「それにしても、毎日毎日飽きずによく降るよねえ、雪」
 彼は窓辺の、暖房機に近い所に立ち、雪を見ながらそう一人ごちていた。独り言にしては声が大きい。多分私に話しかけているのだろうと思う。
「こんな調子で、本当に春は来るのかなあ。
 でも、冬来りなば春遠からじって昔から言って――」
 こちらこそ毎回毎回飽きもせずよく言うわね、という気分だった。彼は挨拶のようにまた雪だね、よく降るねえ、寒いねえと言っては相手を見るより雪を見ている。天候は雪なのに、まるで春のように暢気なものだった。最初に出逢った時から、そういうところはあまり変わっていない。
 さて私はというと、彼に恋をしているとあのうるさい奴に正面切って認めたものの、まるで私の想いを知らない鈍くて暢気な彼に若干、いや結構呆れていた。この私から想われているのだから少しはしっかりして欲しい、というかこの想いに気付いて欲しいと思う反面、あの暢気さ、素直さこそが彼の魅力だから別にいいかと甘やかす自分もいる。
「そうだ、春になって桜が咲いたらみんなでお花見に行こう!」
 私は資料を纏め、机で叩き揃えながら、提案してきた彼に対して冷ややかな目を送る。自分の案にわくわくして目を煌めかせている彼はそれに気付けない。
「春は新入生の歓迎イベントとか、新しい役員の選挙とか、その引き継ぎとか、いろいろあるでしょう? そんな暇ないわよ」
 私は溜息交じりに言った。まあこの世界は繰り返すし、そうでなくても生徒会役員に立候補する人は少ないから信任選挙になるわけだけど、それでも春は何かと雑多なことは多い。そういえばそうか、と彼は寂しそうに肩を落とした。
「僕一人でお花見か」
 一人でも行くのね、と私は心中で呆れざるを得ない。全く本当にお馬鹿な人だわと窓辺の彼を見つめながら、ばれないように苦笑する。彼は暖房の前で丸くなる猫のように大人しくなって、やはり舞い降りてくる雪を見ていた。
 雪は触れると身にしみるほど冷たく、同時に寂しく切なく儚く思うものなのに、暖をとっている彼にとってその天の欠片は暖かさの象徴のように見えているのかもしれない。愚かだった。

 だけどどこか切ない横顔に、私は恋をしていた。

「私も一緒に行ってあげるわよ、お花見」
 見惚れながら、気付いたらそう口にしていた。
今までの私だったら、こんな慣れ合うようなことは絶対に、口が裂けても言う筈がなかった。それもこれも全部彼が好きだからで、そして私が彼といたい、二人きりでお花見に行きたいからに違いなかった。
 そんな人間臭い欲望があまりに自然に言葉を成す。もう完全に人間に近づいているが、悪くない。
 自分がこの先どうなるかなんて、よくわからないし、別にどうでもよかった。
 彼とさえいられれば。
「本当かい? うれっしいなあ!」
 やったあと手を鳴らす。子供のように喜ぶ彼にこちらが恥ずかしくなってしまう。本当は私もそれくらい無邪気に喜んでみたいけれど、まだまだ私の中に残る矜持が許さない。
「じゃあお弁当作って持って行くから。これでも料理が得意なんだよ」
「全く、ピクニックか何かじゃないんだから」
「? お花見するんだったら桜の下でご飯じゃないかい?」
「え……そ、そりゃあそうだけど……」
 そうなんだ……と私は静かに呟きながら、きょとんと首を傾げている彼から目を逸らす。ただ何か彼と話を続けたかった気持ちと、嬉しくて舞い踊りそうな自分を抑制し、彼に何か反抗したい理性と、人間のそういった慣例行事にあまり明るくない事情からこうなってしまった。部屋が暖かいからという理由が通用しない程に、顔が赤くなっていくのがよくわかった。

