外に出た途端、予想以上の寒さに足だけじゃなくて全身が竦んだ。無限に広がる空気の中を行き交う寒気と雪は、喜ぶように辺りを駆け巡っていたが、それはどこか痛々しささえ孕んでいるものだった。
 そんな中、制服一着だけで佇んでいる桜ちゃんは、神様だからか温度なんて関係ないんだろうか、それとも、もう寒さに慣れきってしまったのか、あてもなく思いながら私は目的地へ走った。まっさらな白い大地に私の足跡が模様をつけていく。
 彼女の後ろ姿が見えた途端――ここまできたというのに、緊張感がひしひしと心臓の自由を奪っていく。……私は彼女を畏れているんだ。息を飲んで素直にそう感じた。

 あんなに小さな背中なのに。あんなに細い体なのに。
 彼女が内に秘める力は、この世界から春を徐々に失くしてしまった。

 閉ざされた冬の中で――生徒会の皆がいなくなっていった、短く繰り返された世界で、彼女は初めて、少しだけ、私に顔を向けた。
「……なんだ、あなたなの」
 普段の声と、そう変わらなかった。人を不必要に近寄らせない、唯一絶対のような存在。ぎりぎりまで張り詰めたピアノ線のような印象を声だけで与える。

「全員消したつもりだったのに。
 こんな世界、もう無くしてしまって、一からやり直そうって、思ってたのに」

 風に奪い去られるような小声だったが、この静かな世界では、どんな音だって私に届きそうだった。彼女は確かにそう言った。
「しぶといのね」
 桜ちゃん、と私が呼びかけようとした時、いっそのことと、刃物が切り込むように彼女は言葉を継いだ。

「私だけになってしまえばよかったのに」

 桜ちゃんは、完全に私と向き合った。可愛らしい造りの顔も、こちらに向けられる。だけどその目を見て――思わず目を逸らしそうになる。大きな傷を負っていて痛々しいから、生々しいからとか、そうじゃない。
 何百年も続いた冬の所為で、すっかり凍てつき果ててしまったような――からからに乾いて、虹彩も網膜も、その内に燃える信念や想いも何も無いような、がらんどうな目が、私を文字通り冷たく見つめていた。
 白い背景と降りしきる雪の所為で、まるで彼女は――桜という名前にそぐわず――雪女のようだった。
 そんな彼女を見ているだけで言葉を失う私だけど、頬に付く雪の冷たさで覚醒する。
「そんな、そんな悲しいこと」
「霞達も馬鹿なことするわ」
 言わないでという言葉さえも、彼女の声が覆いかぶさって奪われる。神様が弄ぶようにタイミングがいい。彼女は人間に恋をしたといっても――この世界を繰り返せるほどには神なのだから、それくらい当然かもしれない。
「何も出来やしないただの人間を頼るなんて」
 そうして背の低い彼女は私を見下す。力無い目とは違い、凛と通った声だった。
 空っぽの目で私を一瞥して、意外なことに彼女は笑った。だけどその笑いは、どう見ても嘲笑だ。
「そ、そんな風に言わなくてもいいじゃない!」
 軽く私には頭にきた。ただの人間だなんてことは自分がよくわかっている。けれど、もともと彼女と仲がよろしくない所為もあるし、何より、みんなの願いを託されたこともある。
「みんな、桜ちゃんを想って――」
「じゃああなたは何が出来るっていうのよ」
 言葉も視線も冷ややかさを一層増していた。周りの冷たさと相まって、四方八方から圧迫されるように感じる。
 それはもしかすると桜ちゃんが背負う、上級の神のオーラとも言えるのかもしれない。何か言おうとしても、私は魚のように口をぱくぱくするだけで、あの、とも、ええと、とも発せられなかった。なのに心臓だけが何か言いたげに動悸を速めていた。
 桜ちゃんはその様子を見てますますその嘲笑の度合いを強めた。
「ほら、出来ることなんてないんでしょ?」 
 気怠く彼女は髪を梳く。はらはらと雪が儚げに零れた。
「ただの人間風情が、気安く口をきかないでくれない?」
 私をきりりと見つめるその目は、空っぽで暗い分余計に破壊的で、世界の終わりを凝縮したかのようだった。その目に加え、立っているだけでも、彼女は世界のあらゆる事象に干渉できるんじゃないか――それ程の存在の強さがそう感じられた。
 松尾さんのような、軽率さや乱暴さが目立った、見苦しいものじゃない。桜ちゃんの場合――恐らくどこをとってみても、きっと間違いない。

