「ん……んんん」
 瞼を上げるのが辛い。それほど心地良い。私は暖かな生徒会室の事務専用机に突っ伏して、体を丸めて眠っていたのだが、どうもその幸せな時間は終わりみたいだ。どうしても私は覚醒してしまう。むっくりと、頭を起こした。髪の毛が顔に張り付いていて、顔は制服の皺がうつって跡になり、少し赤くなっていた。
「何の夢見てたんだろ……まあ、いい――」
 ふっと閉じた目蓋の裏に、とある情景が走る。

 真っ白い光に消えていく三輪先輩、賀茂先輩、高砂君。
 そして松尾さん。

「いや、よくないでしょ阿美ちゃん」
 よくない! と私が叫ぼうとした瞬間、いたって冷静に言葉を奪っていったのは私のすぐ傍にいる人だった。寝起きなので視界がぼんやりしていてその姿をはっきり捉えることは出来なかったけど、女の子の声だった。やがて私の網膜にその姿ははっきり結びだされる。
 淡いクリーム色のニット帽と、赤いフレームの眼鏡と、二つに結んだ髪。
 おはようとはにかんだのは、私と同じ役職で、同じ学年の、葛城霞ちゃんだった。
「霞、ちゃん……」
 彼女は挨拶以外特に何も言わず、ただうんと体を伸ばした。やれやれと言うように軽く首を回しストレッチをし、ふうと一息つくと、どこか恥ずかしそうに私を見て笑った。
 まったくねえ、とため息交じりに呟いた。
「あーあ。私が最後まで残っちゃった。松尾さんが最後だと思ったのになあ。
 ま、隠しごと出来なさそうだし、そうでなくてもタイミング悪そうだし、気も弱いから、当然といえば当然かなあ。むしろ四番目になったのがすごいかも」
「あ、あの、霞ちゃん……?」
 松尾さんが消えた夢から還ってきたばかりで、とにかく一度ものごとを整理したい私にとって、霞ちゃんの語りはただただ困惑するものだった。
 そんな私の想いが伝わったのか、あるいは最初からわかっていたのか、霞ちゃんは今度は落ち着きのある穏やかな笑いを見せた。
「まあまあ、落ち着いて阿美ちゃん。
 これから、全部の種明かしをするつもりだから」
 なんてことないことのように言いながら、彼女は松尾さんと同じようにお茶を入れに行った。
 松尾さん、と私は心中で呟いた。そう、三輪先輩の時や、賀茂先輩の時は、大体このタイミングで松尾さんがどたどた走って来て、何か大変なことが起きたかのように慌てて入ってきていた。私は生徒会室の引き戸を見た。
 誰かが来る様子も、開かれる様子もない。廊下に人すらいないような雰囲気さえ帯びていた。誰かに開かれるためにある引き戸は、当たり前だけど無言だった。けれどそれはいかにも役目を失い、行き場さえも失って呆然と立ち尽くしている人のようだった。
「阿美ちゃん何がいい? コーヒー? 紅茶? それともほうじ茶? 緑茶?」
「あ、じゃあ、紅茶……」
 おっけい、と霞ちゃんはこの異常事態のさ中、いつもと同じように軽く言う。
 異常事態と言うけど、ここまで来てもはや普通の状況だとは到底思えないし言葉にも出来ない。思う方がどうかしているし、霞ちゃんも確かに言った。松尾さんは消えたと。
 だからこそ、こんなマイペースな霞ちゃんに少しだけ齟齬や焦燥を感じている。ソファに何事もなく座る私自身にも、ちょっと不自然な感じを抱いた。
 多分、今私はとにかく霞ちゃんに全てを話してもらいたくて、しょうがないんだろう。
 この世界が何なのか、どうやら重要な人物らしい桜ちゃんは何をしているのか。何をしたのか。
 そして、消えていった皆から願いを託された私は、一体何者なのかということ。
 その時、そろそろじゃないかと思ったけど、ぴーぽ、ぴーぽ、とストーブのお知らせ音が鳴る。霞ちゃんが、お茶とお茶菓子を乗せたトレイをストーブの上に器用に置いて、えいやっという感じで延長ボタンを押した。私はその彼女の動作にどこか懐かしさを感じる。そうだ、私が高砂君といた時――もう何回前だったっけ――あんな風にボタンを押していた。
 お待たせ、と言いながら今度はトレイをストーブの上ではなくテーブルの上に置く。そしてやっぱり、私はこれにもそろそろじゃないかなと思っていたんだけど、どさどさっと何かが――と言うまでもなく、資料が落ちる音がした。もうその資料の広がり様を何度見たことだろう。
