雨は細かい網目の笊に通したようにさらさらと降っていた。勢いは弱々しいが、それ故に長く続きそうな気がする。風邪をひかないようになどと言ってしまったが、外は思った以上に梅雨らしい湿度の高さで存外べたべたしていてどちらかというと暑かった。蛙が鳴く声が喜備の足音を消していく。一体何十匹、いや何百匹鳴いているのだろう。雨の所為だろうか、鳴き声は異様に響いて聞こえていた。
 駅はわりあい閑散としていたものの、電車には帰宅時ということで、それなりに乗客はいた。スポーツ紙を読んでいる人、居眠りしている人、携帯電話をいじったり、文庫本を読みふける人がいる中で、喜備は居心地の悪さを何となく感じた。突然電話をかけてきた亮のことを考えて、なんだか気もそぞろになった所為かも知れない。先日の春龍との一件の後にかかってきた電話では、そんなに気落ちしていたようには聴こえなかった。だが、電話だけでは伝わらないものがある。
 きっと彼は、もう一人の喜備問題についてずっと考え続けているのだ。



 三国駅に着く。実際、喜備の家からこの辺りまで大して離れていないし、電車にしたって数駅だが、バス停に適当なものがなく、徒歩だと微妙に遠いという厄介な条件のため電車通学を選んでいた。そしてここで喜備と亮は出逢った。そういう他愛もない偶然が、喜備に大切な出逢いを運んできた。
 亮は、待合室にいた。
「亮君」
「よお」
 久しぶり、と彼は右手を挙げ、笑ってくれたものの、見るからに気が滅入っている。雨の所為だけではあるまい。それ以上の言葉も交わさずに、すぐに椅子に座り直す。喜備もまた、彼の隣に腰かけた。そぼ濡れた傘は申し訳なさそうに横に倒しておいた。
 外ではきっと細い雨の音と、蛙の鳴き声が梅雨の夜の雰囲気を紡ぎ出していることだろう。たった二人しかいない待合室では入り口から遠すぎてそれは聴こえない。並んだ自動販売機の微かなモーター音が音楽の低音域のように流れているだけだった。冷房が利き過ぎているのか、少し寒くもある。今の季節が一体何なのか、少しわからなくなる気がした。そんな風に四季から仲間外れにされた梅雨は、きっと肩身狭そうにしているだろう。何を言うべきかわからない、今の喜備のように。
(……アイスの自販機)
 亮は俯いていて気付かないのか、喜備がふと目線をずらしてみると、よく見かけるアイスクリームの自動販売機が視界に入った。最近自分も食べていないし、何よりアイスクリームは亮の好物でもあった。何か欲しいか訊いてみれば、話を切り出す発端になるかもしれない。腰を少し浮かして訊こうとした時だった。
「あのさ!」
 狭くて二人しかいない待合に亮の思い切った一声は凛と響いた。はずであるが、喜備にとっては不意打ちにも近かったので、体は不自然に震え、中途半端に浮いた腰はがくんと落ちた。結局、姿勢はもとの形に戻ってしまったが、亮が話し始めるようになったので喜備は逆にほっとした。当の彼は声を出したはいいものの、言葉の続きを用意していなかったのか、まだ口を半開きにしていた。だが、次の言葉が出るまでそんなに時間はかからなかった。
「俺、調べたんだ」
「え?」
「喜備の過去。昔に何があったか」
 彼はこちらを向き喜備を見つめる。利発な輝きを持っているはずの彼の目は、どこか迷いと憂いで曇っていた。
「保育園、小学校、中学校、高校。それぞれの時代に、何があったか。些細なことから世間的に話題だったことを調べて……それからクラスメイト、学校行事のこと。いろいろ洗い出して、それから……あんまり知られたくないような、プライベートなこととか」
 言葉を彼は、まるで千切ってはゆっくり落とすようにし、喜備の耳に残していく。彼が最終的にどこに辿りつくのかを、喜備は何となく予感していた。
 喜備が忘れていた、教室の裏側。輝かしくて馬鹿馬鹿しくて愛おしい日々に出来た、誰もが消しゴムをかけたい、そんな一瞬の連続。必死に目を閉じて、喜備は人間を否定した。人間の消極的な面を拒絶して、友情の尊い部分だけを頑なに守った。それが自分を支える杖となっていたのは確かだけれど、その杖をつくことで生まれる影の存在にはついぞ気を払わなかった。そしてもう一人の喜備が喜備を侵食し始めた。
 そんな風に喜備は、頭の片隅でまとめた。思った通り、亮は中学生時代に遭遇した、とある女子のいじめのことについて言及した。まるで彼もその場にいたかのように、言葉で事実を認めるのを苦しそうにして話す。喜備もそんな彼を見るのと話を聞くことが辛く、指を組んだり解いたり、まるで関係ないことを繰り返し、重い雰囲気を避けようとしていた。そうやってまた、喜備は逃げていた。逃げているのに、まったく空気は浮上しない。
「……俺はそこに、喜備の多重人格の原因があると見てるんだ」
 そっか、と息をつく。言葉として聞いてしまって、重くなるのではと覚悟していたけれど、心なしかほんの少し、気が楽になった気がした。ごめん、と亮は呟く。
「……ううん。すごいね。亮君のコネクションは、侮れないね」
 皮肉で言ったつもりではないが、亮は申し訳なさそうに俯いた。ごめんと慌てて言うと苦笑した顔を見せた。だけどそれは、やはり力ない。
「でも、無理のある仮説だってわかってる。大抵の多重人格――解離性同一障害は幼少期、例えば虐待とかそういうのが原因だったりするんだけど、喜備の両親はまったく健全すぎるし、そんなデータも勿論ない。そんなことがあったとは絶対思えない」
 結局は気休めだ、と亮は苦々しく言った。そうして再び沈黙が辺りを浸した。亮の言う通り、両親に問題はない。言われたとしても嘘としか思えないし喜備の記憶にも無い。虐待の傷跡なども無いから、その点は考えなくてもいいだろう。だけど、と喜備はひとり首を傾げた。

 いじめの現場を目撃し、誰も助けてやらなかったという残酷劇に衝撃を受けたから、というたったそれだけのことで、果たしてあれだけ強い人格が生まれるものなのだろうか。よくわからないが、この症状はそんなに簡単に表れるものではないはずだ。それに少しくらい、言葉遣いや態度に自分との共通項があってもおかしくないのではないだろうか。いや、別人格だから、全く違っていて当たり前だ。喜備は何度か頷いた。それでも、釈然としない。

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