なしえた時に神はおらず



 部屋にはベージュの光が満ちていた。カーテンの色だからだろう。まだ太陽は完全に姿を現していない。それでも大分、部屋の中は明るくなっている。まだ深夜としてもいいくらいの時間なのに、夏だからな、と私は頭を抱えながらむくりと起きた。
 そうだ。もう早朝という括りになっている。季節と共に、時間の異名は変わる。隣には彼女が眠っていた。まだ起きそうにもない。完熟した眠りに、明度は関係なかった。私と寝る時にも外さない信心の証である指輪は、しかし曙の光を少し反射した。私は眉を顰める。
 一旦私が部屋を出て、水を飲んで寝室に戻ると彼女は上半身を起こしていた。さっきまで、どう見てもまだ夢の空間を飛翔しているように思えたが、彼女の覚醒の自然さは目を見張るものがあった。まるでずっとずっと昔からそこにいる、くじらのように見えた。その例えが自分でも可笑しくて私は一瞬頬を緩めたが、彼女が指輪を撫でているのに気付き、すぐ口の端は下がった。
「気付いてしまった」
 ドアを閉める音で彼女は私がいることを知ってか、そう言葉を発した。私が容易に返事出来なかったのは、多分その声が、まるで心の的の真ん中を静かに、しかし確実に射止めたかのように明瞭だったからだろうか。それとも、これから起こる話の内容を暗に予感していたのだろうか。

「私、あの方を殺めたくなってしまった」

 その言葉が、これからこの部屋に起こる物音を全て消し去ってしまったかと、一瞬戸惑う。沈黙が降りてきて、部屋は朝の様相を見せ始めているのに、夜を再構築しようとしている。彼女を愛しむのなら、別にそれでも構わない。だけど彼女の横顔も目も声も、どこか遠い。夢か、あるいは魔の世界のものだった。
 少し進んで確認するように彼女の頬や髪に触れてみる。私の心配は杞憂どころか妄想に過ぎない。まだ彼女は現実のものだった。例え私のものでなくても、少なくともこの世界に属するものだった。それでも私はほんの少し安堵する。
 落ち着かせようと――実際彼女は落ち着いているも同然だが――私は煙草を彼女に勧めた。特に何も言わず彼女は一本取り、私と同時に吸い始めた。彼女の煙草を吸う姿はいつも美しかった。火を灯す時、口から煙を出す時、灰を落とす時、煙草の命を潰す時、それら全ての所作が私の琴線に触れては愛しさを生んでいったのだ。

 彼女が言ったあの方とは、私達が属する宗教団体の、所謂教祖にあたる人物だった。まだ年も若く、彼女と変わらないくらいだ。美しく聡明で、正直嫌な印象ばかりが付随する「教祖」の座など降りればいいのにと思う程、この宗教には勿体ない器だ。私はそう評する。まあ、この宗教は――どこの宗教でもそうか――そもそも教祖がいないと成り立たないわけだから、私のような幹部候補が何をとちくるったことを、と他の幹部や信者が聞けば一笑に付されるか、激怒されるかだろう。
 彼女は、この宗教のと言うよりも、教祖自身の敬虔な信者だった。いつ頃からここに所属しているのか定かではないが、色々あったらしい。彼女はそのことについて、私とこういう関係になっているにも関わらず話そうとしなかった。彼女が私のことを本当に好いているのかすら疑わしい。彼女の想いは常に教祖に向いていた。ただ寂しい時間を埋めるだけのために私はあるかのようだった。私の方は決してそんなことは無かった。そんなことは無い。
 私の方はというと、彼女には悪いがろくに信仰をしていなかった。そもそも私の一家――一族自体がこの宗教なのだ。今の教祖の何代か前から入信したそうで、私自身それこそ乳幼児の頃から宗教教育をされてきたわけだが、残念ながら現在の私には、この小さな世界に別段興味はない。どこでスイッチが切り替わったのか定かではないが、彼女と好きな作家や音楽以外にはとんだ無関心を持て余している。ただコネを使って幹部候補になれた、就職に困らなかったという点では感謝していた。感謝も信仰の内に入るだろう。ちなみに主としてこの団体の経営に関わる仕事に携わっている。
 私の方が、煙草を吸うのは早かった。灰皿に一つ、骸を転がす。
 彼女と私は、立場を入れ替えられればいいのに、と思うことがあるくらい、信仰の面で差がありすぎた。この小さな世界に懐疑の想いを少なからず抱く私は、とてつもなく不信心で罰当たりな奴だ。彼女はしかし、それを知ってか知らずか、私に反抗する気は見せなかった。

 彼女にとっては宗教という容れ物などどうでもいいのだ。教祖が全てだった。

「何故、急にそんなことを言う」
 神の啓示など、常に突然だ。やれやれと私は心中で肩を竦めた。大方怖い夢でも見てしまったのだろう。彼女が愛する教祖を殺してしまったとか、誰かに奪われたとか、そういうものに違いない。しかし彼女は首を振る。夢は見なかったとその桃色の唇は当然のように結んだ。
「さっき起きて、気付いたの。本当に急に。何もきっかけなんかなかった。それだけよ」
 淡々と言い、煙草を吸う。まるでスプーンをひらりと動かして優雅にスープでも飲んでいるかのようで、私はその言葉の意味を考えながらも惚れ惚れしていた。実際考えてなどいなかったかもしれない。しばらくして彼女はこう言う。
「私は残念ながら、大勢のうちの信者の一人でしかない」
 何かを考えるように煙草の煙の行方を目で追うと、ゆっくりと腕を布団の海に流す。力なく煙草は彼女の指と指の狭間に収まっていた。
 大勢と言ってもたかが知れているし、幹部候補の女だと思えば、いくらか教祖に近い筈である。だが私達は教祖の何たるかを残念ながら、彼女でもよく知りえなかった。それくらいには、確かに遠かった。
「ねえ、その人のたった一人になるには、何をすればいいと思う? 確実な方法として」
 こちらを向かずに訊いた。首を振ったが、それを見ていない彼女は無音を回答として取った。

「あの方を殺すことが出来れば、私はたった一人の人になれる」

 ようやくこちらを向いた時、煙草の灰が微量ながら脆くシーツに零れていく。

「命は一つしかなくて、そして殺すことは、一回しか出来ない。
 初恋や、ファーストキスや、処女や童貞喪失と同じようなものよ」

 彼女ははっきりとそう述べた。
 命をその三つと並べることが出来る彼女の異常さに私はやや目を丸くして黙った。心中では苦笑した。しかし苦笑している場合でもあるまい。彼女の目はひどく澄んでいた。まるで生まれたてであるかのようで、私の乾いた目を呪ってしまいたくなる。



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