夢の終わり、今の続き
「目が覚めた時さあ、涙を流してる時ってあるじゃない」
用水路と田んぼの間にある、細い石の仕切りを平均台のようにして、腕を伸ばし彼女は歩く。やじろべえみたいだ。
「そのまま耳の中に流れこむ」
「そうそう、耳の穴ほじると耳垢が湿っちゃうんだよねえ。じゃなくて!」
立っている場所が場所だけに彼女はかかしのようにも見えた。ずっと向こうまで田園風景が続いてる田舎中の田舎。農作業をしている人は見当たらない。稲がぐんぐん伸び始めている初夏の始まり。中間テストの帰り道。強い日差しの中を、僕と彼女は歩く。
肥料の匂いが染み込んだ風が、彼女の半袖セーラーの襟を揺らす。
「私さあ、そういう涙流す時こう考えるんだよね」
危なっかしくバランスを取りながら数歩歩き、何を思ったか空を仰ぐ。
「もしかしたら私は、ここじゃない世界で」
「世界で?」
「そう!」
僕の方に振り向いて飛び出す言葉の勢いは、多分用水路の水流に負けない。
「ハリウッド映画もびっくりなスペシャルでエクセレントでセレブなセットの世界でね!
特殊効果CGバリバリなファンタジー大作に匹敵する世界で!
ド派手なスタントアクション全開のサスペンスSFミステリーホラーなラブロマンスコメディを繰り広げててね?」
「それはさぞや全米が震撼するだろうね」
主に何が何だか意味がわからない点で。
「相手はもちろん超かっこいい、ナンバーワン俳優が束になっても敵いっこないような王子様みたいな人!」
危険な細道から僕と同じ歩道に立つ。想像に陶酔したのか頬は赤く顔は緩み切っている。ふうん、と僕の無味乾燥な声は届かない。女の子はこれだから。
「でもね」
きゅんとした鼓動を捕まえるように胸に置かれていたその両手は力無く落ちて、スカートの裾を摘まんだ。
「運命に翻弄されて、その大恋愛の記憶を消されちゃうの、私」
そのまま泣くように、苦笑する。
「切ないねえ」
「でっしょー! やっぱり悲恋っておいしいよねえ」
苦笑からすぐ笑顔。まるでサイコロの一と六だ。女の子はこれだから。
「じゃなくて。それでね、私はこの平凡な世界のこんなド田舎に住むフツーの女の子にされちゃったわけ」
「それで? 目が覚めたところから記憶が始まるんだ? 夢オチってこと」
「そ。何事もなかったかのようにここで生まれてずっと育ってきたただの女の子にね」
でも。再び歩き始めた僕らの夏の影にその声は落ちていく。
「記憶を消されても、全部無かったことにされても、なんとなぁく、覚えてるの」
ひっそりと零れた声に、僕の足は止まった。
「だから私は、涙を流したんだってこと」
彼女の横顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
静かな垂泣。窓の向こう側を流れる雨粒のような涙。
「よくもまあそこまで考えるね、妄想家」
僕は動けなかった。彼女も動かない。
「世界は五秒前に作られたって言う説も世の中にもあるしね」
「そんなのあるんだ! てことはこの妄想も、あながち無い話じゃないよね」
「君は、王子様に会いに行くの?」
彼女の言葉に答えず、そんなことを訊いていた。
「観客は皆、それを期待してるよ」
とても惨めな問い。意地悪な質問だった。僕と彼女が恋人同士であれば、尚更。
しばし考えたのか、ううんと彼女は首を振った。
「言ったでしょ。妄想だよ。夢オチ夢オチ」
だって、と浮かべた笑顔を僕は忘れない。
「夢もいいし夢の続きの妄想もいいけど、それより今の続きの方が大事じゃん?」
夏が早く来て、そのまま煌めいたような笑顔を、僕は絶対に忘れない。
「明日の数学のテスト! 教えて、ねっ?」
夢を愛しながら君はこの今も愛する人だ。強い、人だ。
僕は頷く。二つの意味を持って頷く。
「うん、いいよ」
「ありがとー! 赤点、免れますようにっ!」
「わあ赤点なんてホントに出るんだ」
「あーっ! むかつくそれっ!」
だから僕は、君が好きなんだ。
僕はまたさっきと同じように一人、頷いた。確かに夏に続く風はどこか涼しかった。
(了)