迷い羊と黒羊



 羊の夢を見るの、とついに(みやび)に話してしまった。
「羊の?」
 うん、と私は膝の上に広げたお弁当箱を見やる。落葉が一枚落ちてきて、タコのウィンナーの上にひらりと止まる。ちょっと汚いけどお箸の先で払った。
「ただの羊じゃないよ。黒い羊」
 見ると雅の膝にも落葉が数枚落ちている。ここでお弁当を食べようと決めたのは少し失敗だったかも知れない。でも、落葉が落ちるわりにはそんなに寒いわけでもなくて、むしろどちらかと言えば暖かかった。
「どんな夢なの」
「そう訊かれるとね」
 雅は黒いタイツを履いていて、靴も黒い。肩甲骨を越えるくらいの髪も黒くて、開いた額は対照的に白かった。指先も頬も白く、睫毛は一本一本が丁寧に伸びていて、眉はきりりと引かれている。その眼差しは優しくもあり、同時に厳しくもある。そんなだからか、横顔はどこか静謐な空間に飾られた一振りの太刀を思わせた。隣に座るのにいろんな意味で恐縮を感じてしまうくらい綺麗だった。濃いワインレッドのプリーツスカート、紺色のカーディガン、赤茶色の襟。私だって同じ制服を着ているのに、全然違う。同じ女子でもあるのに。
 そんな風にじっと彼女を観察するのは、私が夢についてどう話せばいいかわからないからだろう。茉莉? と首を傾げられてやっとごめん、と慌てた。
「別にストーリーとか、そういうのはないんだけど」
 私はお弁当を、雅はサンドイッチを食べ始める。少しベジタリアンな嗜好があるのか、キュウリを挟んでバターを塗っただけのものを雅はよく食べていた。
「一匹の黒い羊が私のことをじっと見つめてくるの」
 それだけなのだ。あんまりにも内容がなくてきっと雅はがっかりしただろう。気まずく思いながらそれだけ、と苦笑した。まあ、と雅は何てこともないように流す。ちょっと居た堪れなかった。
「あんまり変な夢見たとか、何かに目覚めたとか」
 つい、と空を見上げる。落葉樹の向こうに、何か浮かんでるものが微かに見えた。当局の小型監視ロボットだろう。目の中のごみのようにふわふわ揺れながら飛んでいる。
「そんなこと話して、目をつけられたら危ないもんね」
 あれは声も聴きとれるんだっけ? だったらやっぱり外で食べるのは失敗だったな。私はだよね、とまた苦笑してお箸の先を噛んだ。
 私達の生まれる何年か前に、首都の中心部を襲う大規模な爆発テロが起きた。折しも通勤ラッシュ時で襲われた人は大勢いた。場所が場所だけに、お役所や大企業に勤める人が大半だった。そんな、この国どころか世界を揺るがす大事件を起こしたのは、超能力だか何だか知らないけど、そう言った不思議な力を崇拝する団体だったらしい。
 そしてその事件があってから、当局は徹底的に、そういった団体の始末に取り掛かった。次々と規制がかけられ、あっという間に潰えていったと言う。やがてその弾圧の矛先は団体から個人へと変わっていって、時には不当な理由で逮捕されたり刑罰を処せられたりする横暴に、現代の魔女狩りだと言う批判も相次いだ。しかしそのことを表立って批判する人も、やがて知らず知らずの内に消えていった。
 人々はいつしか、ちょっとした不思議なことを口にすることさえも、やめていった。ましてや自分に変な力があるだの、不思議なものを見ただのと、冗談でも言えなかった。
 私だって特に何の変哲もないただの女子高生でしかない。
 そうだと信じたい。
「その羊は、何で茉莉のところに来てるんだろうね」
 雅にそう問われ、ややあってうん、と箸先を噛む。
「何か、何か言いたいことでもあるのかな。お願い事とか」
 少し目を閉じた。
 黒い羊は三日月のような瞳で、私をじっと見ている。そんな夢の一枚絵を思い出している。
 その子の眼差しは不思議と、私の中にある何かを、震わせる。
「どうしたの」
 大丈夫? とまた雅に首を傾げられた。その時私ははっと息を飲む。その動揺を雅に気付かれはしなかっただろうか。どうだろう。
 雅の眼差しと黒い羊の眼差しが重なってしまったから、何もかも見通されているような気がする。
 見通される。私の中にあるものでさえも。
「何でもない」
 大丈夫、とおかずを抓もうとしたら、また落葉が乗っかっていた。かさかさ上から落ちてくるその音は、何かから逃げ続けているような私を笑っているように聞こえた。




 普通の女の子のつもりだ。つもり? 違う。普通だ。ただの女子高生。ただの人間。
 でも一人の部屋に帰ってくるといつも思う。私以外に誰もいない。がらんとしたマンションの一室に、普通の女の子ならいて当然のお父さんもお母さんもいない。ただいま、と言う言葉に誰も返さない。まるでここ以外の全ての世界も沈黙に沈んでしまったようで、虚しさも通り越す。
 群れからはぐれた羊はこんな風な気持ちになるんだろうか。
 そんな私をあの黒い羊が見つめてくる。まだ夢を見るのには早い。幻覚だ。
 お弁当箱をシンクに持っていくと、箱を入れていた巾着袋の中にまで落葉が入っていた。溜息をつきながら洗う。私がもっと普通だったら、お母さんに洗い物を頼んで、なあにこの落葉とか、そう言う話をするんだろうか。
 私だけじゃない。お母さんもお父さんも普通だったら。
 もっともっと、それ以前の、私の血に連なる人すべてが普通だったら。
 瞬間、ぶん、とこめかみの奥で音が鳴る。はっと目を見開いて見れば、掌に載せていた落葉が焦げていた。ここは水場で、ガスを使ってはいない。汚いものを消すみたいに私は急いで水を出してそれを流してしまった。息は少し、荒くなっている。いけない、と頭を振った。
 今見たことは何でもないこと。変な現象でもない。多分目の錯覚か何か。
 私は普通だ。大丈夫、一人暮らしをしている以外は、特に変わったことも何もない、ただの女子高生。

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