 目を逸らした先には、いつのまにか霞がいた。

 何をするでもなくぼうっと突っ立ってこちらを見ていた。何か言いたそうな目をしている。こんな自分を彼女に見せるのは初めてだった。目を逸らしたいが逸らすべき先がもうない。あさっての方向を向いてはあまりに不自然だ。
 仕方無い、腹をくくろうと思い、私は堂々と顔を向け彼女に言う。精一杯張った虚勢というものだと思う。
「ど、どうしたのよ、霞。何か、あった?」
「……その、何でも、ない、よ」
 私の態度とは対照的で、冷めていてぎこちない口調だった。声も小さい。しかし、彼女から目を逸らしてくれたので私はそれを疑問に思いながらも安心した。
「あ、もしかして葛城君もお花見に行きたいのかい?」
 彼が私の背後からのっそりその大きな体を覗かせた。
「じゃあ三人で行こうよ、是非!」
 唐突だけども暖かさを感じられる接近に小さな幸せを感じていたが、その発言でたちまち吹き飛んだ。こんなに近くに私がいるというのに、何ということを言い出すのだ。この年中頭が春な男は。
「ちょ、ちょっと待って!」
 これは緊急事態だった。矜持も外聞もへったくれもない。急いで私は彼に立ち向かった。
「か、霞だって生徒会だけじゃなくて、休みの日に部活もあるだろうし、他にも何か用事あるに決まってるわよ、そんな、いきなり持ちかけたら霞が困るでしょ、悪いわよ、霞の事情も考えてあげて、ね!」
 どういう顔をすればいいのかわからないからとりあえず私は笑顔を繕った。だがそれは見えていない私でさえもとても不格好なものだろうと断言できるものに違いなかった。
 顔の筋肉がぴくぴくと引き攣っている。それらでさえも、慌てた私の様子を皮肉って笑っているようだ。まあもともとは彼の馬鹿で空気が読めていない発言の所為なのだから当然だろう。本当は怒りたいのだが、いきなり怒っても鈍い彼はわかってくれまい。
 しかし私も哀れなものだ。二人きりのデートなるものに――二人っきりでいたいがために、下手な笑顔を浮かべたり、不自然に理由を並べたり、とにかく彼の気を彼女から逸らすのに躍起になっているのだから。まるで私の方が馬鹿みたい。彼の方はちっともわかってくれていない。
「ねえ、そうよね霞?」
 もう自棄だ、と言わんばかりに、さっきのように意地になって顔を紅潮させながら胸を張る。
「う……うん」
 しかし彼女もさっきと同じようにどこか元気のない声で返し、やはり私と目を合わせなかった。あまりに人間に落ちぶれた私を呆れてのことかもしれないし、ただ単に調子が悪いだけかもしれない。が、この場をやり過ごせるなら何でもよかった。
「そっか、残念だな」
「先輩」
 私は彼の服の裾を引っ張ってみた。何だい? と子供をあやすように彼は笑った。
「私とだけで行きましょう!」
 このままだと彼はまた他の人を誘いかねない。現状を打開するためには、と、思いきって言ってみた。霞の時とは違う。今度は彼から目を逸らさない。
 一瞬だけ彼が少し頬を染めたのを私は見逃さなかった。
「そう……だね。うん、そうしようか」
 うんうん、と何度も確認するように彼の方が頷いている。私もそれに少し同調してみる。私は笑っていた。今日初めて、綺麗に笑えていると感じられた。
 見逃さなかったその時、嬉しい、と私の心の花が、笑うようにほころんだ。











 初めてのデートだ。廊下でも、帰り道でも、生徒会の買い出しでもない、特別な理由など無いけれど、二人きりの特別な日が私に初めてやってくる。
 日が進むにつれ、春が近づくにつれ、私の心は穏やかになっていった。春麗かな上昇気流が精神を浮遊させているようだった。自然と笑顔を出すことが出来たし、いつもは気に障っていることもまあいいかと許してしまえたし、目に映る様々なことがその日を、彼を彷彿とさせた。
 誰かを好きになること、恋をしていることの威力を、私はここまできてようやく実感していた。出来ないことも、現実にあり得ないことも、私自身の特殊な力を使うことなく出来るんじゃないかと、そう思う。
 私は春を待った。私の名前の花が咲くのを一途に待った。
 待ち合わせの場所は、校庭の恋人桜だった。桜並木から離れた場所に咲いている二本の桜のことで、この桜の下で告白し、成就すると、そのカップルは永遠の幸せが約束されるという。
 その噂を初めて聞いたのはどれくらい前のことだろう。馬鹿馬鹿しい、くだらないと思っていた。恋なんていう人間のふざけたメカニズムに私はその頃、憎悪すら抱いていたかも知れない。随分昔のことだから忘れてしまったけれど、もし恋に少しでも理解があるなら、そういう風には思わない。
 その日彼にそこであったら、何よりもまず私は、彼に想いを告げようと思っている。
 私のたった一つの恋が叶うように。

