「らくごの、かみさま?」
 反問するように言ってから徳子は――案の定笑った。だけどそれは嘲笑の類では決してない。このお嬢様は品が良い。最初出逢った頃は虚勢を張るようにあらゆるものを嘲って見下し倒していたけれど、本当は根が素直で、いい子なのだ。
 素敵なアイデアね、と言うような笑いだった。
「ほら、皆そうやって笑うから言いたくなかったんだよ」
 けれども若い夢之助にはどうやったって、その笑いが恥ずかしい。
「そうね。夢さんくそ真面目なのに、何て言うのかしら? 幻想的って言うか、ううん、もっとあけすけに言って、子供っぽいって言うか!」
「わーるかったなあ。どーせ俺はまだまだ子供だよっ!」
 酒を呷るような仕草で湯のみを掲げてしまえば、そうでなくても残り少なかったお茶はすとんと全て夢之助に飲まれてしまう。また淹れてこようかしらん? と目で訊く徳子にいいよ、と手で制す。
「でもきっと、皆信じてるわよ」
「そんな見え見えなフォローいらねえよ」
 と言ってみせるが、徳子は絶対そうよ、などと食い下がらないし、無理に噛みつかない。ただにこにこと微笑んでいるだけだ。――きっと本当に信じているからだろう。噺家皆の心の中に、それぞれの落語の神様を持っていることを。
 それに、こんな風に徳子は言う。

「きっと落語の神様がいてくれたから、私は拾われたのね」

 それは別に、落語の、と限らなくても、どこかの親切な神様のお陰だろう。いいや、神様なんかじゃない。師匠夢音の気まぐれだ。酔狂だ。寄席の裏口で倒れていた身元不明の若い娘をそのまま家に持ち帰るなんてことはしない。順当に行けば寄席で保護して警察なり何なりに委ねるところだ。
 でもどこかに神様がいるとするならば――親切どころか、夢音や徳子や夢之助を駒のように見立てて、そういう巡り合わせにして遊んで楽しむ困った神様がいるならば――徳子は今、こうして深夜のこの家でココアを飲んでいることも無かっただろう。窮屈な屋敷に連れ戻されて、自分に嘘をついて偽りの自分を演じ続けたまま、望まない結婚を強いられていたことだろう。こんな風に無邪気に笑うことも未来永劫無かったかもしれない。
 落語と関わりを持つことも、終ぞ無かったかもしれない。
 もはや落語が生活、いや人生の一部となってしまっている夢之助からすれば――それで生計を立てているから一部どころではないが――そんな人はまるで、別世界の人間のようにすら思えてしまう。
 徳子がここにいてよかった――今はそう、素直に思う。
(……静か過ぎるから、伝わっちまうかもしんねえな)
 こんな厄介な世間知らずのお嬢様に抱く恋心なんて、こうして思うことすら御免だというのに、それが相手に伝わったらどうしたらいいのだろう。
 くそ、と唇を曲げる。想いを飲みこまんべく茶を飲もうとするが、生憎湯のみは空だった。決まりが悪くて顔を背けながら湯のみをテーブルに置くと淹れてくるねっと二秒と待たず徳子が奪っていった。その足取りはひどく軽い。もしかして伝わっちまったのか、と眉間に皺を寄せた。だが徳子はいつもあんな感じだ。そのことに思い至ってほっとする反面、釈然としない気持ちも浮かんだ。
「はい。飲みやすい温度にしておきましたわよう」
 ことん、と可愛らしい音がほうじ茶の香りと共に立つ。持ってみると、なるほど適温だ。舌も触れてびっくりするような温度ではない。いいお茶だ。それでも、その茶が無くとも少し時間が経ったというのに、ありがと、と言う夢之助の声からはまだ憮然とした雰囲気が取れずにいた。しかし鈍感なのかそれとも流しているのか、徳子は然程気にする様子も見せず自分も新たに淹れたココアをふうふう冷ましている。
「噺家さんはいっぱい喋るから、きっとすぐに喉乾いちゃうんでしょうねえ」
 いただきますの代わりのようにそう言い、すうっと一口飲みこむ一連の動作をぼうっと見つめてしまっていた。そしてその何とはなしに放たれた疑問を考える。自分はそれほどではないけれど、水分が足りなくなって声が枯れたらみっともねえなあ――しばらく茶を啜りながら思索に耽るかと思われたが、あ、と突然上がった彼女の声が、その思考の膨らみを破る。
「そういえば……落語の神様のお辞儀とは別にして、どうして途中で噺をやめちゃったの? 夢さん」
 そうだ。
 そもそも、黙って見ていた徳子が声をかけたのは、そのことが原因だった。それは、と言いだしたものの、言葉に詰まる夢之助。――臆病な夢之助の心は、その矮小さの所為か狡猾であった。きっと、意図的に避けていたのだ。自分の根本を揺さぶる問題を。この問題を掘り起こした徳子はさしずめ、小悪魔の類か何かだろうか。
 だがそう思ってしまうのもまた、醜い心の作用でしかない。
「……夢さん?」
 彼を呼ぶ徳子の声は、どこまでも純粋だった。夜に冴え渡る月の光、空に煌めく星の囁き、森にそよぐ風、夢に流す涙。
 今は夜。真実の時間。それに、だ。夢之助は思う。――ひねれば聞こえてくる深夜ラジオだって、昼間には言えないようなことをこっそり放送してるじゃねえか。
 今は素直に話す時間。臆病な心と向き合う刹那。
 大丈夫。きっと、たいした問題じゃない。夜に見える暗がりが、妙に怖いのと多分同じだ。
「……落語はさ」
 落語って芸はさ、と夢之助は湯飲みを掌で包んだ。
「徳子は落語、面白いと思うか?」
「うん、勿論。私、今までよく落語を知らずに生きてこれたと思ってるくらいよ。落語、まだまだ知らない噺やわからないこと多いけど、好きよ」
 目を細める彼女が無性に愛おしかった。けれど今はそれをどうこうする時間ではない。
「まあ落語家の家に厄介になってんだからな。家賃の他に落語愛がなかったら、今頃師匠に追い出されちまってら」
「あら、師匠はそんなことしませんよーう」
「俺らの前座時代を知らねえから言えんだ、んなこたぁ」
 自然と笑えているのは、徳子の持つ柔らかい雰囲気のお陰だろうか。笑みを浮かべたまま、茶を啜る。
「夢さんだって当然、落語は面白くて楽しいって思ってるんでしょう?」
「思ってなかったらこんなカタギじゃねえ商売やれるかよ」
「よね。だったら余計不思議。どうしてそんなこと訊くの? 当たり前の話じゃない?」
 純粋故に奇をてらわない彼女の声に、ゆっくりと湯呑を下ろす。
「まあ確かに、当たり前の話なんだけどよ。だからこそ、何か不思議だなって思うことがあってよ」
「何?」
「落語は、楽しい」
 けど。ぱっ、と夢之助は湯飲みから手を離した。

