではまるで、「寝床」の旦那と――ベクトルは違えども、全く同じではないか。
 噺が、止まる。夢之助の脳に叩きつけられる風景は誰もいない客席だ。落研時代にもよく通った寄席。前座時代に何度も何度も高座返しを務めたあの暖かみのある古い作りの寄席。それが、がらんとしている。誰も夢之助の高座を見に来ていない。「寝床」の登場人物達のように耳栓をして眠っているわけでもない。そこには誰もいない。
 自分に力が無いから。こんな独りよがりな自分を、誰も面白いとは思わないから。

 そもそもそれ以前に落語は――。
 落語と言う芸は――。

「夢さん!」
 なにがしかの真理に行きつくその直前、一陣の風のように思惟の前に舞い込む若い声。
 まだ少女のような声は――この古びた家の眠り姫の声であるはずだ。
「どうして途中でやめちゃうのよお」
「なっ、あっ、徳子?」
 夢之助は背後を振り向く。斜めの方角からこっそり眺めていたらしい徳子なる女性は、まるで他の噺家の高座を舞台袖から見学している噺家そのものだった。パジャマ姿ではないことから、もしかしたらずっと起きていたのかもわからない。ふんわりくるりんと揺れる緩巻きのボブヘアも乱れた様子はない。
 悪びれる様子もなく、何で噺を止めたのか自分から理由を訊いたくせに、もう忘れてしまったのか、それとも然程問題にしていないのか、にこにこ笑ってお茶淹れてくるねと彼の返事も聞かず台所へ向かう。夢之助の方はまるで眠りから突然覚まされたような心持に眉根を寄せるばかり。やり場のない怒りとも呆れともつかない想いを持て余し、耳の裏を掻き、髪をぐしゃぐしゃと崩した。ともかく、と乱れた髪を撫でつける。――テーブル、用意するか。

「はいお茶」
 私はココアー、と歌うようにココアを尚も丹念にマドラーで混ぜる。礼も述べず夢之助は茶を啜る。温度、濃さ共にちょうどいい。夢之助も師匠の夢音も好む味だ。多分夢音一門がそれぞれ好むお茶を淹れられるのだろう。伊達に毎日この家で暮らしていない。
 一応お嬢様として茶道を嗜んでいただけある。もし彼女が前座になったら、すぐに師匠連のお気に入りになるだろう。あの可愛い子の淹れるお茶は美味いんだ、とか何とかちやほやされんだ――まるでお茶汲みOLだ。お茶汲みと言えば落語にもある。そこに出てくる女のように、皆手玉に取られちまうから気をつけろ――などと夢之助が思っていることを、果たして徳子は知るであろうか。
 橘徳子。それが彼女のフルネームだ。猫舌なのかココアをふうふう息で冷まして飲む彼女は、ひょんなことから――ひょんとしか言いようがない――桜家夢音の家に厄介になることになった。一応は横浜辺りの名家の生まれで、れっきとしたお嬢様である。が、落語に出てくる楚々としたお嬢様――例えば「崇徳院」で若旦那が惚れる娘や「次の御用日」のしゃっくりごときで倒れるなよなよとしたお嬢様とは違う。どちらかと言うと、家を勘当された若旦那に近い。名は体を表すと言うが、まこと「船徳」の徳に近いお嬢様だった。尤も最初は偽名を使っていたから、誰も船徳のようだとは言わなかった。ただ一人、夢之助を除いては。
「夢さん、何黙ってんの」
「いや、別に黙って茶ぁ飲むくれぇいいだろうがよ」
 彼女は夢之助のことを夢さん、と言う。夢さんと言われると、師匠の夢音、兄弟子にして総領弟子の夢了、弟弟子の夢う太ら、夢を「む」と読む方はともかく、「ゆめ」と読む方は夢之助以外にもいる。兄弟子の夢路、弟弟子の夢丸までその呼び名の範疇に入ってしまうからよせ、と言っているのに、彼女は一向に直そうとはしないのだ。けれど、もう慣れてしまった。そしてその慣れは、心地良さを伴った慣れだ。そのことを認めるのが、どうも癪に障る。それ故、直せ直せと折に触れて言うのだが――今日はただ黙ってお茶を飲むに終始している。
 噺が途中で止まってしまったこと――止めてしまったことの方が、問題が大きい。
 だがここに徳子がいる故か、真剣に考えられない。そのことは救いであるのだろうか。それとも不運なのだろうか。
「ね、ね、夢さん」
 つい、憮然とした表情になってしまう。
「何だよ」
「噺始める前、お辞儀してたでしょ?」
「おまっ、始めから見てたのかよ!」
「気配を消すことはお嬢様として当然身につけておかなければならないことなのよ」
「んなお嬢様がいるか! スパイか!」
 大体お嬢様というものは自分からお嬢様なんざ言わねえだろうがちくしょう、とまくし立てるが、人差し指を立て偉そうに微笑む徳子を見ていると毒気が抜かれるというものだ。こいつはある意味与太郎タイプでもあるな、と口には出さず思う。
「ねえねえ、誰か私には見えない人でもいた? 先代のお師匠様の幽霊とかいたり?」
「ばっか、先代はここの家にはいなかったよ、よく知らねえけど……。それに俺、霊感ねえし……」
 そんな問題ではないか、と茶を啜る。
 落語の神様。自分に起こった問題の方が大きすぎて、いつも頭を下げる存在のことを――仮にも神という存在であるのに、すっかり忘れていた。これは天罰が下るかもしれない。否、そもそも、夢之助が直面した問題こそ、神が与えたものではないか――幾分、本気で思ってしまう。
 柄にもなく、怖くなる。いけねえ、と茶を再び啜った。――夢之助は本来、臆病な性質であるが、そのことを隠している。さすがに師匠、及び察しの良い弟弟子・夢丸は気付いているだろうが――徳子にまで、気付かれるかもしれない。気配が消せるのなら、気配を読めるだろう。そしてそれは感情までも時には読み取ってしまうかもしれない。徳子をそこまで買いかぶらなくてもいいのだろう。けれども。夢之助が鼻息をすん、とついたその時、柱時計が鳴った。

 午前一時半。
 ああそうか。今は、深夜なのだ。

「落語の神様だよ」

 質問の余韻が消え去ったくらい十分な時間が経った。それなのにようやく、夢之助は答えた。
 夜なのだ。何もかもが真の姿を晒す時間。だから真実を告げても良いだろう。いつだったか、夢音師匠はこんな言葉を言っていた。作家の江戸川乱歩の言葉らしい。

 ――うつし世は夢、夜の夢こそ真。

 今の時間は夢じゃないけれど、自分は「夢」を名にし負う噺家だ。

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