愛することしか出来ない




 誰にも言ったことはないけれど、あたしは空が嫌いだった。
 嫌い、と言うのとはまた少し違う。怖いのだ。雷鳴を轟かせる黒雲に蝕まれた空は勿論、未来を閉ざすような曇り空も燃えるような夕焼けも、暁光に雀達が歌うはるけき空も、底が見えない程に透き通った青空でさえも、ふと油断すると底知れぬ怖さがあたしの背筋を通っていった。確かに地に足をつけているのに、真っ逆さまに落ちていく。天という世界に空いた大穴に。
 幼い頃から繰り返して見る夢があった。それは何度も何度もしつこく反復を繰り返し、十を数える手前にはすっかりあたしの意識の背景と化していた。
 地平線が業火に焼かれるように赤く、一方で上空は儚げに薄れた金色が広がっている。そんな空を、誰かに抱かれながら呆然と見ている。あたしはその夢では仔犬で、生まれた家から遠ざかっていた。あたしは捨てられるのだ。理由はわからない。けれど、疎まれて家を出るらしいことだけがぼんやりとわかっていた。どれだけ目をあちらこちらにやっても、知っている人も懐かしい風景も見えない。

 だからあたしは空を見上げるよりほかない。
 何も教えてくれない空を。雲一つも浮かべないで、ただただ黄金色に広がり、そして地平線を焼きつくす空を。あたしを助けてくれない空を。

 何も言わないその空が、広がっているだけの空が、まるであたしを押し潰すように見えた。どんどん世界を狭めてきて、最後にはあたしを圧死させて、そして唯一教えてくれる。

 お前なんか、いらないのだと。
 お前に意味も、価値もないのだと。

 まさしく捨てられていく仔犬そのものであるあたしが、実際に別の家から貰われてきた子なのだと知った時は子供心に深く納得したものだった。あの空はあたしが本当の家からこの忌まわしき家に来た時に見たものなのかもしれない。じっと見過ぎて目に焼き付いて、頭の中まで支配されてしまったのだと。空を見上げる度ほんの微かにでも走る恐怖は、あたしに付き纏う呪いなのだと。
 あたしに普通の空はなかった。あたしに普通の幸せはなかった。
 だからあたしは、空が嫌いだ。





 空は、今でも恐ろしく、どこまでも広がっている。
 これから死のうとしている女がいることなんか一つも知らないで、ただただ無慈悲に夜を喚ぶ。浮かんでくるのは月でもない。星でもない。鳥も飛ばない、ただの夜の漆黒だ。
 夜が囁いてくるのは、夢で繰り返し聞いたあの言葉。
 そしてその漆黒に浮かぶのは、心の闇だ。覚悟を決めたあたしを迷わせて、定めた終わりへと振り切らせてはくれない。
 固めたはずの死の覚悟。それが細やかに崩壊し、体の震えに変わっていく。どこかで経験した震えだった。その震えを受けとめる唯一の人は断固として拒否したから、あたしはその時も震えて泣くばかりだった。今、首を掛けるはずの帯にだらりと垂れ下がるのは力無い手。声さえ伴わない、ただ苦しい息遣いばかりが漏れる涙が一筋二筋流れる度、帯を掴む力はどんどん失われていく。がくん、と腕は落ちそうになるのに、寸でのところで帯を未だに掴んだままでいるのが皮肉だった。あたしはあの人の袂さえ掴めなかったのに。
 ここでそんなことをしていても、意味は無い。痒みを伴って落ちていくのは涙だけだ。あたしをせせら笑うように。
(会いに、いきたい)
 ぐっと、死に誘う帯をなお強く握りしめて思うのは、そんな悪あがきだった。
(信乃さま、会いたい)
 だけどあたしに翼はない。あったとしても、あたしを迷わせるこんな心の闇の空で飛べるわけがない。滲む視界で見ても、空は全く変わらなかった。
 あの夜だってそうだった。同じだ、震えも涙も、闇の深さも。
 ただあの人だけがいない。

 あたしの最愛の人。あたしのたった一人の人。約束された人。恋焦がれる唯一の人。
 犬塚信乃戍孝さま。

 その名を思い浮かべるだけでも胸が疼くのに、生み出された途端全身に通う愛しさは茨のようにあたしを縛って、肌を心を突き刺していく。だってあの人はもうここにはいない。あたしよりもっともっと大事な何かの為に、あたしを振り切って行ってしまった。

 一緒に連れて行って。
 置いて行かないで。
 こんな酷いところに独りにしないで。
 そう叫ぶあたしを棄てて、あの人は行ってしまった。

 同じ。あの夢のあたしと、仔犬と全く変わらない。
 あたしは疎まれて捨てられたのだ。
 何を言ったって変わらない。

「約束された夫婦だわ、あたし達」
 遠い昔、親が結んだ約束をあたしはずっと信じていた。それがあたしを成り立たせるものだったから。でも何を馬鹿なことを、と言う気持ちにもなる。実際あたしは馬鹿だったんだわ。だって、あんな酷い父と母が約束を守るわけがないもの。それを聡明な信乃さまはちゃんとわかっていただけで、あたしはわかっていなかった。
 でも、約束は守られるものでしょう?
 ただ一つ、わかっていたことがある。
 それは予感だった。言葉で表したら最後、現実になってしまう呪いめいた予感。不安の塊で、何も見えない。星明かりも月明かりもない闇の空のような、昼でもなお暗く世界を覆う黒雲のようなもの。必ず殺される希望だった。自分から命を断っている、救いようのない希望。
 全てを覆すそんな予感を、敢えて言おう。もはやもう、ここにあの人はいないのだから。

