怪獣たちとめしあがれ




 彼女は泣いていた。彼女の隣には怪獣がいた。生まれたばかりのようで何となくぬらぬらと表面が光って見える。多分肌はうろこだろう。爬虫類の特徴を有した、約三十センチ程の小柄な生き物。彼(あるいは彼女)は涙を流す彼女の隣で何をすればいいのかわからずに途方に暮れた赤ん坊のように黙っていた。
「君が産んだのかい?」
「知らない」彼女は涙をまき散らすように首を振る。「あたしこんなの知らないわ」
「でも泣いてるじゃないか」
「涙と怪獣に因果関係があるんならこの星はとっくに怪獣に支配されてるわよ。怪獣王国よ。怪獣大盛りよ。怪獣パラダイスよ」
 かつて栄えし恐竜の時代は古代人の涙なのかもしれないと言ったら彼女はますますうわあんと泣きだした。結構ロマンチックな解釈だと思ったのに。やれやれと僕は僕なりに不満を顕わにした。まあ唇を突き出す程度。






 怪獣は犬で言うとフレンチブルのような顔をしていた。猫で言うと眼病を患っているようなペルシャみたいな感じだ。とにかく何となく気難しい印象を与える顔立ちだったけれど人によっては可愛いと思えるようなものかもしれない。僕は特にどっちでもないけれどそういうものを見て可愛いと思える人の心はあまり理解できない。
 彼女が何故怪獣を産むことが出来たのか、どういう風に産んだのかはわからない。けれども怪獣が誕生してしまった理由を一つ、僕らの事情に限定して探すならば、僕達の恋物語がそろそろ終焉にさしかかっていたことに見出せるかもしれない。よくある話だが、このところあからさまに、僕らは仲違いをし始めていたのである。
 ああもう関係が終わるかもな、と思いながらもそれをどうにかしようとする気が全く起きないのだから、きっと僕らの関係なんてその程度でしか無かったのである。でもそれは少なくとも僕にとってはという話で、何でもそうだけれど、僕以外の人にとっては、そういうこともあるかもしれないけど、そうでないことだって十分あり得る話なのである。僕は諦めかけていてどうにでもなれという感じだったけれど、彼女は諦めたくなかった。だからきっと怪獣を産み出してしまった。とそういう理屈を立てた。そんな理屈を立てたのに僕は結局何もしなかった。そういう奴なんだ。でも僕は彼女の傍にいた。彼女のもとへ帰るのだけは諦めなかった。







 彼女はよく泣いたが怪獣もまた良く泣いていた。しかし音は無い。音は無いけれども何となく、怪獣が泣いているというその現象が目に入っている、あるいは周囲にあるということだけで苛立ってしまう。観念的な音が聴こえているのだろうし、そもそも泣くと言う現象自体が苛立たしいものだ。幸いなことに怪獣は人の目には映らなかった。でもそれは言ってみれば、その怪獣は僕と彼女が何とかしなければいけないということを暗に突きつけられている気がした。

 怪獣は何でも食べた。果物、野菜、肉は勿論、生ゴミも躊躇せず、読まなくなった雑誌、ネットの通販に使われる明らかに梱包過多な段ボール、チラシ、コンビニの袋、穴の空いた靴下、伝線したストッキング、ペットボトルなどに至るまで、口に入るものは全部食べた。消化はどうなっているんだろう。排泄はどうするんだろう。いつか来るであろうその時を僕も彼女も戦々恐々として待ち構えていた。けれど怪獣は小便も大便もしなかった。食べ終えて満足そうに彼女の膝に乗っかって眠りについていた。
 不思議な生き物だった。何だか手のかからない(それは何と素晴らしいことであろう!)ペットのようなものだった。ぐうぐう寝る姿を見て僕らは目を合わせ互いにやれやれと苦笑して肩を竦めたりもした。
「なんかいいよね」彼女は言った。「上手く表現できないけどこういう時間って好き」
 それは僕にしたって同じだった。僕らは眠っている怪獣の上でキスをした。そしてそのまま僕は彼女と寝たのだ。実に久しぶりに。何しろ最後に寝たのがいつだったか忘れていたのだ。
もしかしたらこのまま僕らの関係は元に戻っていくのかもしれないとさえ思えた。怪獣は破壊や破滅の御使いとして現れたわけじゃなくて、もっと善きものの前兆として現れたのかも知れない。幸せのメタファーは時として難解な形で現れることも少なくない。時間が経つにつれて顔もそこまで不快に思わなくなっていたし、泣くことも少なくなってきた。怪獣にしても彼女にしても。もしかしたら、僕は思う。もしかしたら何かいいことがあるかもしれないと。

