空の女、空を歌う少年 サンプル



 美しく晴れ渡った空を見ると、一人の男と一人の女を思い浮かべることがある。青い一枚ガラスのような空。毎回と言う程のことでもない。けれども確かに思い浮かべる。

 俺の務めるこの学園がまだ都内にあった頃――くわえて俺もそこの学生だった頃、屋上で一人空を見上げながら歌を歌う少年がいた。仮に名前をMとする。Mは歌うことが大好きだった。だからこそこの学園に来たのだろうし、愛するもので世に名を残し、生計を立てようとしていたのだ。その覚悟は見上げたものだった。

 俺も、変な意味ではなく大空の下で歌を歌う彼のことが好きだったし、その歌も同じく愛していた。初めて彼を目にしたのも屋上だった。都会の小さな空の下、それもスモッグに汚れていてあまり美しいものではなかったけれど、彼の声は伸びやかで広々としていて、風に乗って微かに流れてくるそれ聴いているだけでも、俺は身も心も――あらゆることに、現在でも尚ひねくれているこの心でさえも、解放されていくかのようだったのだ。俺の耳からしても歌唱技術は拙く、即興で紡ぎ出したらしいメロディは、幼児が意味もなく口ずさむそれよりも尚陳腐であったかもしれないけれど――空の下という条件の所為もあるかもしれない、それはただ愛おしかった。雲が空のほとんどを覆う厳しい冬の一日、それでもその隙間から見える蒼天が、心を離さない時があるだろう。それと同じだ。そう。彼自身が空だったのだ。

 だが彼には非常に残念なことに才能が無かった。そしてその欠損はこの世界では、あるいはその学園という狭い世の中ではとてつもなく致命的なことだった。
 才能。それだけがあの腐りきった学園内で愛されるものだった。才能。そんなもの俺に言わせたら唾棄されるべきものだ。どんなに素晴らしい歌を歌ったところで、どんなに琴線を震わせる音楽を創り出したところで、どんなに卓抜な技術と表現力を以て楽器を奏でたところで、どれほど心に訴える演技をダンスを披露したところで、それに確固として輝くもの――いや、ただ輝くだけでは駄目だ。輝き続けるもの、天から与えられたものが見出せなければ、この学園では認められない。愛されない。
 くだらない。俺達が真に大切にすべきものは、そんな褒めそやされるものでは、決してないのだ。――まあ俺にしたってそれが何かと言われれば答えに窮するだろう。ただそこではない。そう言える。だから、Mはそこでは言わば落ちこぼれだった。

 Mと違って天から眩い才能を与えられた者は、わりと大勢いた。多分俺もその中に入っていたのだけどそれはともかくとして、その天才陣の中で一際輝く存在がいた。老若男女を問わず、学園中の人間から慕われる女がいた。仮に名前をKとする。そんな彼女はけれども、自らの才能に奢ることなく、慕ってくる者達に対し分け隔てなく接し、また愛し、どこまでも謙虚であり続けた。尤もその人間性とは裏腹に、彼女が創り出す音楽は見た目の穏やかさや繊細さからは到底導き得ない、ある意味乱暴なまでに、けれども決して強制的にではなく、あくまでも聴き手の了承を自然に導き出し、甘い音の快楽へ誘う、そして聴衆の記憶を次々に塗り変えていく様な傑物の集団――文句なしのマスターピース揃いのものであったが、それは今回はあまり関係のない話だ。

 学園の多くの男共がそうであったように、MもまたKに惹かれていた。多くの取り巻きの内に彼も入っていたのだ。だけど――その取り巻き連中にとってMは掃いて捨てるべき存在でしかない。Kの視界に入ることすら許されなかった。連中もまた才能を持ち、そして学園が押し付ける、才能という輝かしい価値観に囚われた奴らだった。持たざる者のMは、自分が排斥されていることをわかっていたけれど――それでも、Kに惹かれていた。
 持ち過ぎた者と持たざる者。KとM。奇異な男女を結ぶものはないかと思われた。

 けれどあったのだ。蒼穹と呼ばれるそれ――そう、二人を繋ぐものは空だったのだ。いいや、むしろ二人が空だったのだ。


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