夢の途中、今の自分



 体育館に続く横幅の広い階段を私はどこからか俯瞰していた。広いと言うよりも豪勢と言った方がいいのだろうか。まるで古代ギリシャかどこかの神殿へと繋がってるみたい。季節はきっと冬だろう。ひんやりした空気に沈む廊下はまるで冷たい浅瀬の海を歩いているかのようだから。冷気を感じるということは、そう。俯瞰していた私はいつのまにかその階段を歩いていた。体育館の匂いがする。冬の体育館はシナモンだ。独特の甘い匂いが重い扉を開いた後に鼻孔を打ってくる。
 私は何故体育館に向かっているのだろう。そもそもどうしてここにいるんだろう。ここは私が卒業した中学校だった。総じて嫌な記憶しかない。いわゆるいじめられっ子だった私は入学から卒業に至るまで地味な嫌がらせを受け続けた。体育館もいじめの記憶しかない。体育。体育! ドッジボールやバスケットボールやバレーボール、それらの球技にかこつけて、私は何度酷い打撲を負っただろう。何度保健室で涙を流しただろう。この体育館には惨めな自分の姿しかない。どこを見ても、どこを向いても。たとえ誰かの輝かしいステージがそこにあったとしても、忘れ得ぬ思い出がそこで描かれていたとしても、そんなもの。私の凌辱の記憶の前では霧消する。輝き一つ残さない。
 それなのに、どうしてようやく出来たかさぶたを自ら剥がすような真似をしているのだろう。
 そう思っても私の足は止まらない。ああ、と機械的に進む自分の足をやはりどこか俯瞰的に見ながら思う。俯瞰的にもなる。これは夢だ。夜見る夢。眠りに見る夢。熟睡と熟睡の間の狂言だ。
 重く閉ざされた体育館の扉を両手で引く。ゆっくり左右に開くその様は重さに反して襖を思わせた。固まっていたかのような冷気、そう、独特の甘みを匂わせる空気がまず鼻を打ち、そして体をなぞっていく。目を閉じていたのは中が存外に明るかったからと、もしかしたら、どこかからボールが飛んでくるかもしれないという恐怖からだった。
 中は明るいだけで誰もいない。ボールも一つとして転がっていない。
 がらんとしていた。壇上にも、何も出ていない。
 つく息は凍てついて白い。思い出したくもない体育の時間を否応なく思い出させた。冬はほとんどが屋内での活動になりもっぱらこの体育館が使われた。球技大会とか言う存在意義が全くもってわからないどんちゃん騒ぎもこの季節だったか。あの大会で、負けてしまった非を一方的に私に押し付けたあの女子は、今は何をしているだろう。私に屈辱の苦汁を舐めさせたあいつ。私に頭を下げさせたあいつ。
 惨めの極地にいた私と違ってあいつらは笑っていた。今も笑っているんだろうか。幸せな人生を謳歌しているんだろうか。私は今もなお笑えていないと言うのに。何も、変わっていないと言うのに。

 今も昔も、夢の中も大差ない。私はどこまで行っても人に虐げられ続ける存在だ。

 ここにいたくない。早く覚めろ。醒めてしまえ。でも、「さめて」いくのは空気ばかり、耳障りな音を立てる体育館の床ばかり。赤青緑白黄色のテープが、まるで私を笑い続け、詰り弄り嬲り続けてはまた笑うあいつらに見えてくる。私を縛るあいつらに。床を強く踏みつける。空虚な音が冷気に溶けていく。足で踏もうが手で叩こうが大した反抗も出来ない。ああ、何と弱いのだ。涙に暮れる自分は、あいつらよりもっと嫌いだ。

 嫌い嫌い、大嫌い。

 怨嗟を込めて一際、床を大きく踏みつけた時だった。
 ぱっと何かの光が、眼前で弾けた。
 体育館の天井、幾重にも巡らされている梁の中央、照明に被って彼はいた。いいや彼女? 遠目からはわからない。もしくは女のように美しい少年なのだろうか。蜘蛛の巣に生け捕られた蝶のように、その存在はいた。光と共に。