 でもそんなのは結局僕の思いつきに過ぎなかった。淡い期待でしか無かった。形而上にある想いというモノなだけ。それは現実に在るべき形を得ることで初めて意味を成すのだ。思っているだけじゃ伝わらない。いや、もっともっと僕らが恋人としての絆を保っていたならばそれは思うだけで相手に伝わったのだけど、残念ながら僕と彼女を繋ぐパスは修復不可能なところまで破滅が進んでいた。灰土に花は芽吹かなかった。そしてそのことに僕は気付かなかった。気付かずに安穏と過ごしてしまった。それこそが最大の過ちだったのだろう。







 そうしてある日僕はばっくりと食べられてしまったのである。ある日突然巨大化を始めた怪獣にがぶりとやられてしまったのだ。僕が彼女の部屋に帰ってくると、彼女はおらず怪獣だけがいた。西日が射す部屋でもくもくと通販の段ボールを食べている(暇さえあれば何でも口に入れたがる困った子だった)今日も疲れたなあと隣に腰かけると、巨大化の前兆など何も見せずに次の瞬きの瞬間、怪獣は巨大化した。そして僕の腕を噛んでいた。悲鳴を上げることすら出来なかった。その上僕は一歩も動けなかった。尻で移動することも出来ない。そして二口目、三口目と怪獣はがぶがぶ食べていったのである。この僕を。さして肉がついているわけでもない、骨ばってひょろひょろした僕をもりもりと、ぱくぱくと、むぐむぐと、もぐもぐと。

 つまるところ怪獣はやっぱり怪獣でしか無かったのだ。そして彼女の心の象徴でもあった。僕は彼女のことをわかっている振りをして、好きな振りをして、やっぱり何もわかっちゃいなかったんだ。好きでも何でもなかったんだ。僕と彼女の暖かな繋がり、恋をし想い合える許可の有効期限はとっくに切れていて、形骸化したそれは悪しきものを呼んだ。僕の何気ない行動の逐一が彼女の精神に多大な負荷をかけていたんだ。

 死にかけながら思っていた。僕らはもう決定的に違ってしまったんだ。そしてそれを直すタイミングももう永遠に来ないのだ。煮え切らない僕に彼女は怪獣を産んだんだろう。僕を傷つけたい為に。僕に恨みという形に変化した自分をぶつけたい為に。絶望や失望や涙や無力感を千のナイフに変えたかった。ざくざくと、ずぶずぶと、腕に太腿に腹に胸に性器に脛に尻に首に頭に、ただただ突き刺したかったんだ。

 ああ、ああ。わかる、わかるよ。彼女の気持ちがまるで自分のもののように手に取れる。でもその手ももう無い。千切れてしまった。食われてしまった。

 ごめん。ごめん。でも最期に一つだけいいだろうか。

 僕が帰りたいと思った場所はここなんだ。この西日が射す安い部屋。さして綺麗なわけでもないし、お洒落ってわけでもない。だけど僕と君の記憶が染みついた部屋なんだ。

 僕はここが好きだった。
 そして君が好きだった。確かに、ちゃんと、本当に。








 があん、と鈍い音が聞こえた。ぱあん、とも聞こえた。まるでフライパンで何かを思いっきり殴ったような音だった。――ところでそういう表現はよく小説でも漫画でも使われる比喩表現だけど、フライパンで何かを思い切り殴ることなどあるのだろうか? そしてそれを聞いた時とっさにそう思えるものなのだろうか? と刹那の間に疑問を抱いた僕は死んでいくというのにのに結構器用な方だなと思うけれど、果たしてそうだった。怪獣はまさかのフライパンで殴られていた。更にそのうろこの肌に何度も何度も鋭い何かが突き刺された。それはおそらく包丁。僕も彼女も何度も持って料理したこの家で一番切れる包丁だった。
 彼女が、泣きながらそれらを振るっている。右手にフライパン、左手に包丁。フライ返しの方が絵的には合っていた。惜しい。しかし着目すべきところはそこではない。彼女は、怪獣に立ち向かっているのである。

