逆上した若い芸妓が男に刀傷沙汰を起こしかけたと言う、北新地を一時騒然とさせた椿事は数年前だからか、周辺の人々の記憶にはまだ新しい出来事の部類に入る。
 一人の若い芸妓がいて、彼女には旦那がいた。若い旦那だった。若い二人は忽ちに恋に堕ちた。夫婦約束まで交わしたと言う。しかし、芸妓は嘘をつかれていた。旦那からすればただの遊びに過ぎなかったのだ。旦那には他に目をかけている芸妓も本妻になるべき人もいて、そちらとの仲の方が男には重要だったのだ。
 芸妓が若いことが悪かったのだろう。恋のいろはの何たるかも知らず、置屋に来た時から芸一筋だった所為もあるだろう。多くの芸妓のように諦めればよかったのだ。これが旦那と言うものだと、男と言うものだと理解すればよかったのに、彼女は違った。
 彼女の手は刃を持った。そして男に、世にも恐ろしい形相で斬りかかったと言う。
 芸妓にあるまじき行動である。芝居めいた筋書きやワ、と語る人もいる。安珍清姫やないか、と呆れる人もいる。実際、噺家や劇作家がこの事件を題材として何か話を拵えようとしたという噂もあるが、それらは悉く揉み消されたと言う。何分相手が悪いだろう、旦那だった男は堂島の大家の若旦那と聞く。それが本当ならばそれこそ北新地の花街の方がごっそり消えていたのでは、としたり顔で世間の下衆は話すだろう。
 芸妓にとっても旦那にとっても恐ろしい椿事の全てを知るのは、きっと小絹だけだ。
 刃を握り、涙を流しながら男に斬りかかろうとした、小絹だけだ。
 まだ小絹ではなかった頃の年若い芸妓。絹千代と名乗っていた頃の最後の記憶は、長年自分を目に掛けて育ててくれた女将の罵倒に、悄然と肩を落としている姿だった。女将の顔を見ることも出来ず己が右手と左手を見るばかりだ。刃を握っていた右手は、今は死にぞこないの乞食の口みたいに開き、だらりと空虚を掴んでいる。
 何考えてるねん。鞭の如き一言に、絹千代は答える気力すらない。
「あんた清姫のつもりか。浄瑠璃の見過ぎやろ」
 阿保かいなと、世間の口と同じようなことを女将も言う。や、ちゃうなと一旦否定するその表情は怒りと侮蔑が滲んでいる。
「可愛がってくれた旦那に本気で血ぃ流させようとしよるなんて、そんな趣向浄瑠璃にも歌舞伎にもあらへんわ」
 ちょっと芸が他の芸妓よりも巧いからて、と女将の叱責、否、痛罵は続く。絹千代はそれを聞いていたはずである。それなのに、刃を握った右手が力無く空虚を掴んでいるのと同じように、体全体は虚であった。内側が虚ろであった。そのわりに考えることは一点に集中している。むしろそれによって絹千代は意識を保てているのかもしれない。

 どうして自分は、あんな恐ろしいことをしてしまったのだろう。
 それが恋というものの本質ならば、恋とはなんと恐ろしいものなのだろう。

「あんた、三味線がやっと弾けるようになるまでどんだけかかったと思てんねや」
 そんなろくでもないあんたを育てたのはどこの誰や、どこの置屋や。ここやろ。
 絹千代は頷く。そう。自分は口減らしの為にこの置屋に奉公に入った。物の分別がやっと付き始めてきたような稚い時分にこの、女だけの世界と言ってもおかしくない程の花柳界に捨てられたも同然だった。他の置屋がどうなのか知らない。他の花街や色街がどうなのかは知らないが、この置屋は女将も他の芸妓達も厳しく、頼れる者は零に近かった。幼い絹千代が辛うじて理解出来たこと、それは、自分の身を立たせるのも頽れさせるのも自分次第と言うことだった。
 故に絹千代は誰よりも芸を磨いた。多少覚えが悪く時間がかかっても、やがては三味線も舞も唄も北新地の若い芸妓の中で一際輝くものを放った。孤独は深い闇だろう。そこで輝こうとすればそれは一番の光となるだろう。己が世界に留まらず、現実の世界に於いても。
 絹千代の方は決して誰かに愛されたいわけでも、ちやほやされたいわけでもなかった。ただ己が生きる為に芸を磨いていたのである。それでも、誰もが絹千代の名前を覚え始めていた。絹千代は間違いなく北新地の人気芸妓になっていたはずだ。旦那になりたいと言う男達がじきに集まってくるだろうと誰もが噂していた。
 だがそれらは悉く仮定に終わる。
 一人の男との出逢いが、一人の男の些細な遊び心が、絹千代を失墜させた。
 あるいは、絹千代自身が堕ちた。
 白黒の判断は絹千代自身も付け難い。ただ旦那への想いが恋心だったと言うことは否定出来ない。
 出来ない、と言うよりはしたくない。

