時計塔の少女



 そこは時計塔と呼ばれていた。まあ確かに時計塔なのだ。町の広場にどんと佇むその塔が何を象徴として掲げているかと言うと時計だからだ。昼の十二時と夕方六時に鐘を鳴らす。でも鐘なんかどこにもない。どこからともなく音が聞こえてくる。あるいは時計塔が命を宿しているのかもしれない。心臓が脈動する音が聞こえるように。一日に二回しか血液を送らないだけということだ。
 少女はその中に住んでいた。部屋は実に様々な時計が置いてあった。砂時計もあれば水時計もあるし、日光が当たるところには日時計も置いてあった。それから沢山の壁掛け時計、柱時計、鳩時計。様々な電子音を鳴らす時計。電池で動くタイプのものだ。いわゆる目覚まし時計。いろんな形がある。猫の形、犬の形、ペンギンの形、羊の形。でも羊の形なんてちょっと変だと思わなくもない。眠りに誘う象徴の動物が目覚まし時計に使われるのは何と言うかちぐはぐとしていた。でもそんなに大した問題ではないのかもしれない。羊だって眠い時は寝るし、覚醒すれば自然と起きる。眠り続ける動物なんていない。
 それほど沢山の時計に囲まれた彼女は実に美しかった。白く滑らかな肌とぱっちりとした瞳、桃色のつやつやした唇。物憂げに俯いているところなんて、絵画でしか有り得ない世界のようにも思えた。とりわけ僕が好きだったのは腰まで伸びた髪だ。ぬばたまの夜を凝縮したような深い深いその世界――彼女から分離しているのではないかと言うくらい、完璧な美しさを誇っていた――それを、しかし僕は切る仕事をしていた。美容師。僕の職業だ。二週に一回、彼女の下を訪れて、さらりさらりと鋏を入れる。彼女は髪の伸びが早いのだ。二週間であっという間に元通りになってしまう。
 僕と彼女の会話は短い。最低限のやりとりだけだ。
「出来ました」
「そう」
 最後はいつもこんな調子で締めくくられる。大体けたたましく時計が鳴ったりちくたく針が動いたり振り子が揺れたりしていて、本当はすごくやかましい。でも僕は彼女の髪に鋏を入れていることで、一種の沈黙を創り出すことが出来る。僕にとっては無数の時計よりも彼女と彼女の髪と僕と僕の鋏が全てだった。世界に余計な音は無かった。
 彼女が何故こんなところに住んでいるか考えたこともなかった。僕は依頼されてただ髪を切りに行くだけに過ぎない。少女と美容師。いいじゃないか。関係はそれだけで十分だ。でも定期的に時計塔に出入りする僕の存在はそれなりに奇異に映っていたに違いない。
「なあなあ、あそこには誰がいるんだい」
 悪さをすることで評判の悪童が仕事帰りの僕の周りをうろついては訊いてくる。まるで餌をねだる猫みたいにその声はうるさかった。そう、その子供は猫っぽいのだ。瞳孔は縦に長く、身のこなしはしなやかで爪は鋭く長い。肌の色は浅黒いし、そのまま黒猫だ。ならば、猫に言っても少女と僕の関係の崇高さなどわかるまい。
「そいつ本当に人間なのかなあ」
 人間じゃ無くても構わないと返した。
「人間じゃ無かったら何なんだろうなあ」
 何でも構わないと返した。
 しかし――僕はその猫を徹底的に無視するべきだったのだ。話してしまったのが運の尽きだろう。僕は彼女が何者なのか、人間じゃ無いなら何なのかが――気が付けば、二週間の間にどうしても気になり過ぎてしまっていた。
 何食わぬ顔で鋏を入れていても意識せずにはいられない。このままだと鋏の切っ先が鈍ってしまう。そしてそれは切られる側に不安を齎す。
「気付いているんじゃない?」
 案の定彼女は声を上げたのだけど、それは不安とは裏腹な落ち着いた響きを持っていた。いや、それはともかく――「気付いて?」――思わず僕は鋏を止めた。
「あなたのその不安は、気付いているけど、言葉にしたくないという強い想い」
 僕と彼女を包む沈黙を、数多の時計の音がまるで貪るかのように呑みこんでいく。秒針の音が、振り子の音が、やかましい電子音が、焦燥を次から次へと引き千切り、それにもまた食らいついていく。真実を覆い隠していたもの。僕は――隠蔽していただけで、本当は知っていたのだ。いつ、気付いたのだろう。いつ、隠したのだろう。
 彼女もまた時計なのだ。
 彼女の、それだけで世界を形作るような漆黒の髪は時間そのもので、僕はそれを切っていた。決して抗えないそれに、何度も何度も、銀の刃で立ち向かっていた――と言うのか。
「私だけじゃないわ。人間なんてみんな時計よ」
 僕は、少女の髪から手を離していた。
「最後の時を刻むまでみんな。いいえ、最後の時を刻んでもずっと」
 ふわり、振り子のように髪は揺れる。がくり、と彼女は大きく体を震わせ俯いた。
 そうして彼女は本当の、物言わぬ時計になった。周りの多くの時計はそんな彼女を迎え入れるかのように再び騒がしく音を立て始めた。時計が人間というなら、ここにある無数の時計達もかつては人間だったのかもしれない。そしてそんな時計達を内包する時計塔も、あるいは。
 それから僕がどうやって帰宅したのかはわからない。依頼主に電話をして彼女のことを訊いてみた。けれども彼はこう言った。きっとさも胡乱げな目で電話機を見つめながら話したことだろう。
「そんなこと頼んじゃいないよ。時計塔? 知らないよ。あの広場には時計なんか無いじゃないか。無いものに人が住むわけがあるか」
 広場に時計塔は無くなってしまった。けれども広場に集う人は皆時計を持っている。人こそが時計だ。終焉の時を刻むその時まで、寸分の狂いもない時計に。そしてその後にやっと物言わぬ時計になる。


(了)

novel top

inserted by FC2 system