たちきれはなし サンプル



 手紙、と、きっと虚ろな目を店の入り口へ向けて小糸は呟いていた。待ち人来ずの入り口をくぐるのは昨日も今日も芸妓衆か女中か男衆かそればかりで、数日前には毎日かと言う程に顔を見せていた者の雰囲気すら漂わせない。実際、一時期は入口を見ただけでいかにも能天気な、小糸一筋と顔に書いたが如き阿保の顔を小絹はすぐに、小憎たらしく思い浮かべることが出来た。今だってそうだったはずだ。
 だが、そんなことはどうでもよかった。小絹に迫った静かな恐怖は、思考を奪い、さあっと顔色を変えること容易である。その色に、小糸はきっと気付かない。
 おねえちゃん。縋るような声が、か細いのに痛々しい。

「手紙、若旦那にお手紙書いたらあかんやろか」

 僅かに傾ける首は柳のよう。阿保なこと言いないな、と烈風のような小絹の言葉にちっとも動じる気配はない。昨日と今日で、彼女は涙を流し過ぎたから疲れているのだろうと思う者は思うだろう。頷くことも反抗することも出来ないのだと。だがそうではない。きっと小糸の決意が強いから。
「若旦那どこの人や思てるんや。船場やえ」
 そんなお堅いとこに南地から――色街から手紙なんか出せへん、そうぴしゃりと言う。小糸はやはり何も言わない。悄然としたように見えて、その実、狂いを秘めている。じっと涙を――昨日枯らした想いの熱を堪えている。自分のあの人への想いが尽きぬように、逃げぬようにと。
 そして食卓は押し潰されたような空気が満ちる。小糸は軽く一膳箸をつけただけ。昨日は何も食べてない。そんなに早く、人は痩せない。だが小絹の目には肉も頬の赤みも無理やり削げられたかのようにも見える。
 昨日、いいや、一昨日、たった二日の昔は着物も髪もあんなに着飾っていた。はしゃいでいた。頬には花が咲いたかのようだった。若旦那と約束した芝居に行くねんと何度聞かされたかわからない。髪結にうんとよく仕立ててもらって、崩したくないから寝ないと喚いていた。芝居の桟敷で居眠りしたらそれこそ若旦那が嫌がると女将が言うのに、そんなことせえへんわと笑って返していた。当日だって、どの着物がええやろかこの帯はどやろか、そわそわしっぱなしで、まるで子供だった。小絹だって、そう言って朋輩衆と笑っていた。
 それがどうだ。髪も着物も、本当に見て欲しかった人に見られずに終わってしまった。
 華やぎも何もあったものではない。着物はとうに脱いでいて襦袢だけのような状態で、髪はすっかり崩れていてだらしがないことこの上ない。頬の花は見る間に萎れたのだろう。あるいは悪戯に引き千切られてしまったのだろう。
 見ていられなかった。男衆だって、女中だって、朋輩衆だって、女将だって。
 小絹だって。

 だけど、手紙は。

「手紙くらいええやないの」
 そう声が優しく降りてくる。小糸とよく似たその顔の人は眦の皺をそっと細める。おかあはん、と呆然たる、どこか怯えたような響きは小絹で、お母ちゃん! と曇り空にお天道が顔を出したような響きは小糸だ。そんな元気もなさそうだったのにどうだ、立ち上がってさえいる。今の今までがまるきり嘘みたいに、小糸は二日前と変わらぬ顔をしていた。花は戻ってきていた。
「誰か……辰つぁんにでも、持って行とくんなはれて頼んでみるさかい」
花は見る見るうちに開いていく。目もぎゅっと弓のように細まった。お母ちゃんおおきに! 言うなり小糸は膳に目もくれずばたばたと、芸妓らしからぬ喧しい音を立てて自室へ向かう。
 文を書くのだろう。文を書けば、来てくれるとでも思っているのだろう。
 おかあはん。振り返りながらそう言う小絹の響きからまだ怯えは拭えておらずむしろ深まっている。暗に、どこか責める調子もあった。何で許してしもたんやと、言いたくても言えない、言っても詮無いことを喉の下に押し込めていた。
 小絹の声なき問いに女将は答えない。すまなそうな顔でただ首を緩やかに振るだけ。小絹は微妙に眉を逸らしながらも食い下がらなかった。最初から問うつもりはなかったし、何より小絹は気付いたのだ。

 小糸は自分ではない。自分のような過ちが起こるとは限らない。
 それでも小絹は、己が過去を思い出さざるを得なかった。




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