「あれは独りぼっちでやる芸なんだ」

 呟いた一言が、夜のしじまに深く響いた。あるいは蒼い蒼い、底の見えない湖に広がる、途切れることのない波紋となった。ひとり、と徳子でさえもどこか呆然とした面持ちで呟く。その呟きもまた、底なし沼に深く重く飲み込まれていく石になる。
「どれだけクスグリの多い噺でも、どれだけ人が笑っていようと……あれは、たった一人でやる芸なんだ。漫才やコント、喜劇とは全然違う。上下振って、手ぇ振って振り返して、扇使って手拭使って、たった一人で、何十人と演じ分ける」
 でも独りだ――重くなる雰囲気を変えようとして乾いた笑いを浮かべるけれど、僅かな光が暗闇を深くするように、その効果ははかばかしいものではない。
「俺は、確かに落語が好きだ。だけど、俺に力とか、素質がなかったら……誇れるようなくらいの力が無かったら……俺の前にはきっと誰一人として、俺の高座を見ようと思うお客さんは、やってこねえ」
 その笑いはいつしか、嘲笑に変わっていく。
「寝床の旦那と同じだ。でも寝床と違って、俺は権力も何も無い、ただの二つ目風情に過ぎねえ。客を集めることも出来ねえし、たとえ無理やり呼んだところで、誰も噺なんか、きっと聴きやしねえ」
 残像が強く明滅するように脳裏に閃くのは、誰もいない寄席の幻。たった一人座布団の上に座っているのは、夢之助だ。
 観客も、下座の人間も、誰もいない。夢之助はただ、独りだった。
 聴く人がいなければ、落語の世界は創れない。どれだけ夢之助が熱っぽく語ろうとも、どれだけクスグリを改良し、こなれたものにしようとも、どれだけ噺に奥行きを持たせようとも、それを受け止める人がいない限り。
 いいや――その噺をもっとより良いものにするなど、果たしてそんなことが自分に出来るものなのか?
 夜だからこそ真実に肉薄した夢之助は、その真相に呑みこまれんとする。
 背き続けていた事実。理解しているようでいて、その実無視し続けてきたこと。

