「命を奪うものは多くの人の場合、時間。
 だけど、時間になり変って私が奪ってしまえば、あの方の死は私のものになったと言えるんじゃないかしら」
 同じことよ、そう言う彼女は変に高揚してはいなかった。落ち着いているのだ。それが逆に恐怖を呼び起こす。
「ユダがキリストを売った気持ちは、もしかしたらこういう気持ちだったかもしれないわね。彼の弟子の名前を知らない人でも、ユダくらいはわかりそうだもの。彼とキリストは、切っても切れない関係にある。
 現代ならジョン・レノン。そういえば、彼を射殺した犯人は、狂信的なファンだったってね」
 何も間違ってはいないと、その瞳は語っていた。もう少し深奥を知りたかったが彼女はふいと正面に向き直った。煙草の煙はまるで制限時間を切り刻むように立ち上る。私はでも、とろくに考えもしないで言葉を放った。だが、きちんと的は射ていただろう。

「でも、そうした時に、もう神はいなくなる」

 何かの命を奪おうとすれば、その存在はいなくなる。その世界に自分と対象は、同時に存在できなくなる。永久に、此岸と彼岸に分かたれる。誰にでも備えられている、世界の真理だった。
 彼女が奴を殺せば、確かに彼女はたった一人の殺人者とやらになれるのだろう。だがそうするとこの世界は奴の存在する世界では無くなる。そうなった時に、彼女の居場所は果たしてあるのだろうか。私にはひどく、疑問だった。同時に、私では居場所を作れないと、図らずも悟ってしまった。
 瞬間、ひどく落ち込んで、まだまだ吸える煙草をぎりりと押し潰した。
「わかってる」
 彼女は煙草を吸った。灰は空気中を踊る。
「わかってるわ」
 そしてまた煙草を口から離し、頼りなく指で挟み持った。火はじりじりと煙草の命を終わらせようとしていた。彼女は灰皿に灰を落とすことも無く、随分長い間無言を貫きながら遠くを見つめていた。少しだけ目を閉じて、煙草をシーツに押し当てて消した。白いシーツには時間の経った血痕のように、忌々しい茶色の焦げ目が出来る。そうする姿は、何故かあまり好ましいものでない。
 彼女にとっての神は教祖だった。神を殺した時、彼女が生きる意味も無くなる。

「だから嫌い。この世界が」

 煙草の死骸は布団から転がり落ちていく。シーツに焦げ目を作ったこともそのことも普段なら私は容赦なく怒るところだが、言葉を奪われたようで何も出来なかった。ただ立ち尽くしていた。
 そしてそう言った彼女の目は、未だ遠くを眺めていた。その目に私は映っていないだろう。そこにいるのはきっとあの美しい現人神だ。私は彼女を救うことはどうしても出来そうになかった。彼女を救うのはあの神以外にいなかった。そうしてその神は大勢の人が崇める神だった。
 私は彼女に何も言わず布団に入った。予想していたより布団は冷たい。彼女の体温もさほど高くなかった。今日の予定の時間までまだあるから、寝ようと私は提案するが、彼女は遠くを見つめたままうんともすんとも言わなかった。私も何も言わなかった。

 目を閉じて考えた。私はこの世界が好きだった。彼女がここにいるからだ。例え彼女を救うことや、心から楽しませることが出来なくても、彼女が本当に、何よりも一番に想っているのはあいつだとわかっていても、私は彼女が好きだからだ。それはどうしようもない感情の結果だった。彼女が殺意を抱いたのと同じくらい、純粋だった。
 彼女もきっとこの世界が好きなはずだ。あの方が、あいつがこの世界にいるからだ。それに気付けない程、彼女は凡愚ではない。ただきっと、愛が重すぎて視界を霞ませているだけだ。殺せばその人のたった一人になれるなんて、そんなの幻想という名で呼ぶことさえ憚られる。思い込みも甚だしい。馬鹿だ。
 いつの間にか、彼女にそんなことを思わせるあいつを、つまりは神を私は呪い始めていることに、夢へ堕ちていく中で気付いた。そしてその時、私は初めて誰かを殺したいと願った。強く強くその存在の消失を希った。

 曙の空はまもなく太陽が完全に顔を出す。ますます神々しい光に充ち溢れるであろうその部屋に、二つの殺意が同居しているのを私はどこか可笑しくさえ思った。一方はひどく愛するが故に、一方はひどく憎むが故に、同じ形に昇華している。
 愛と憎しみはよく同じものだと言われる。実際は確かに正反対なのに、結果としての一致に私は苦笑どころではなく笑ったが、それはもしかしたら夢の世界でだったかもしれない。ところで、夢から覚めた時、彼女の殺意が消えて私のだけ残ったとしたら、私はどうするべきだろうか?


 そう思ったきり、視界は真っ暗になった。私はもう、そこから何も覚えていなかった。



(了)

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