 怪獣対彼女。

 泣き叫びながら彼女はフライパンを何度もぶつけ、包丁で怪獣の皮膚のあちこちをめった刺しにしていく。怪獣は声なき声を上げた。見た目こそ怪獣だけど奴は食べるしか脳が無い。火炎を吐くとか音波を出すとかビームが出ると言った特徴は無かった。食べる。そうだ。彼女も食べられてしまう。逃げて、僕は叫んだ。ありったけの力で、血を吐きながら。しかし彼女には聞こえない。いや、彼女はそもそも聞こうとしていなかった。

 彼女はきっと決めていたのだ。自らが産んだ怪獣と戦うということを。

 僕はしかし、彼女の雄姿をあまり見ることが出来なかった。薄れゆく意識の中、浅い呼吸を続けるのに精一杯だった。どうせ死にゆくのに呼吸するなんてあまりに無駄な話。でも僕は出来るなら少しでも生き続けたかった。彼女に謝りたかったのだ。君が怪獣を産み出したことについても、君が肉刺を作りながらも勇敢にフライパンを握り締めて、鬱屈した心の化身である怪獣に立ち向かうことについても。それから、伝えたかった。ほんの少しでも僕はまだ、君のことを好きでいると言うことを。
 彼女が僕の名前を呼ぶ。僕はそれに答えることが出来ない。僕を覗きこむ彼女の顔はやっぱり涙に濡れていたし、鼻水だってみっともないくらい垂れていた。泣きながら戦ったりする所為だ。思えば僕は彼女の泣いた顔ばかり見ていたような気がする。彼女の心からの笑顔を見たのはいつだっただろう。ほんのつい最近見たはずなのに、重い事典の片隅、僅かな記述のみ許された瑣末な歴史くらい遠くに思える。例えば三四八ページの右隅四行分、とか。

「ごめん」

 ごめんねえ、とその瞳を隠すように目を瞑れば、僕の頬に雨垂れのように涙が零れていく。後はもう言葉にならない。赤子のそれと同じ。言葉に出来ない想いが涙になって、辺りに飛び交った。ぽたぽたと涙の落ちる音がする。終わりの音にしては随分上品、そして儚い。いや、儚くていいのか。僕は死んでしまうんだし。涙はそのままフローリングに染み込んで消えない痕になるかと思われた。
 ところがその涙はたちまちのうちに卵になったらしい。ぷうと涙自体が膨らんで白いすべすべとしたボールのようになる。膨らんだかと思えば一瞬のことで、白には亀裂が走る。そしてぱかっとばかりに割れ、中から出てきたのはそう、怪獣だった。
 見えないけど僕にはそれがわかった。あの怪獣程の大きさではなく一体十センチから十五センチ程のミニマムな怪獣がぽこぽこ生まれている。生まれるなりそれらは彼女と泣いた。それは誕生の雄叫びとは程遠い哀れな号泣であった。何重にも重なるとまるで荘厳な音楽もかくやとばかりになる。これはそう、レクイエムだ。
 ざり、と頬を何かが舐める。猫の舌のような感触。怪獣だ、僕は思う。怪獣が舐めているのだ。ざり、ざりと愛撫に似たそれは増えていく。舐める行為に留まらず、怪獣たちは優しく僕を食んでいく。慈しむようなその行為に僕は知らず泣いていた。
 額に、キスが落ちる。この唇の感触は慣れた彼女のものだった。一度視線を絡ませ、僕らは笑った。彼女の方にしては涙が勝った笑顔だった。これから自分が、そして涙の怪獣たちが何をするのかわかっていて、そしてそれに抗えないからこその申し訳ない笑顔。いいんだよ、僕はそう言いたかった。でも言葉は既に紡ぐこと能わず、僕はただ笑うしかなかった。
 彼女と僕の最後のキス。時間をかけてゆっくりと。そして彼女は、大きな口を開けて僕を食らった。ばくばく。がりがり。むしゃむしゃ。もぐもぐ。彼女と彼女の優しい怪獣たちに食べられる。そして僕は死体を残すことも無く、彼女になっていくのだろう。彼女と共に生きていくのだろう。

 そう考えると、好きな人に食べられると言う結末も結構悪くないように思えた。だからいいんだ。そんな風に泣く必要なんてないんだよ。



(了)

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