冗談まじりに運命を信じてた サンプル



 空気が悪いと感じたのは、どのくらい呼吸をした頃だっただろう。

 これ以上生きながらえているのも無駄と考えていたし、空気なんかいらない。それなのに息苦しさを感じるなんて、生に執着する人間の浅ましさの極まりだ。うんざりして私は、きっと死んだ魚より虚ろな目をして、大儀そうに窓の方に顔を向けたのだろう。
 空は曇り空だった。見える限り、どこまでも灰色。空だけじゃない。雲も、飛ぶ鳥も、ベランダも窓枠もカーテンも、部屋中の全てが色を失っている。けど私が色を失っていようがいまいが、空模様は大して変わらなかったに違いない。雨が少し降ったらしいけれど、雲が増えてから泣き出すまで随分時間がかかったように感じた。その遅さは致命的に惨めだった。量もたかがしれていて、申し訳程度に水玉模様を作るくらい。きっと誰も雨が降り始めた時を知らないし、止んだことも知らない。誰にも知られないで流す涙に意味はあるんだろうか。

 愛する者の胸の中以外で流される涙なんて、そんなもの。
 だから私は泣かない。涙さえも、もうこの体には備わっていない。

 窓を開けようか。そう思う。立ち上がるのは酷く億劫で、そうするだけの体力が残っていること自体が有り得なかった。それでも立ち上がれてしまうのだからどこか皮肉めいている。昔は、と嗤う。移動せずに窓を開けることくらい簡単なことだった。指先を動かせば簡単に出来る話だった。指先一本、私の思考さえあれば何だって出来た。
 なのにもう、何も出来ない。遠い昔のことだ。二週間、それとも一ヶ月だったろうか? いずれにせよもうずっと前のこと。戻ってこない時間は等しく遠い。
 何もない。人の心を読むことも、未来を読むことも、世界の全てに繋がることも、混沌の神に通じることも。
 何もかも、もう出来ない。
 あの人が捨てた私に、出来ることも、持ち物も、心も頭も、何もかもあるわけない。

 そう。きっとあの人に愛されたという事実、その記憶もない。
 愛してた? 愛された?
 そんなこと、もう忘れてしまった。

 全てが遠くに見える。私の全てが遠く遠く離れていく。指先の感覚すら怪しい。風を、空気を感じることももう出来なくなっているんじゃないか。だって、色を感じることすらもう出来ないのだから。
 ベランダに出て空を見る。どんなに近付こうと突き抜ける程の青は見えない。目に映る空は全て灰色だった。雲の切れ目にも青を見つけられない。

 青。青?
 空の色は青色だったかしら。

 そんなことはどうでもいい。私の世界は永遠に色を失っているんだろう。知ってる。もうとっくにわかってるわ。掌を見る。ほらご覧。嘲笑う。まるで砂で出来たような不格好な掌が見える。きっと今度は自分自身が砂となって消えていく。
 心も砂になっている。
 さらさら、と、私には感じられない風で身も心も空へ飛ばされていくのだろう。そこにはかつて私に存在していた愛も、愛された記憶も、すり潰されて混じっているんだ。
 空っぽの私。砂の私。飛ばされるだけの私。
 翻弄された私。翻弄される私。最初から、最後まで。
 そういう終わり方もいい。
 今の私にあるとは思えない程の力で、生と死の境界に登っていた。紙よりも旗よりも梢よりもなお頼りなげに揺らめいていた。
 見下ろせば、世界が見える。私を虐げてきた灰色の世界。
 そうだ。そういう終わり方もいい。むしろそれが良い。最初からこうするより他はなかったし、逆にこうする以外、何をしろと言うの?

 思い切り生きたじゃない。
 そうよ。
 もう、生きた。
 それで、おしまい。



 強い風が吹いた。
 私は。
 私は。



 何もかも失った身は軽かった。本当に、風で飛んでいくみたいに軽い。それが思いの外快感で、私は私の虚無から生まれた思念に、疑問に気付かなかった。

 だから私はいつまでも死ねずにいるのだ。


 そして、訪れる誰かを待ち続けている。
 まるで、運命の人を待つ、何も知らない少女のように。


next

告知ページへ戻る
トップへ戻る

inserted by FC2 system