 私達の永遠の幸せを、無限の幸福を祈りながら。









 彼はやってこなかった。
 私はこの日の為にと精一杯めかし込んで、慣れない化粧にさえ挑戦した。鏡の前でこれでいいのか真剣に悩み、笑う練習もした。そんな馬鹿馬鹿しいこと全て、彼を想ってのことだった。
 なのに、空を覆い尽くさんばかりに咲く恋人桜の下には、私一人だけがぽつんと、いつまでも寂しく立っていた。桜の花びらは、どうしてかまるで雪のように見えて、暖かな空気に包まれているのに、どこか寒々しかった。
 連絡手段――彼の携帯電話の番号は解らない。少し遅れているだけだろう、あの愚鈍な彼のことだから待ち合わせに遅れることくらいよくあることなのだ、と私はやり過ごした。しかし、日が大分傾いてきても彼はやってこない。もう、約束の時間はとっくに過ぎていた。
足音がした。これだけ待たされても私は胸を一途にときめかせながら振り返った。
 彼ではなかった。
 霞だった。
「……霞? 何で?」
 霞はいつもと変わらない制服姿だ。頭には帽子を被り、眼鏡をかけているのも相変わらずだった。彼女はよく笑う子で、はきはきとした明るい子でもあったし、同性でもあることから長い間共にいる私が他の仲間に比べ、少しだけ心を許している子でもあった。
 しかし彼女は、花見の約束をしたあの日のように、どういうわけか沈んでいた。
 あの日だけの不調かと思った。その顔色が、落ち込みが――どうやら今日まで続いていたと思えるくらい自然になっていて、私を見ていた。何も言わない。冷たい仮面のような顔を私にただ向けている。
 彼女が、彼をどこかにやったのではないかという疑念が体中を走る。そう、おおかた煩くてしつこいあいつにでも命令されて、無理矢理私と彼を引き離した。しかし霞は私を裏切ることに耐えきれなくなって、こうして知らせにきた、という筋書きだ。
 もしくは――考えたくないが、ありえる道筋がもう一つある。
「彼はどうしたの? どこへ行ったの? どこへ、やったの?」
 霞は無言を貫いていた。
「何か言いなさいよ! 彼をどこへやったの!」
 ありえる道筋、それは霞が私と同様、彼を好きになってしまったという事態だ。
 私から彼を横取りするなんていうことを霞がするとは思えないが、私がこうして恋に堕ちているのだし、霞だって人間に恋するかもしれない。
 そして今考えてみればあの日の彼女の様子は不自然過ぎた。私と霞と彼が同室していたのはあの日だけではないが、私が彼女に最も注目していたのはあの日だけだった。それ程までに私は彼を見て彼とだけ言葉を交わしていたのだ、致し方ない。
 私は若干の焦燥を感じながら何も言わない霞に詰め寄った。
「ねえ、霞! ねえってば!」
 聞いて、と、彼女は突き放すように言った。しかし、それは怒りを表すものではなく、言い含めるように優しいものだった。私の勢いは柔らかいそれに呑まれ、一気に小さくなる。
 彼女は私を見つめた。少し潤んだ、物悲しい輝きを秘めた瞳をしていた。
「私じゃないんだよ。私でも、あなたでも、他の皆でも、どうしようも、ないの」
 彼女の言う意図が掴めず、私はただ首を傾げた。ただ、何に対してかわからない妙な焦りが私にどんどん募っていく。
 彼女は弱く頭を振りながら言った。
「彼はもう、この世界にいないわ」
 言葉は雪のように脆かった。私に伝わった途端、溶けてしまう。
「何……その冗談」
 いい加減にして! と私は言葉でも言動でも、彼女を強く突き放した。
 よろめきつつ、霞はそれでも私を見つめながら言った。
「……あなたはもう、あまりにも人間になりすぎちゃったんだよ」
 その瞳がありありと見える。鈍く光る彼女のそれは私を明らかに憐れんでいた。どこか後悔の色も見えた。
 私はこの期に及んでも、何を言われているかわからなかった。私は彼女の言うように、確かに人間になり過ぎているのだろう。
「忘れていたのよ、大切なことを」
 確かに人間にはなりつつあるけど、それでもこの私が忘れるわけないじゃない――矜持の高い私はそう言いたかった。だけど彼女が何を言っているか、悲しいかな見当もつかない。自分の力の無さに愕然とするのは、人間ではなく同じ存在である彼女や彼等と向き合った時だけのようだ。
 私はそれでも、私であることに固執する。ふんと胸を張って見せた。どう見ても虚勢だった。
「この世界にいないって……どうせ松尾から脅迫でもされてるんでしょ? 霞」
 最初に考えたことを言ってみたが、彼女は弱弱しく首を振り否定する。そして指を鳴らし、複数の冊子を出現させた。ばらばらと地上に落ちたそれは、どうも名簿らしい。少しめくって、私に見せた。
 彼のクラスの名簿らしい。
 彼の名前が無かった。
 他に出されたどの名簿も名前がない。クラス写真にさえその姿がない。
「……どういう、こと……」
「彼は――異分子だったから」

