「人とは違う特別なものを持つ存在、恐るべき存在が、恋をすることによってその特異性を失い、普通の存在になる。こんな物語は昔から腐るほど紡がれてきました」
「ひょっとすると、あなたの力も」
 彼女は頷く。
「そういう点では、私は決して特別なものではなく、ひどくありふれた存在です」
 そうです、と目を伏せた。
「私はSに恋をしたことで、力を失っていきました」
 私は一つ瞬くだけ。彼女は続ける。
「Sは花を咲かせるものにしろ、破壊のものにしろ、私の力を喜んでくれていました。力があるからこそ私はSと親しくなれたし、そう思ってもいました。……実際は、力と私は分離して考えられていたし、私に興味など彼はなかったのですが。あるように見せかけておいて。それも巧妙に」
 愛してはいなかった。恋してもいなかった。そのように見えるそれらは全て仮面だった。
「彼に盲目になっていた私は、力が次第に弱まっていくことに悲嘆を隠せずにいられませんでした。彼の喜ぶものがなくなってしまう、彼との繋がりが消えてしまうと」
 おかしいですよね、と失笑を浮かべる彼女。
「こんな力いらないと思っていたのに、いざ消えようとすると惜しくなるなんて」
 人間はいつもこう。都合のいいことばかり言って。その嘲笑はそう語る。
「不安になって、思い切って彼に打ち明けました。そして私は彼に……強い睡眠薬のようなものを飲まされました」
 睡眠薬? 不穏な言葉。思わず口にしてしまう。彼女は頷く。
「それまでにも何度か、何かの実験のように薬を飲まされたことがありました。飲んでから意識を取り戻すまでの記憶は、ほとんどありませんでした。おそらく薬の所為で深く眠りについていたようですので」
 今考えてみれば、と額に軽く指先を当てる。
「あれは私の能力を更に開発しようとしていたのかもしれません。私を催眠状態にして……具体的に何をしていたかまではわかりませんが。薬がなくても、私は彼の指示で力のコントロールの訓練をしていました。その日の薬は特に強いものだったようで、尚更です」
 指先を下ろし、きゅっと握った。
「もし私の力に人格があって、今でも生きているならば、その時の状況を詳細に語ってくれたかもしれません」
 ですが、と目を伏せる。幾分、哀しげに。
「もう力は失われています」
 別れの言葉を告げられずに死別した、肉親を想うかのような声だった。
「彼は私に興味を失いました。掌を返したように、その日以降彼は私を無視するようになりました。
 それでも初恋に浮かされた愚かな少女でしかない私は、彼に振り向いてもらおうと努力しました。……一番大切なものを、彼に渡してまで」
「それは」
 彼女は口を閉ざす。沈黙が一秒、二秒と重々しく募る。ややあって、幾分言いにくそうに目を逸らしながら、口を開いた。
「私は処女を彼に捧げました」
 言ってしまえば何てことはないと思ったのか、頬を赤らめながらくすり、と笑う。それはやはり嘲笑の類のものではあったが。
「思春期らしいでしょう? 体さえ繋げば、それが性欲の処理目的であっても彼と共にいられるし、それでいいと思ったのです。孤独の極地に立たされていた私にとって、彼の存在はそれくらい大きかったのです」
 浅はかですね、とその嘲笑を徐々に消していく。
「私自身に興味はなくとも、彼は肉体的に多感な高校生です。いくら彼が笑顔の裏に冷酷さを隠していたとしても、本能たる性欲には逆らえない。それに、能力のない私は用済みなのです。――傷つけても、壊しても、どうと言うこともない」
 私はそれだけのモノでしかない。
 その言葉に、むごいと感じる。人知れず私は拳を握った。
「捧げるということは、捨てること。私は処女を捨てました。つまり彼に捧げました。でも、彼もまた捨てる立場でした」
 おわかりでしょう、と視線が投げられた。
「彼は処女を捨てた私を捨てたのです」
 捨てると言う意識すらなかったかもしれない。最初から捨てていたならば。