 自分には力量が無い。
 独りだから、事実から夢之助は逃れられない。

「俺は」
 独りなんだ、と一瞬でいて果てしなく深い思惟の果てに出た言葉は掠れた故に軽く、まるで自嘲しているかのようだった。いや、きっとそうなのだ。嘲りの言葉でしかないのだ。夢之助は再び湯呑に手をつけると、茶を飲むでもなく、ただその暖かさに浸った。視線は湯呑に注がれ、自然と彼は俯く形になる。
 そして沈黙が落ちる。何かを悼んで消え入るような、沈んでいくだけの無音に、きっと徳子はこの場から消えていくんだろうとばかり夢之助は思っていた。夢之助だってそうするつもりだった。そして朝起きた時、夢のようにすっぱりと忘れてしまって何事もなかったかのように挨拶を交わし合うんだと、そう決めつけていた。徳子は、笑いの消えたこんなところに一秒だって、いたくないだろうから。弱過ぎる本質が露呈した夢之助のことを、きっと否定するだろうと思うから。
「ねえ、夢さん」
 けれども徳子の声は、その存在は、未だに空間に残る。
「私はね、落語の真髄とか難しい話とか、全然わかんないし、それどころかどういうものかってこともわかんない……大体、ほんの少し前まで、落語が何だったかも私、知らなかったわ」
 ゆっくり顔を上げてみると、徳子も言葉を探すように自分のカップに目を向けていた。
「そんな私が、あなたに言えることなんて何も無いのかもしれない。っていうか、夢さんの言うことは……きっと正しいんだと思うわ。真理よ……きっと。落語は、ひとりぼっちだわ。どこまでも」
 それは――彼女が本家で独りぼっちだったことにも、暗に繋がるのだろう。彼女もまた、落語のように自分でいて自分でない誰かを演じ続けてきた。二人が最初に出逢った時も、ずっとずっと演じ続けていた。それは悲劇であったが、ある意味では落語のような喜劇に近かったのかもしれない。喜劇は時として、悲劇よりも悲劇的だ。
「そうね。落語はいっぱいいろんな人が出てくるのに、一人でやる芸なのね。きっと他の人からしたら、もしかしたら、少し、寂しく思えるかもしれない。独りよがりだなんて言われちゃうかもしれない。そのさじ加減がわからなくって、多分、夢さんだけじゃなくて……夢う君も、丸さんも、夢了兄さんや夢路さん、それに夢音師匠だって悩んだんだと思うわ」
 師匠も、兄弟子達も、自分よりずっと出来が良いと思っている夢丸も、伸びしろがあり将来有望な夢う太も似たようなことに悩んだ過去があり、あるいは今まさに悩んだりしているのだろうか。でも――その人の懊悩なんて誰にもわからない。誰にもわからないからこそ、そうであるかも知れない。
「でもね、夢さん」
 気付けば、徳子はカップから目を離していた。夢之助を、その純粋で、かつ凛とした瞳で見つめている。まるで、師匠に見つめられているみたいだ。背筋が無意識のうちに伸びていた。
「私は決して、一人でやるからって、落語が寂しいものだとは思わない」
 全然思わないっ、とやや大袈裟に首を振る。彼女の緩く巻いたボブヘアも揺れた。徳子、とそれを止めるでもなく、夢之助はただ呆然と呟くのみ。
「だって面白いんですもん!」
 どん、とテーブルを叩いた彼女の意見は、まるで子供のそれだった。
 けれど――だからこそ、的を射ていた。
「すごいのよ! 人を笑わせることが出来るのよ! 笑顔にすることが出来る! おじい様が教えてくれたわ、一番大事なのは笑うことだって」
 彼女が信奉するおじい様が――それは彼女の父親のことなのだが――一番大切なことを徳子に教えてくれたお蔭で、彼女はそう強く、夢之助の真実に勝る真実を惜しみなく捧げることが出来るのだろう。
「それって本当にすごいことよ。人を泣かすこと、悲しくさせること、不快にさせること、絶望させることは簡単に出来ても、笑わせることってすっごくすっごく難しいんだから! って、私、あなた達みたく人を笑わせようとしたことなんてないけど……でもきっと難しいはず!」
 そう言って、彼女は笑うのだ。
「私、最初は落語なんて古臭いことしか話さないし何が面白いのって、そうやって馬鹿にしてたけど、私、夢さんの落語、すごく好き」
 え、と思わず転ばせそうになった言葉を、寸でのところでぐっと飲み込む。徳子がすごく好きと言ったのは、「夢之助の落語」だ。だけど無理に飲みこんで息を詰めた所為で、多分頬は赤くなっているだろう。
「夢音師匠のも、夢了兄さんのも、夢路さんのも丸さんのも夢う君のも、大好きよ!」
 案の定――彼女の大好きは一門全員の落語に与えられている。すごく好きと大好きではどっちの方が大きいのか、ちょっと訊いてみたくもなったが――そうするといかにも器が小さい男に見えるだろう。恋仲にもなっていないのに。ただ、徳子、と様々な想いを込めて彼女の名前を呼ぶばかり。
「む、無理やり言ってるだけかもしれないし、夢さんだっていろいろ思うところあるでしょうけど……でもその、えっと……」
「いや、俺は、その……」
