ケンは黄昏色の光の公園で、もう遊んでいる子供もいないのに、ゆらゆらブランコを漕いでいた。その公園はいつか亮が思い切り遊んで泥だらけになったところである。
 ここに来るまでの道は上り坂、自然と亮は息が上がっていた。公園内に入ってすぐ、だらんと首を下げる。しかし伏せていた時間は短い。目を覚ますように顔を上げるとケンも同じように顔を上げていた。

「亮くん」
「よお」

 ケンはブランコを飛び降りて亮のもとへ駆けてきた。羽織っているパーカーもキャミソールもスカートも、黒色だった。それに気付くと亮は空気の反芻をやめて、再び視線を地面に落とした。木の小枝、落ち葉、砂、小さな虫、誰かの足跡。そしてケンの影と亮の影。みんな同じ平面上に存在していた。

「どうしたの」

 亮とケンは茜射すベンチのところまで自然と歩き出す。ケン、と亮はただ名前だけを零す。伝えきれない想いも零れ落ちていることに、何となくケンも気付いているんじゃないかと亮はどこか確信していた。次の言葉をはじき出すまでに、亮は何度も唾を飲む。

「あのな」

 亮は、つまびらかに語った。どれだけ躊躇しても、一度口を開けば、あっという間。そういう類の言葉達だった。現実のケンからは決して汲み取れない、感じさせない、心の底の箱から鳴り出し、聴こえないオルゴールのような過去のことを、ケンは静かに聞いた。それが亮には意外だった。自分を殴るなり、泣き叫ぶなり、拒否反応を示すと思ったのだ。
 ケンはまだ子供だから、と思っていた。

「ごめんな」
「ううん。すごいね。亮くんのコネクションは侮れないね」

 夏休みに見せた笑顔と変わらない、笑顔をみせた。沈む太陽が残す、最後の恩恵の光が、美しくケンに射す。梅雨の夜、三国駅で喜備が言った言葉と同じだった。その符号がちくりと亮を刺す。

「ごめんな」
「いいよ」

 これで本当にいいのだろうか。亮は少し戸惑ったが、依然ケンはにこにこ笑っているので、これ以上言葉を重ねても空虚なだけだと思い至って、口を閉ざした。
 二人の児童はそれから先の言葉がしばらく出せなかった。高台にあるこの公園から、三国市の街が綺麗にみえる。その光景を今まで目にしなかったから、亮はぼうっと眺めていた。
 ケンの長い金髪が秋の初風に揺れた。それは稲穂のようで、あるいは小麦のようだった。ライ麦畑もこう見えるだろう。亮は、どこか感じる居心地の悪さをそんなつまらないことを思うことで紛らわせる。
 つまらないこと。亮の頭にその言葉がちかり、と閃く。

「ああ。そうだ」

 亮は思い出す。何故、ケンは女装をするのかという、至極つまらない疑問から、亮はケンの裏側を覗いてしまったのだ。そんな個人的なことに興味を持ってしまった。別にそのままにしておけばよかったのに、と亮はつくづく後悔した。笑って済ませられるような変な理由では、きっとないのだ。でも、ここまできたら、その目的はいっそのこと果たしてしまおうと亮は決心した。

「なんで、お前はそんな……女装っていうか、してるの?」
「あ? これ?」

 これねえ、と服をつまんで見つめながら、ケンは初めて言い淀んだ。それでも顔は笑顔のままだった。亮が、嫌ならいいと言おうとした時だった。

「亮くんはどうやってボクらが出来るかわかる? わかるよね」
「ええ?」

 全く不意打ちな質問に、亮は顔を赤らめる。

「いきなり、何言ってんだ。お前、まだ小学一年生のくせに……」
「あのね、肇パパの持ってる本を読んだの。むつかしい分厚い本、ちょっとだけ」

 漢字はなかなか書けないくせに、そんな本を理解してしまうのか、とケンの言語脳に今更ながらあきれかえった。でも、内容はよくわかっていないだろうと亮は考える。

「ママの卵子とパパの精子が出逢う。卵子はママの染色体をもってる」

 ケンは腹部から股間辺りにそっと手を置く。生殖器官としてまだまだ、ずっと未熟な性器は、その辺りにある。

「精子はパパの染色体をもってるの。亮くんなら知ってるでしょ」

 人間の染色体数は四十六本、生殖細胞は半分の二十三本、それぞれ常染色体と性染色体を持っている。亮はただ頷いた。

「ボクの細胞にある染色体もその中のDNAも、ボクオリジナルのものだけど、もとは、ボクのパパとママのものだったんだ」
「うん」
「だから、ボクはこう考える」

 手をそこから離して、ケンは自らの目の前に両手を広げて見せた。夕日がまっすぐに当たれば、唱歌のように、そこに真っ赤な血潮が見えるだろうか。

「ボクの体には、パパとママがいるんだ」
 ケンは一層、微笑んだ。
「ボクを流れる血は、ハリーと同じ。ハリーだって体にパパとママを持っていたんだ」
 ケンは微笑むことを決してやめなかった。

