月が見ている 月を見ている




 人の寝息で目を覚ますことなんて初めてかも知れない。上体を起こした、月明かりに仄かに照らされる少年はそう思った。
 少年。確かに、人が見ればその容姿は少女、女性のものであると錯覚するであろうが、彼は歴とした男性であった。名を、犬坂毛野胤智と言う。
 彼の隣で眠る小柄と巨漢、二人の若武者の寝息が決して煩いと言うわけではない。いや、巨漢の方は現にぐうすかと大いびきをかいて眠ってはいるが、それさえも少年にとっては薫り立つ春に吹くそよ風めいた可愛らしいものであった。第一、と少年は思う。自分があんな風に穏やかな気持ちで眠りに就けたことこそが初めてだったのだと。そしてきっと、自分は見ることは出来ないが、彼ら二人を見つめる己が眼差しも、きっと初めて浮かべたようなぎこちなく、けれども優しいものなのだろう。それが可笑しく、毛野は薄らと笑みを浮かべた。
 だが、笑ってもいられない。ふわりと浮かべた笑みの曲線をきゅっと一文字に引き締める。それはまるで、長年追い求めた仇敵を、今まさに射殺さんと引き絞られる弓弦に添われた、殺意が満ち満ちた鋼鉄の矢のようであった。

 そう、仇敵。
 行かなくては。こんな所で、ぐずぐずしていられない。

 真剣そのものの表情は、冴え渡る月光よりも冷たい。それでもなお、夢に微睡んでいる二人は目を覚まさない。それも当然であろう。眠りに遊ぶ世界が今の彼らの現実なのだから。
 毛野のその表情は、やはりそんな彼らに絆されたのか、ふっと緩んでしまう。何の気の張ることも無い、非常に無愛想な、けれどその憮然さを鑑みてもなお美しい横顔だけが彼に残る。そして夢に遊ぶ二人をじっと見つめた。
 犬川荘助義任と犬田小文吾悌順。奇異な因縁によって結ばれた、毛野の魂の兄弟とも言える二人。
 自分が持つ智の文字が浮かぶ珠と右肘に浮かぶ牡丹のような痣の来歴を毛野はようやく知ったのだが、正直あまりに突飛過ぎる話であった。安房? 里見家? 伏姫? そんなこと、毛野はこれっぽっちも知らない。自分にあるのはただ仇を討つことだけ。それが毛野の世界の全てだった。まさかその世界の天蓋を更に覆う巨大な幕があることを誰が予想していたであろうか。日頃から冷静沈着を心掛けていた毛野であったが、さすがに目を丸くして驚いた。全ての話を聞いて、二人についていくかどうか、すぐには返事出来ないと返したのは何もそれほどおかしな話ではないだろう。

 誰かは知らない、巨大な掌の上にいる。それはただ得体が知れず、恐ろしいことでもある。
 ただ、自分だけではないらしい。小文吾と荘助を含めて、あと七人。
 毛野と同じ立場の人間が、七人もいる。
(誰も)
 もし毛野の胸中の言葉が、声に出されていたのならば。
(誰も、もう、いないと思ってたのに、何だよ)
 それは、月も凍るような夜に流された、涙のような熱さであっただろう。

 突然、鼻が詰まったような滑稽な音がした。どうも荘助から漏れ聞こえている。頭の中でさらっていた里見家の因縁のあれこれ、未だ見ること叶わない例の魂の兄弟達のことが一気に霧散した。ある種、爽快でもある。そんなこと考えなくてもいい、そう言われているようで。
(にしても)
 柳眉を、毛野は思い切り反らす。
(よくもまあ、こんな風に無防備なまま寝られるよな)
 だが聞いた話によればこの二人、越後で捕えられあわや命の危険と言う窮地を何とか乗り越えてきたばかりだと言う。そんなこともあればこうして安らかに眠ることもむべなることだが、それにしたって弛緩し過ぎだ、と毛野は呆れた。鼻を詰まらせたらしい、小柄な方を見やる。
 犬川荘助。彼とはつい数刻前まで本気で斬り合っていたと言うのに、あの時の戦意や殺意はまるで、別人のものを借りてきただけだとあっさり言ってしまうように、邪気のない顔で眠っている。自分よりも年上だと聞いたが眠っていてもわかる童顔だ。然程童顔ではないが、どこかあどけなさを感じると言えば小文吾も同様である。きっと、人が良いのだろう。いや。毛野は一人微かに首を振った。きっとだなんて、今更だ。思えば石浜城で初めて会った時から、オレはそれを認めていたじゃないか。そんな風に思い、またほんの薄らと微笑を浮かべた。
 石浜城、と地名を浮かべた故に思い出す。月明かりだけが頼りの闇の中、己の右の手を毛野は見やる。無力な手。今日に至るまではその、やはり男性としては華奢でつくりも小さな手を見てはそう心に呟くのがお決まりであった。小文吾に再会した今も、その感慨は完全には消えない。
 石浜城から脱出し川を渡る折り、毛野は共に脱出した小文吾に手を伸ばした。けれども川の流れが急すぎて、二人は生き別れとなった。毛野の手は、届かなかった。だから無力だとつくづく感じるのだ。感じているのだ。
 あの日から、一体どれほどの時が流れたのだろう。ひとたび再会してしまえば、膨大な孤独な時間など無かったかのよう。
 孤独。
 そう、独り。だがおかしな話だ。毛野はそれまでずっと独りだったのに、今更どうしてそんな感傷を抱かなければならなかったのだろう。
 或いは、毛野はそこで初めて孤独を知ったのかもしれない。