 もっと夢之助が捻くれていたら、確かに、彼女のあり過ぎる隙を突いてもっと様々にやりこめるところだろう。でもそうしなかったのは――夢之助が救いを求めていたからに他ならない。
 そんなことないと、誰かに言って欲しかった。出来れば――夢之助がさりげなく好意を寄せる誰かに。
 弱い。夢之助は弱かった。誰かに慰めて欲しかった。二つ目風情にそんな甘さは毒にしかならないというのに――それでも求めてしまった。落語の人物が酒に、博打に、女に懲りずに溺れるように。でも、それでいいのかもしれない。
 落語は、人間の弱さを認めてくれる芸なのだから。
「だっだいいち!」
 深夜にあるまじき大声を、あろうことか徳子は放った。
「夢さんが自信失くしてるのがいけないのよ! な、何よ、最初はあんなに私にうるさく言ってきたくせに!」
「な……それはお前が落語を馬鹿にしたからだろ!」
 負けじと夢之助もどんとテーブルを叩いた。それが起爆剤となって、出逢った当時の徳子との軋轢の記憶が甦り、瞬時に夢之助をむかつきの最奥地へと至らしめてしまう。
「こんな時代遅れな、じゃなくて時代錯誤? だったっけか? とにかくそんな世界を誰が面白がるんだとか何とか! てめえの方が十分時代錯誤じゃねえか、縁談が嫌で家逃げ出してきたお嬢様とか、あぁ? んだぁべらぼうめが、冗談抜かしやがんな! 落語の方がもっと華があらぁ、下男の一人や二人と心中でもしてみろってんだ、ったくよォ!」
 思わず喧嘩腰、しかも落語な訛りでまくし立ててしまった所為か熱が入ってしまったのだ。夢之助が徳子をずたずたに斬り裂く地雷を踏みまくっていたことに気付いたのは勢いに任せて呷った茶が嚥下し切った後だった。
 何も言わない徳子を見ると――震えながら顔を固くし、目頭を熱くさせている。
「あ……ああ、す、すまん、悪かった! すまん!」
「ふ……うう……」
 きっと、声を上げてわんわん泣くのだろうと思ってたが――顔を覆って僅かな嗚咽だけを漏らし、さめざめと泣く。あああ、と夢之助の方が途方に暮れて泣きたくなった。がしがしがし、と激しく頭皮を掻く。
「あー……えー……。隣の家に囲いが出来たってさ! へぇー。……」
 嗚咽は止まらない。洟を啜る音もする。
「えー……。鳩が何か落としていったぜ! ふーん。……」
 嗚咽はやはり止まらない。
「んん……。煙草盆が倒れた! はい、拭きましょう! ……」
 嗚咽はけれども止まらない。
「あー……。お母ちゃん、パンツ破けた! またかー。……」
 嗚咽はちっとも止まらない。いや――これはもはや、嗚咽ではないだろう。
「おい徳子! お前泣きやんでんなら顔上げろ!」
「ぷっ……ふふふっ、ごめんなさい!」
 泣いていたのは本当のようだけれど、少し腫れた目元も、笑うとある意味華になる。涙に濡れた後の笑い程――きっと尊いものはないのだ。
「くだらない! すっごいくだらない! ふふふっ」
「とか言いながら笑ってんじゃねえか」
「だってくだらないものってすっごく面白いもの!」
 違えねえ、と――夢之助も笑ってしまった。彼と彼女が愛する落語ほど、くだらなくて面白いものも他にない。
「ね、夢さん」
 笑い転げる自分を落ち着かせるようにココアを一口飲んで、徳子は改めて言った。
「落語は一人かもしれない。孤独かもしれないわ。でも、ちょっと考えてみるとすごいことだと思わない?」
「何が?」
 だって、と零れた笑顔は雨上がりの空のよう。実際そうなのだ。
「一人であれだけ素敵な世界が作れるのよ? 噺家以外には座布団一枚、扇と手拭があれば、もうそこが江戸時代でも、明治時代でも、何だったら現代にも、日本にも外国にもなっちゃう。たった一人の口と仕草でだけよ!」
 徳子の言っていることは――どんな落語の初心者向けの本にでも書かれている、言わば陳腐な言葉に過ぎなかった。
 だけど、夢之助の心にこれ程まで新鮮に迫ってくるのは、どうしてだろうか。
 心が一度、綺麗に――まるで生まれ変わったように、洗われたのかもしれない。
 彼女の言葉で。笑いが何より大事だとわかっている、彼女の真心で。
 ――けれど少し抗いたく思ってしまうのは、元来自分が捻くれ者だからか、あるいは臆病者だからか。おそらく、後者だろう。
「でもよ、誰か聴いてくれる人がいねえと、その世界も落語家の頭ン中だけになるんだぜ」
 そ、う、だ、け、ど、とまるで歌うように言葉を区切る徳子。怪訝な口調に首を傾げた。
「そんなに卑屈にならないで夢さん。さっきも言いましたけど、私、夢さんの落語好きなの」
 彼女は純粋故に奇をてらわない女だからこそ――その言葉はまっすぐに届けられる。
 そしてその好きを勘違いしてしまうくらい、夢之助は、舞い上がる。――決して悟られないように、急いでお茶を飲むふり。気付いているのかいないのか、徳子はくすくすと玉が弾むように笑った。
「たとえ……夢さんの落語が誰からも認められなくても、誰一人、いなくなったとしても……あなたの客席には私がいるわ。きっといる」
 笑いを穏やかに浮かべたまま、徳子はさも当たり前のように伝える。