 七歳にも満たないのに、内容などほとんど理解していないと思っていたのに、そこまで理解できるのかと亮は衝撃だった。うんと小さなレベルで、ケンはケンを支えていた。
 そうしなくてはいけないのは、両親も兄も突然に失ってしまったからだ。

(……それでも、生きていくために)

 ケンはケンとして生きるために、運命の流れに身を滅ぼされないように必要な情報を覚えこんだ。日本語も、遺伝子や染色体や細胞の知識も。きっとそうだと、亮は思った。

「……でも、それがどうして繋がるんだ」
「アヤメには子供ができないよ」

 アヤメ、と、浅倉菖蒲を名前で呼んだことに少し違和感を抱いたが、海外にいる頃はそう呼んでいたのだろう。

「ハジメもアヤメも、子供がすごく好きなのに、アヤメには出来ないんだ。男の子も女の子も持てないんだ」
「……お前、そんなことまで知っていたんだな」
「全部知ってるよ。聞いてたの。病院で」
「病院?」
「ボクはあの日からクリスマスまで、ずーっと入院してたんだ」
「……そうだったのか、ごめん」

 それは調査の結果には書かれていなかった。気絶したとだけ報告されていた。

「だから」
「だから?」

 急にまじめな顔をしてうんうんとケンは頷いた。

「だからだよ。ボクの体の中にはパパとママがいるんだから」

 そして横顔を亮に見せた。そこには、きらきらした子供の笑顔は消えかけていた。自らの運命を受け入れ、切り開こうとする強靭な、ただ一人の人間の顔があった。
子供でも、大人でもないものだ。

「ボクの体の中にはパパとママと、そしてハリーがいる。だから、ボクは菖蒲ママにとっても、肇パパにとっても、ムスコでありムスメでいることができるんだ。体は男の子でも、心は女の子でもいられるでしょ。女の子の服を着れば、もっと近づけると思ったの」

 そして、一度俯いた。亮は、顔を覗き込むことができない。
 すぐにケンは顔を上げた。
 いつもの笑顔がいつも以上にきらきらしていた。誇り高き顔で、金色の光が射し、長髪が揺れている。青白い瞳に、新しい光が宿っている。

「だから、こうしてるの」
「いい、理由だな」

 亮は素直に言った。子供だ大人だという観念を飛び越えて亮は素直に言えた。ケンがケンを支えている、表からはうかがい知ることの出来ない、天と地を飛び越えていくような何かを今、直に感じ取ったのだ。
 亮には無いものを持っている。だから本当に、ケンを心から素晴らしいと思える。

「でも下の毛が生えたらやめるよ」
「急に露骨な言い方をするな」

 感動が台無しだ、と亮は、やっぱり笑う結果になった今を不思議に思った。

「それから、あとは、ハリーにもなりたいなあって思ってるよ」
「ハリー……お前の兄さんに?」

 言葉なく、ただケンは頷く。

「ゆーくん、ハリーが死んで……すごく寂しそうだったから」

 彼との会話で度々出ていた幽々志という存在。ケンにとっては、単に兄の友人という程度ではないのだろう。あるいは、ハリーという実兄のいない今となっては、彼にとって幽々志が兄のような存在なのかもしれない。だからそれだけ献身的にもなれる。
 だけど、忘れてはいけない。ケンはケンだ。彼が女の振りをしようが、ハリーになろうが、それは彼の勝手だが、一番大事なことを忘れないでいて欲しい。
 いろんな自分を持っていても、喜備が喜備であるように、春龍が春龍であるように、亮が亮であるように。それは当たり前のことなのだから。
 それを伝えたかったが、ケンの言ったことの感動が大きすぎたのか、言えずに心にしまった。今この瞬間は、心で思ったことさえも伝わる――そんな幻想を抱いていた。




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