胸の内に龍の居る事



 その日はとてつもなく悪天候だった。台風に伴って発達した雷雲がこれでもかと押し寄せてきて、とても外を出歩ける様子じゃなかった。かと言って家に閉じこもっているのも心細かった。窓は、激しい雨と強い風を防ぐことが出来ても、世にも恐ろしい響きの雷鳴を遮ることは出来ない。まるで古代から眠っていたような重い扉を動かすような唸りが来たと思えば、紙がいともたやすく引き裂かれていくような鋭い響きと光の刃を伴って照明を落とした部屋を白く、瞬間的に斬り込んでいく。まるで辻斬りだ。
 でも嵐は去る。私はじっと耐えた。しかしあまりにも退屈過ぎて、眠るのを止めた私は上体を起こす。風邪でも引いているなら話は別だけど、ただ嵐を過ぎるのを待つ為だけに眠るのはどうなのだろう。何か勿体ない気がした。
 雨は止んだみたいだけど、風は依然として強く吹いている。

 ふと私は思った。この嵐は果たして本当に恐れるべきものなのだろうか? と。その時私が思い浮かべたものは生理痛だとか陣痛だとか、そういう女性が経験する生理的な痛みだとか(まあ私は妊娠も出産もしたことがないから、陣痛はあくまでも架空の痛みに過ぎなかったが)あるいは芸術や事業――あらゆる出来事、目標達成を生み出す為の必然的な痛み、いわゆる産みの苦しみ(これもまた陣痛と言ってしまえばそうなのだけど、まあ物理的なそれとは違う精神的なものだ)と言ったものだった。
 確かに、痛みは出来るだけ避けた方がいいのかもしれない。恐怖など経験しないに越したことはないのかもしれない。けれども傷つかないことが本当に正しいのだろうか。だとしたら、数多くのことに傷つき、失敗を繰り返してきた私達は遍く間違っていることになるのだろうか。

 私は嵐の本質を見るべきではないだろうか。この暗い部屋を飛び出して、危険にあえて踏み込むことも――あるいは間違いではないのかもしれない。
 ひょっとしたらこの暴風雨や雷の弑逆は、全て私の幻想であるのかもしれないのだ。それは例えば――美しい夢や童話が本当は残酷な物語であるかもしれないことと、同じくらい確かに言えることだ。

 私は、玄関の扉を開けた。

 一瞬、刹那の隙間しかなかったように思う。けれども暴力的な風は全てを浚っていくように、奪い尽くすように扉を外側に連れ込んだ。私の家という安全な領域を侵略しようという確固たる意志が感じられた。けれど――私は真実を見なければいけない。その思いこみがまやかしである可能性もある。私は踏ん張って扉を閉め、鍵をきちんとかけた。
 強い風。吹き荒れる落ち葉や小枝、小さな障害物。ぐるぐる渦を巻く雷雲。時折現れる光の筋が、雲を突き刺す針金に見えた。やがて雨が降る。降るなんてものではないだろう。それは刺さる、と言えばいいのだろうか。それも垂直にではなく、風の力で水平に、あるいは斜めに、まるで四方八方から矢を放たれているように雨の雫は襲いかかってくる。
 けれどもそれに耐え、風が連れてくる梢の擦傷も堪え、私はある地点まで向かう。

 空がうんと広く見えるあの丘の上まで。大丈夫、そんなに遠くないから。

 風が私の足を阻む。呼吸する余裕も酸素も奪っていく。けれども私は、まるで――真実、あるいは悟りまで、何としてでも辿りつこうとする求道者のように、道を進んだ。時には視界から全ての光が奪われたように感じることもあった。

 幾度の死闘を繰り返したようにくたくたになって、その末に、あの丘の上に至った。

 不思議なことに、私が丘の上に体を倒した瞬間、嵐はすっかり止んだ。稼働を止める機械にも似た正確さで暴力はなりを潜め、優しい風が私を撫でていく。凌辱の雨の代わりに、慈悲の陽射しが零れていく。冷たく痛く嬲られた頬を癒していくその光の暖かさは、涙の熱に似ていた。愛する人が捧げる口づけにも等しかった。

 そして薄く目を開く。
 青色でも茜色でもない空が、街を覆っている。

 白のようでいて、桃色のようにも見える。桜色、薄い紅色、あるいは鴇色……魅惑的な色彩は疲れ切った私を生へと導く。空の輝きはそのまま宝石を溶かしているかのようだった。

 その空に、現れる。
 一匹の――龍が、空を昇る。

 銀色の龍、いや、銀と言うよりはやはり白い――何物にもまだ染められていない未来の色をした龍が、天を駆け登る。
 幻獣は遥か遠い宙にいると言うのに、それでも私は、きっと龍を見るたった一人なのだろう。無限の距離を超えてその龍と隣り合わせになっているかのように感じた。

 何の根拠もないが、その龍は私を祝福しているとさえ思った。

 瞬間、龍が光輝きだす。私の胸元も輝きだす。白い光だった。それはどんどん溢れ、勢いは止まらない。光を掬うように私は胸の前で手をばたばたと動かす。滑稽じみたそんな動きでは当然――まあそれ以前に光など手に取ることは出来ないが――掴めるものも掴めない。掬えるものも掬えない。けれど私は懸命に、零れる光を身に寄せた。そして胸に抱く。
 胸に、異物感を感じた。何かがもぞもぞと動く感覚がして、若干私は声を上げた。
 すると――それは顔を上げる。鳴き声を伴って。

 小さな、白い龍だった。

 ぴゃあ、と鳴いて、私が現状を把握する前に、小さな幻獣は私の胸にぽすんと消えた。
 私の胸がまるで泉のようになって、ぽちゃんと水しぶきを上げる。しばらくぽかんとして、目を白黒させ胸元を触るけれど胸はもとのままだ。ぺちゃんこの胸。柔らかくなんかない。水どころではない。
 けれど不思議と暖かい。
 龍が昇った向こう側を見る。そこにもう龍はおらず、空も嵐が過ぎ去った後の顔をしていた。澄み切った青空だ。穢れと言う穢れを全て排出したかのようにすっきりとした笑顔で広がっている。現実世界の空だ。そこに幻想の入り込む余地は無い。それでも、時折通る細い白い雲をあの龍に錯覚してしまう。さやさやと心地いい風が吹く。まるで私を可笑しく笑うみたいだった。そんなものはいないよ、おかしいね、と妖精が言葉を載せていく。
 あの白龍は何だったのだろう。私の胸に消えたあの小さな白い龍も何だったのだろう。
 けれども一つだけ事実を言うとするならば、多分こういうことだろう。私は胸をもう一度押さえ、そしてきちんと立ち上がった。

 嵐を超えた私の胸には、小さな龍が宿っているのだ。

(了)


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