徳子さん、落語えほんを読む サンプル



「私も落語やりたいわ! 夢さん!」
「アホか」
 冗談言っちゃいけねえ、と思わず落語の口調で返す夢之助。

 落語をやりたい、と目をきらきらさせた女性、名を徳子と言う。様々な事情があって、夢之助の師匠である桜家夢音宅に居候している。絵に描いたようなお嬢様育ちだったこともあってか、まだまだ少女らしさが抜け切らない女である。

「でも、せっかく落語家のお家に居候させてもらってるんだし」
「何が居候させてもらってるんだし、じゃこの徳兵衛が。のうのうと居座ってんじゃねえ、さっさと出てけってんだ」
「なら言い換えましょう。師匠のお宅に厄介になること数ヶ月、落語に興味が湧きましたので、ぜひやってみたいですわん、夢さん!」
「言い換えても無駄だこんちきしょうめが。ドラマや漫画じゃねーんだしそう簡単に女の落語家が出来てたまるかってんだ。ああん?」
「あら。でも寄席には女の噺家さんもいらっしゃるわ」
「姐さん達はお前とは覚悟が全然違えんだよ。ここで半端に落語やって妙な自信がついてよ、師匠が出れなくなった落語会にお前がしゃしゃり出て、ってことになっちまったら……って何だそれ本当に船徳じゃねえか」

 最後には客席に向かって落語家を一人雇ってください、とでも言うのだろうか。有り得そうな展開に夢之助は頭を抱えた。ああ、確かに有り得そうだ。十二分に。

「そーんないじわる言わなくてもいいんじゃなぁい?」
「うわっ! 夢路兄さんどこから!」
「あら、お久しぶりです夢路さん」
「グッドイブニーング、徳ちゃん」

 無視かい! と夢之助が投げ掛ける洒脱な男もまた噺家だ。桜家夢路――身分こそ二つ目であれど、テレビやラジオ、各メディアに頻繁に顔を出す落語家だ。ある意味では尤も落語ファンに嫌われるタイプであるのだが、なかなかどうして、彼の噺は上手い。

「随分賑やかだなあ。どうした? お前達二人たかりに来たのか」
「夢了兄さん」

 夢路に続いて顔を出したのは、人の良さそうな笑みを常に忘れない、夢音一門の総領弟子、桜家夢了。三十代も半ば、稼ぎ盛り伸び盛り、加えて古今東西の落語の研究に熱心な真打であり、一門の良き相談相手でもある。ある意味では夢音師匠の右腕とも言えよう。

「たかりだなんて、夢之助じゃあるまいしぃ。オレはちょっとそこまで来たついででっす」
「俺はたかりになんて来てません! 明日名古屋で会があるんで、その最終打ち合わせに来ただけっすよ」
「ほんとにぃ? 最近しょっちゅう顔出してるくせに」

 徳ちゃんが目当てなんだろ? ――と夢路に耳打ちされて顔を真っ赤にしてしまうのは、何も耳がくすぐったいからだけではない。図星であった。そして、意中の相手を前に開き直れるほどの度胸を、残念ながら夢之助という落ちこぼれ二つ目はまだ有していなかった。
 話を聞いてふむ、と夢了は頷いた。

「なら落語の絵本でも読んだらどうだい? 徳ちゃん」
「まあ、落語は絵本にもなってるんですの」
「そうそう。うちの息子に読ませようと思って、カミさんのお腹の中にいる時からいろいろ買っちゃっててねえ。いつのまにか息子の為よりも自分が興味持っちゃって、お蔭でまた本棚のスペースが足りなくなっちゃって」
「ホント兄さんは落語馬鹿ッスよねえ」
「何だい夢路、君もそうだろ。まあそんなわけで、どうだい? 絵本。朗読するだけでも落語の感覚が味わえるよ」
「面白そう! ありがとうございます、夢了兄さん」




 面白そう! ――そのわくわくしたその笑顔を、夢之助は表紙越しに見ていたのである。その表紙は今、プレゼント用の包装によって隠されていた。そして彼はもう書店ではなく、師匠宅の敷居を跨ぐか跨がないかのところにいる。名古屋での落語会――その本屋が会場で店主が主催だった――は滞りなく終わり、既に東京へ戻っているのだ。
 店主がにこにこ顔を崩さずに包んでくれたそれを徳子に渡すか否か、夢之助は迷っている。いや、こうして包んでしまった以上渡すべきだろう。けれどもどうにも釈然としない。いや、釈然としないと言っても、何も徳子に非があるわけではない。簡単に言ってしまえば夢之助は照れているのである。女性にプレゼントすることなど、今までほとんど無かったと言っても過言ではないのだから。しかし、躊躇する理由は他にもある。そしてそれはことのほか女々しいものであった。

(……徳子は根が素直だから、まあ喜んでくれるだろうけどもさ)

 落語絵本という中身の問題ではなく――。
 夢之助が「プレゼント」してくれた、ということに、果たして喜ぶだろうか。


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