 ああ美しい。一瞬で心が奪われる。

 太陽に近付くとあらゆるものがその高温で一瞬の内に気化するとか溶けるとか本で読んだことがあるが、ならば彼は太陽なのだろう。私の心は霧消する。理不尽ないじめの記憶の前に何もかもが無に帰するのと同じくらい確かに。恨みも憎しみもそこには無い。
 宗教のことはわからないが、観音や菩薩が衆生を救い給わんとて来迎される時はちょうどこんな感じなのかもしれない。
 私は、浮遊していた。魂が高みへ昇りたいと願うままに、美しく尊きものに触れたいと思うままに自然と。足は汚らわしい地上を蹴り飛ばしていた。そして願う。美しい少年に、あるいは少女に触れんと手を伸ばす。かの存在は私に気付くと微笑した。
 だが、微笑はそのまま、すまなそうに頭を振る。

「どうして」
 私の声は忽ちに悲しみの蒼に染まる。
「何で、どうして? 私がこんなに惨めだから? 虐げられているから?」

 ねえお姫様、王子様、と手を伸ばし続けるが、手を伸ばせば伸ばすほど距離が生じていくようだった。あるいはかの存在がぼやけてしまう。

「お願い、私を連れていって! 夢の果てへでも、世界の終わりへでも!」

 泣き叫ぶ声が体育館中にこだました。

「私こんな自分は大嫌いなの! いじめられて、いじめられ続けて、存在価値なんかこれっぽっちもない私が、何よりも!」

 そうだ。私はこんな風に泣き喚きたかった。トイレでこっそり、帰り道にひっそり、自分の部屋でうっそりと泣くよりも、壇上の校長や教師や生徒会や委員会達のようにはっきりと言いたかった。

 苦しいと。もう嫌だと。
 ここに傷ついている私がいるのだと。

「私なんか、私なんか」

 誰か、どうか。
 助けて、と。

 そ、と私に触れたものがある。
 何と思えば、あの菩薩が如き尊い存在の暖かい御手である。
 無限の距離があるかと思われたのに、来てはいけないと、来ないでと、そちらから拒否あそばされたのに。
 叫びも涙も、固まったように、あるいは困ったように止まる。
 時間は、止まる。

「でもね、私はあなたなの」

 自分に良く似た声だったからなるほど、この尊い少女はひょっとすると自分なのかもしれない。見れば見目も背格好も私によく似ていた。しかし私と尊さ、その二つの要素はあまりに外れている。丸と三角、黒と白のよう。
 彼女は構わず続けた。
「あなたの夢の中に私がいる。あなたよ。この輝きは、暖かさは私であり、あなたである」

 あなたはまず、あなたの中の私を、あなたを愛しなさい。

 言葉にせずともわかるだろうと、きっと心へ直接流された想いに私は戸惑うばかりだ。
 愛する? 自分を? 欠点だらけで、他人から疎まれ続ける私を?

「あなたの中にあるのよ」
 暖かさが、身を包む。
 終いには腹が立って恐れ多くも彼女を憎もうとした私を、すんでのところで彼女と言う暖かさが抱擁した。私を愛し、祝うかのように。

「暖かさも希望も、全ての輝きがあなたの中に」

 冷たくて広い体育館は暖まるのも遅いだろう。
 それなのに私の中にあるぬくもりは、今私だけに注がれている。

 いや、いいや。
 このぬくもりは私なのらしい。

「だから、だから」

 嫌悪も悔しさも憎しみも空しさも、そのぬくもりに溶けていく。
 鎧のように纏っていたそれらを溶かして、残ったものは惨めな自分。小さな自分。
 どうやら愛おしいらしい、自分という存在の、その原形。
 彼女の言う通りだろう。ここが私の夢の中ならば、今私を抱きしめた暖かさもまた私らしい。全てが自作自演かと嘲笑すべきところではない。

 ならいいかと、安心したように笑う。
 それが夢の終わりと言ったところだ。




 ぬくもりは消えて私に還る。私はまた別の、夢と言う狂言を渡る。
 夢の途中に探そう。生きている今の自分に探そう。
 きっとどこかにあるはずの、輝かしく、愛しい自分の姿を。

(了)

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