「私と落語の神様が、二人並んで、ちゃんと見てるわ。そして、いっぱいいっぱい笑うわ」

 ね、と深めるその笑いが、夢之助にはどんな高名な噺家の笑顔よりも、どんな影響力のある演芸評論家の絶賛よりも、ずっとずっと、尊く思えた。大事なものとなって、心に溶けていく。

 神と評される程素晴らしい噺家の高座でも、客席をどっと沸かせる熟練の噺家でも、この笑顔一つにはきっと敵わない。
 そう思う。

「……お前一人だよ」
 照れた顔を――今は隠しもしない。けれど、言葉だけはどうしても恥ずかしく、小声になる。いい加減赤らめた顔を晒すのも恥ずかしく、空になった湯呑を持って立ち上がる。
「え? 何、何て言ったの夢さん? 夢さーん」
 けれども深く追及することもついてくることしないようで、んもう、と徳子は膝の間に手を突っ込んでぶう、と唇と尖らせた。その一連の動作を何気なく、しかししっかり見届けながら、夢之助は笑いを押し隠した。――ついてきてくれることを期待したけれど、そこを裏切るところが徳子だ。すっかり、翻弄されている。そうだ。彼女と出逢ってからずっと。

 まるで意地悪で生意気で――だけど笑顔が何よりも美しい神様にあっちこっち、駒を動かされるみたいに。

 まったく、と肩を竦めて、夢之助はこう呟いた。

「……お前が俺の、落語の神様だよ」

 願わくば、夢之助だけの――と深奥で想ったことは、さすがに言葉に出来なかった。


(了)

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