 ちゃう言うたら、なんやってん?
 あては形の無いようなもんに、何もかもほかしてしもたんか。

 紛れもなく初恋だった。芸の向上以外に何も求めなかった絹千代が初めて人を求めた。人から人への情を欲した。旦那はそれに応えた。絹千代の芸を、姿を話を気遣いを褒め称えた。堂島の大家の若旦那と言うこともあり投資も惜しみなかった。果ては夫婦約束まで。
 絹千代の孤独の宇宙には確かにもう一つの光が宿っていた。惜しむらくはその真贋が見抜けなかったことだろう。手に入れようとすれば消えていくものだと、そうでなくともその内消えてしまうものだと推し測れなかったことだろう。
 男は芝居に連れて行ってやると言う約束を一つ残して絹千代の前から消えた。絹千代は来る日も来る日も旦那からの呼び出しを待った。彼の座敷へ行けないなら他の座敷にだって出たくないと強情を張ったりもした。だがそんな我儘に周りが折れてくれる程の芸妓では、残念ながらまだなかった。頬を叩かれた。叱られた。詰られた。強情は一度は引いたものの、本当には引き下がれなかった。

 絹千代は手紙を書いた。何通も、何日も。
 百日書いても、彼が訪れることはなかった。

 その百日だけではない。絹千代はそれまでずっと、孤独に在り過ぎた。あれだけの財力のある男、当然他の芸妓の旦那でもあるはずだ。所詮、初心な自分をからかっているだけだと笑うことすらその矜持が許さなかった。百通も書いた意地が、そうさせてはくれない。
孤独であるが故に育ち過ぎてしまった自尊心と意固地が、刃を握らせた。
 今その手は、三味線の撥さえも握れはしないかもしれない。
 旦那と同じくらいに、芸を一心に愛していたはずなのに。
 自分を生かしてくれる唄を、自分を自分たらしめてくれる舞を。
 堪忍。声にならない呟きは涙にもならず、心の一番奥に雪のようにそっと舞い降りた。
「親の顔に泥塗るちゅうんはこのことや」
 芸も出来ないだろう。身を鬻ぐしかないだろう。芸妓が娼妓に堕ちるだろう。ともかく花柳界を追放されることは目に見えている。絹千代の生きる場所が土台から崩れていく。どこか治安の悪い、上等ではない色街に捨てられるに決まっている。
(何で恋なんかしてしもたんや)
 全部なぶられとったんや。奥歯をぎり、と噛む。浅ましい。旦那のそれがただの遊びであると見抜けなかった自分への憎しみが血を沸かせる。悄然としていた彼女の体に満ち満ちる負の気力は、彼女から視界を奪う。彼女から音を奪う。
「絹千代!」
 一際大きな女将の怒声に全てが戻ってきた。代わりに、いつまでそないしとんねんとあちらの方に怒りが上乗せされたらしい。
「聞いとんか。南地の紀ノ庄さんがや」
 何、と零れた声はやはり虚ろである。何も聞いとらんだんか、そんな呆れを加えた蔑視を絹千代は瞬きして受け止める。
 女将曰く、こう言うことであった。
 今回はあちらの大旦那がこの置屋と北新地に馴染みが深いと言うこともあって、際立った醜聞が立たないよう手を尽くし置屋にも賠償してくれることになったが、そうまでしてくれる以上絹千代は置屋から出て行かねば折り合いが悪い。本来なら花街どころか娼妓中心の色街にも身を置き兼ねるところだが、ある置屋が彼女の身を引き取りたいと名乗り出たと言う。
 南地五花街にある小さな置屋。屋号は紀ノ庄と言った。
 聞けば絹千代は名妓になる可能性を高く秘めた逸材と言うこと。まだまだ若いその身をなくしてしまうのは惜しい、そうでなくても、芸一筋でやってきた娘が路頭に迷うのは不憫でならない。そちらさえよければ、来てくれないだろうか。
「言うたら悪いけど、なんぼ南地にある言うたかて、小さい置屋や。看板が傷ついてまうやもわからんのに、あんたが欲しいって言うてくれはってんで」
「あて、を」
 そうやと女将が浮かべたのは複雑な表情だった。怒りに歪んでいるようにも見えるし、泣いているようにも見えるし、どこか安心して微笑しているようにも見えた。交わらない、反発しあう感情を浮かべた顔はただ気難しい。確かに、小さい頃からずっと厳しくされてきた。今も酷い叱責を受けた。だが彼女に情が無いとは言わない。情が無ければ、絹千代がここまで育つことはなかった。絹千代唯一の持ち物の芸だって、あれだけのものにならなかった。

 絹千代の芸の上達を誰よりも喜んでくれたのは、誰だっただろう。
 おかあはん。
 実の母以上に、そう呼んだ。

「もうおかあはんちゃうわ」

 さっさと荷物まとめえ――そう苦々しく言い捨てた女将の顔を、絹千代は涙に滲ませながらもしっかりと見つめ頷いた。


 

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