 あたしの言葉は届かない。
 あたしなんかじゃ、信乃さまは留まってくれない。

「ころ、して」
 浜路? と、怯えたような信乃さまの声が紡ぐ。
「あたしを、置いていく、くらいなら」
 いや、いやとあたしは呻いた。髪を掴んで、頭を振った。
「さよならなんて、そんなのはいや!」
どんなに叫んでも、爆発しても変わらない。
「信乃さまからのさよならなんて、絶対に聞きたくない!」
 どうせ信乃さまは行ってしまうのだ。
 他でもないあたし自身がそう思っていたのだ。だからあたしは泣いていたのだ。
 あたしは、終わることを、最初から知っていたのだ。
 最初から、諦めていたんだわ。
「ずっとずっとずっとずっと、信乃さまを待って、会えないで、あたし、そんなので死にたくない!」
 それなのにこんな風に喚いて、騒いで。
「捨てられて、ずっと、ずっと、想って、死んでく、くらいなら」
 信乃さまに嫌な思いをさせて、何よ。
「あたしを、今すぐに」

 殺して、殺してよ!
 そう叫んだのでしょう?
 馬鹿みたい。

「ねえ、殺してよ、信乃さま!」
 こんな風に、叫んでいた。信乃さまがどんな風に思ってるかなんてちっとも考えないで。ただ自分のことばかり考えて。自分が一人になりたくないからって。自分が信乃さまを好きで好きでたまらないからって、そればっかり。
 まるで獣のように。吠えることしか知らない哀れな犬のように。
 愚かでしょう?
 結局は自分のことしか考えられない。結局は自分のことしか好きじゃない。

 だから、みんな独りなのね。
 ひとりぼっち。

「お願い、信乃さま」
 あたしはそうして、背骨が折れるのではと言うくらいひれ伏して、さめざめと泣いた。後生でございますからと切なる口説きを百も並べた。浜路も連れて行ってと。浜路をここから攫ってと。だけどそれが届くはずもない。

 だって、あたしの方も棄てていたから。
 あなたを信じることを。

「浜路、お前は、俺の、俺の歩く道を阻む」
 敵になる。讐に、なる。
 こちらに顔を見せもせず、目を伏せて、息を詰めて信乃さまは仰った。あたしを黙らせるにはそれで十分だった。あたしに僅かに残る希望を殺すのにはこれ以上ないくらいの言葉だった。
 あたしの一番大切な人に、大好きな人にそう言われたら。
もう、どうすることも出来ない。
 終わりだ。あたしはあそこで終わったのだ。
 終わり? いいえ。

 最初から全部、諦めていたも同然だったから。
 あたしに始まりも、終わりもなかったんだわ。

 出し尽くされた涙が、あの時も今も、また溢れる。これ以上何を泣く? 泣いたってどうにもならないのに、何を勘違いしているの? 泣いたからって何が変わると言うの? 全てを諦めているのに今更だ。
 あたしは泣くことしか出来ない。泣いて相手を困らせることしか出来ない。
 そして愛することしか出来ない。信乃さまを引き止める為に、実になるような具体的なことは何一つ、出来ない。弱くて、そして恐ろしい。
 本当よ信乃さま。女って言うのは、皆が皆、讐になる生き物なんだわ。
「信乃さま」
 こうなってしまうんだったなら、もっともっとあの夜に、お話しておけばよかった。
「し、の」
 さま、ともう一度紡ごうとした。涙声は、けれども一切潰された。不吉な空にこだまする低い低い唸りがあたしから声を奪う。あの人のいない世界は、名前さえ呼ばせないのだ。
 夜を煮詰める時を知らせる、初更の鐘の音が無情にも鳴り響いていた。夜の訪れを今こそ喝采せよと喜んでいる。あの夜とはまるで逆だ。あの夜には遠くで朝の鳥が鳴いた。朝の訪れを喜んで夜を引き裂いて、あたしを岩の下の深淵へと突き落としてしまった。
 回想の中の鳥の声と鐘の音が重なってあたしに教えてくるのは、今もあの時も、残酷な事実一つだけだった。

 時間だよ。
 お別れの時間だよ。
 諦める時間だよ。
 死んでしまう時間だよ。

 浮かぶ星明かりが無数の目となって、今か今かとあたしを見つめてくる。魂を食べようと、嗤っている。あたしが死ぬのを待っている。あたしの魂が天に還るその時を。
 だから、あたしは。
 あたしは、空が嫌いだ。

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