 彼女は凍てつくこの世界で、恐ろしいまでに完璧な絶対神性を持つ少女だ。
 私は自分でも驚く程に、怯えていた。

「で、でも」
 声が震える。寒さとは別の震えが私を容赦なく襲う。
 だけど――私はやらなくちゃいけない。震える手をぎゅっと丸めた。
 彼女を、この寂しくて寒々しくて悲し過ぎる世界から、救う。
 それが、予定調和から外れて生まれた私に与えられた、唯一の存在意義だから。
「私は、その、観世先輩と同じ、「異分子」、なんだよ……?」
 桜ちゃんは私の呟きに近い言葉を、案外と大人しく聞いてくれた。
 だけど、彼女の目には何も閃かない。何か動揺を与えられるんじゃないかと思った私が浅はかだったんだろうか? しかし――そうやって思うことすら、甘かった。
 彼女はただ押し黙っているだけだ。ついと顔を俯けただけで、手も足も何も動かさない。だけど私の全神経、影に至るまでにびりりと電流のようで、かつ暗雲のように重苦しいものが走った。そのまま地響きでもしてもおかしくないんじゃないだろうか。
 動悸はさらに激しくなって、何かが危ない、怖いと、生々しい本能を包むそれから訴えられる。呼吸することさえままならなくなりそうだが、私は必死の思いで口を開く。
「だから――」
「だから何よ」
 その小さな体からよくそんな大きな声が出るものだ――こんな状況にいながら感心してしまう私は、本当に馬鹿でただの人間だと思う。いや、彼女のその受け返しに何も言えないでいたからだろう。

 そう、私は観世先輩と同じ異分子だ。
 だけど、だけど、だから何だっていうんだろう?

 外に出る前には心の中でむくむく育っていたあの自信が、どう銘打たれたものであるかすら思い出せない程、私は彼女の途方もない気に打たれた。

「だから何よ、何なのよっ!」

 桜ちゃんの激昂が世界に木霊する。
 何って、その、あの、と殆ど声にならない声で私は命を削るように言葉を紡ごうとするが、自信を打ち崩された今の私には、空元気を起こすことさえ出来ない。
 いや、気力はあるけれど、いざ彼女の前に来てみると何故か――畏れ多くて出来ないのだ。
 私が、と桜ちゃんは睨んで言った。乾いたあの目は、少しだけ息を吹き返していた。勿論――というのは悲しいけれど――憎しみという負の方向に。
「私が、何百も冬を重ねたのは」
 つかつかと私に勢いよく近づいてくる。歩幅はその小さな体に似合わず大きかった。
 気付けば私と彼女の距離は、もうさほど離れていなかった。彼女の顔がよく見える。
 愛らしい、白雪のような肌にそぐわない、蛇のそれに似た睨む瞳と眉。整った前髪、髪の両側に流れる長くて細い三つ編み、漆みたいな長い黒髪は、白い雪で単色に彩られている。
 顔はどちらかというと赤い。憤怒の色だ。
 今一つ、強く私を睨んだ。

「あなたなんかに逢うためじゃ、なかったのよ!」

 そして彼女は――小さな手を勢いよく振り上げた。脳が処理する一瞬間も与えないくらいの速さで、私の頬から広がる小気味いい程の痛みと破裂音が同時に生じた。――穏やかな音しか生まれないんじゃないかという錯覚を抱いていた私にとって、それは天変地異に等しい。頬は寒さ以外の赤さに腫れた。
 よろめいて、頬を抑える。若干混乱していた私の視界に映った桜ちゃんの顔は、雪ではなく、涙に濡れていた。目は睨みを解き、涙に萎み始めている。




next
夢幻の雪トップ
小説トップ

inserted by FC2 system