 その言葉を聞き遂げた時――心臓自体が竦み上がった。

 私達が何度も同じ世界を繰り返していると、ふとそういう異分子が現れることが稀にある。いつも決まった生徒や教師の顔触れの中にそっと紛れ込み、次のタームを迎える頃には消えて無くなっている。映像の乱れ。音楽の雑音。ページの乱丁や汚れ。私達にとっては、そういう存在は一様にその程度のもので、至ってつまらない存在だった。

 彼も、例外ではなかったのだ。

 力無く、名簿や写真が地に落ちて、間を置かず私の体が崩れ落ちた。
「最初から、彼はこの世界にはいない存在だった」
 雪に埋もれるように、膝小僧が冷たい。
「それを、あなたはわかっていたはずだった」
 少し無理して、丈の短いスカートを履いたからだ。
「だけどあなたは恋をした。決して想ってはいけない存在に」
 春が来たんだもの。それに彼とのデートなんだから、無理してでも可愛く見せたかった。
「恋をして、あなたはその尊い位を捨てた。もはや、人間になりつつある」
 だって冬だったら、寒くて着られないからって、私は彼に言うんだろう。
「なりつつあったから――あなたは忘れた。意図的にではなく、すこぶる人間的に無意識に。
 その存在を、愛するあまり」
 そういえば私達が出逢ったのは、雪が降りしきる冬だったわねと、私は続けて言うだろう。
 次の冬も一緒にいられるといいわねと、私は言うだろう。
 出逢ったあの日のように、あなたは雪を背景にして、握手を求めてくるんだわ。

「繰り返すわ」

 何かぶつぶつ言っていた霞は、私の名を呼び、少し目を丸くしていた。
「大丈夫よ」
 私はすっと立ち上がる。土ぼこりを軽く払って、私は笑った。

「この世界を、何度でも何度でも繰り返すの」

 彼女の方が、少し前の私のように目を白黒させている。それにも私は笑った。

「もしかしたらもう一度、彼に逢えるかもしれないじゃない!
 未来はどうなるかわからないんだもの――」

 彼がかつて言った言葉を私も言う。彼が残したものが私の中に溢れ、私を動かす。
 霞に手を差し伸べた。初めて出逢った時の彼のように。
「きっとそうだわ! ねえ、そうでしょう?」
 目を細めたので、私はその時霞がどんな顔をしていたのか、未だわかっていない。





 私は何度でも繰り返す。この世界を。
 あなたと出逢った奇跡が降りた、この冬の世界を。





 あなたにもう一度、出逢えるまで。



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