「それに彼との行為は、ほとんど強姦にも近かったのです。快楽も恥じらいもときめきも、性交渉を美化するそれらは何もかもありません。恐怖と痛みと屈辱と絶望しかありませんでした。彼のことを、僅かでもまだ好きだったはずなのに、その僅かな好意さえも凌駕するものでした。先ほど私は支配と言いましたが、事実あの時、私は一時的に肉体を圧倒的なまでに凌辱され、支配されました」
 女性が感じる性的暴行の精神的被害など、男性の私がわかるはずもない。ただ悲痛の意を示すために沈黙するしかない。すみません、重い話を、と察してくれた彼女は形だけ微笑んだ。
「でもそれも、彼にとってみたら、いかなる性行為も単なる実験でしかなかったのかもしれません。かつて異能を持っていた少女の処女を奪えばどうなるか。激しく凌辱を加えたらどうなるか。狂おしい恐怖と絶望と虚無の中でそれを感じました。
 私は徹底的にモノとして扱われる我が身をようやく見出したのです」
 本当に馬鹿ですよね、と彼女は悲しげに笑った。
「繋ぎ止められると思って、一回きりしかない大事なものを、私はあまりにもあっさりと捨ててしまった。こちらが捨てられるとは、思いもせずに。ひどく幼稚な考えでしたし、傲慢でもありましたね。そんなもので繋ぎ止められるくらいなら、この世には別れの運命を辿る恋人同士など存在しないはずです。
 それに加えて、私にはその力以外、何の力もなかったし、何のとりえもなかったのに、本当に愚かでした。ある意味では……その年頃の少女らしいとも言えるのでしょうが」
 時に少女とは恐ろしいことを平気で成し遂げてしまえるのですよ、と薄く笑った。思うところあり、私も頷く。
「処女を強奪されて以来、私はSと会うことはありませんでした。顔も合わせることも、極力。本能的に彼を避け続ける日々が卒業まで続きました。
 今はもう、どこにいるかもわかりません。どこかで教師として働いているのかもしれませんが、出来るならもう二度と会いたくない人間です」
 そこで話は一段落ついたようで、お互いにグラスに口をつけ、潤した。
「力を失ったことは、きちんと家族に話しました」
 しばらくもしない内に、彼女は続ける。
「皆、半信半疑でした。当然ですね。確かめる術もないですし、私が嘘をついているだけなのかも知れませんし。それに、私を疎んじる時があまりに長過ぎました。わだかまりがあり過ぎました。でも今更それを無理に解こうとは思いません。今も、その当時も。
 父や母は、でも、罪悪感を少なからず抱いているようでした。今更罪悪感だなんて、疎んじておいてむしが良すぎる、と憤ることもなければ、恨んでもいません。恨むにしろ怒るにしろ、私はもう疲れ過ぎていたのでしょう。絶望しきっていたのでしょう」
 そして二人と彼女の間の溝は、これから先も埋まることはない、のかもしれない。
「理由については話しませんでした。話せることでもないでしょうし、私が処女でなくなったことを知ればそれこそ卒倒ものでしょう。父も母も、成長によるものだと理解してくれたようです」
 彼女はどこか遠い目を浮かべた。
「少しずつ、私は普通の人として生きていくことにしました。特別でなく普通である、ということもまた一つの立派な幸せです。私は沢山傷つき、沢山孤独の夜を過ごし、やっと幸せを手にしたものです。代償は、いくらか大き過ぎるものでしたが」
 初めての恋と処女。そして力そのもの。彼女は掌を見つめた。
「けれども、今も花に惹かれて、ああいった作品を作るのは、力に未練でもあるのかもしれません」
「花の方が、あなたに新しく飾られたいと思っているのかもしれません」
 唐突に聞こえる私のこの言葉に、彼女はいくらか驚いたようだった。目が丸くなるのを、彼女は隠さなかった。ありがとうございます、と微笑んだ。一つ息をついてから、時々思います、と彼女は再び言葉を続けた。
「恋をしたから消えたのではなく……私の「力」の方から、能動的に消えてしまったんではないかと」
「それは、Sによる支配を忌避してでしょうか」
「それもあると思いますし、それだけかも知れませんが」
 私はこう思いたいのです、と手を組む。

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