 ひとりとひとりが出逢えばふたり。
 けれど引き離されれば、またひとり。
 そこに生まれるものの名を、毛野はその時まで本当の意味で知ることが無かったのだ。

 また会える確証などなかった。自分に奇妙な珠と痣があったところで同じ立場の七人がいるとは考えもしなかったから。仮に小文吾以外の同志が自分と出逢っていて珠と痣を見せてくれたところで、おそらく毛野は信用しなかったであろう。
 けれども、この二人は違う。珠と痣を見て、何の疑問もなく毛野を兄弟だと受け入れた。共に行こう、仇討ちを手伝おうと、手を差し伸べてくれた。今浮かべている寝顔に宿る穏やかさと健やかさに通じる、煌めいた笑顔で。強い眼差しで。その手は、故に強い。
 自分には、そんな笑顔は浮かべられまい。
 嘘の笑顔ならいくらでも浮かべられる。けれど、本物はきっと無理だ。清らかなものは、絶対に。
 まっすぐなその目も、自分にはないものだ。
 そんな二人をみすみす、失いたくはない。そう思った刹那走るのは不安と焦りだった。こうしている間にも、敵は自分を追ってくるだろう。仇は身を巧く隠してしまうだろう。仲間だとわかれば、小文吾と荘助の安全は保障出来ない。もとより、どちらもお尋ね者の身ではあるのだが。
 だがそんなことよりももっと強烈に毛野の脳裏に迫り来るものがある。
 他でもない、自分の姿だった。

 赤い、紅い、朱い、赫い。
 月明かりの下の殺戮者。
 讐を鏖にした舞姫。

 汗が、血が、毛野の肌を、歩いていく。 
 血が、血が、讐の血が、涙が、歩いていく。

 突如、手にぬめりを感じ明かりに照らす。息も詰まる。ただ妙に手汗をかいているに過ぎない。それでも気になって、むしろ明かりは乏しいかもしれないのに部屋の外に出た。
 世界に光を放つは真夜中の太陽である。
 世界に穴を開けた月が、毛野を見ている。
 月と毛野だけが、あの日の顛末を本当の意味で知っている。
 夜風が吹けば焦りに汗ばむ毛野をそっと冷ましていく。へたり、とその場に腰を下ろせば自然とあの日の追憶が始まった。小文吾には意気揚々と話してみせた、第一の敵討ち。そうだ、毛野は幻の血に染まる小さな手を丸めた。殺しなんて全然平気だ。今日だって殺めたじゃないか。あの日は手形だ、なんて言って首級を嬉しそうに小文吾に見せたりもした。嬉しそうに。くすり、と毛野は笑った。事実、嬉しかったのだ。積年の夢。父の仇を討つこと。自分の生きる目的。それが一つ叶った。あるいは一つ、失われた。

 仇討ち。仇討ち?
 たとえ仇討ちだったとしても、オレのしたことは。

 二人の眠る部屋の方を見やる。その表情からとっくに笑いは失せ、凍えていた。希望が途絶えていた。
 あんな風に笑顔を向けてくれた二人には、とても見せられるものではない。
 だから、自分はついてはいけない。決して彼らを頼りないと言っているのではない。荘助が強いのは手を合わせた以上十分に理解しているし、小文吾も同様だろう。ただ、と毛野はすまなそうに目を伏せた。

 自分で始めた汚れた業は、自分だけが手を汚せばいい。
 二人を、まだ見ぬ五人を、巻き込みたくはない。

 月明かりのもと、毛野は目を閉じる。彼らから汚れを、穢れを遠く離すように、自分だけの中に閉じこめるように。

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