「ああ、私が拾うから、阿美ちゃんは座ってなよ」
「でも」
「いいよ。多分「何回も」やってきたんでしょ」
 霞ちゃんは軽くウィンクして見せた。秘密を隠そうとしない彼女の態度があまりに私には鮮烈だったのだろう。私は頷くしかなかった。
 そしてソファに座り直し、悪いと思いつつ紅茶を飲みながらクッキーを食べた。それにしても、特に空腹や渇きを覚えていたわけじゃないけど何かを口にするのは随分久しぶりだった。途端に、このいかにも生物的な行為が何だか心から愛おしく思えた。
 終わった終わった、と手を払いながらやってきた霞ちゃんも向かいに座る。松尾さんの時と同じ配置だ。霞ちゃんも同じ紅茶にしたみたいだけど、私と違いミルクを入れた。
 ミルクの白い渦を見て、連想するように雪を思い出し、私は窓に目をやった。
 外は相変わらず雪が降り続いていて、まるでじっくりと、かつ、微笑みながら世界を侵していく何かのように見えた。
 最初はもう少しまともな、美しく尊いものに見えていたけど、そんな風に思うようになっていることが少し悲しかった。
「私もさ、いい加減おかしくておかしくて」
 慌てて霞ちゃんの方に向き直る。霞ちゃんは笑いを浮かべていたが、どこか疲れたように見えるのは、私の気の所為だけとはちょっと思えない。
「その、先輩達が消えたことに、話を合わせることが?」
「そうそう。ま、人のこと言えないんだけどさ。
 賀茂先輩……仲春が消えた時は、だから、ごめんねって言ったんだ」
「ああ」
 私は思い出す。松尾さんよりも鮮やかに、遥かに真実のように三輪先輩達と話を合わせていて余裕の表情を浮かべていた彼女が、ふとごめんねと口調を沈めたのだ。
 あの時少しだけ訝しんだ私は、友人を疑うようなちょっと不道徳な行動をしたものの、一応は間違ってはいなかったということだ。
「そう、いい加減限界だったんだよね。嘘だけじゃなくて、この冬も」
 霞ちゃんはそう言いつつ、窓の方に目をやった。目を細めたが、それは雪の眩しさにというよりは、何かを懐かしんでいるような――そして、それを悲しく思っているような表情に近かった。
 私はもう一度雪景色を囲う窓辺を見た。そして冬の象徴である舞い散る粉雪達を眺めながら、自然と追憶に耽る。
 さっき別れた松尾さんは「閉ざされた冬」と言っていた。最初に別れた高砂君はというと――霞ちゃんも、こう言っている。
「高砂君は、春を忘れたって、言ってた」
 私が何度も心中で繰り返してきた言葉だった。ここまで来て、彼の言葉を嘘だと思うことはそれ自体が馬鹿馬鹿しいことだった。絵空事やでたらめが自然にまかり通るくらい、あんまりにも突飛なことを私は体験し続けてきた。
「そう。ことの発端は、そもそも高砂にあるんだよね。
 私達、というより主に阿美ちゃんが変な体験をするようになったのは」
 紅茶とミルクを馴染ませるスプーンとカップの触れ合うの音が、無音かと思ってしまう程閉ざされた生徒会室という狭い世界に、どこか軽やかに聞こえた。
 でも、と霞ちゃんはやや低いトーンで言葉を次ぐ。
「それは、私が今から言うこととは、あんまり関係がないんだ。
 むしろ、唯一の打開策として実行されたに過ぎない」
 そう言い霞ちゃんは、言葉の調子とは反対に結構美味しそうに紅茶を飲んだけど、私はその言葉の雰囲気に少しだけ身構えなければと固くなってしまう。
 やっぱり緊張しているんだろう。それがわかったのか、霞ちゃんは微笑んだ。
「まあ、こんな枕にもならないような話はどうでもいいね。本題に入ろっか」
 それはいつもと変わらない、霞ちゃんらしい気軽な調子の微笑みに見えた。だけど、それでもどこか陰りがあるようにも見えた。
 私の気の所為なんだろうか。緊張し過ぎなのかな。
「それじゃあ話すね。

 まず私達は――人間ではない」

 霞ちゃんは普段と至って何も変わらない様子だけど、そんなことを言った。私はただ頷いた。



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