時間を考えれば大学から帰宅してもいい時間だった。悲しいことに――いや、幸いなことにと言うべきだろうか、この姉妹喧嘩に上手くタイミングがかち合ったのだ。
 外見は違えど、同じ顔をした人間が三人いる。世界が何か狂ってしまったような、酔いにも似た感覚がふと過る。
「喋れないあんたが止めるわけ?」
 聞結さんは嘲笑った。
「いっつも、私達の後ろにくっついていただけのあんたが、偉そうに」
「だ、だって……だって」
 たちまち委縮するものの、言結は腕を離さなかった。
「わ、わたし達」
 姉妹よ。
 小さい声は、風が鳴らす梢の中でも不思議とはっきり聞こえた。
「三人、一緒で……いつ、だって」
「姉妹?」
 笑わせないで! そう怒った調子で言い放って聞結さんは妹の腕から逃れた。
「きこちゃ……」
「たまたま三つ子に生まれただけじゃない!」
 妹を、彼女はどんな顔で睨んでいるのか。僕からは見えない。震える言結の悲しげで、戸惑う表情だけが僅かに見える。
 たまたま三つ子に生まれただけ。たまたま、姉妹に生まれただけ。
 そう言ってしまえば、それまでなのだろう。
「自分と同じ顔が二人もいるなんて、気持ち悪い!」
 その言葉と同じくらいの勢いを以て、聞結さんをぶった誰かがいた。
 言結ではない。黒いコートと明るい色のパーカーは性格の差さえも表すようだった。
「黙りなさいよ、少しは」
 苦しみが和らいだのだろう。見結さんの声は途切れ途切れではなく、立っているのも辛くはなさそうだった。
「聞く能力を持つなら……妹の声だって、ちゃんと聞いてあげなさいよ」
 見結ちゃん、と言結の声は泣いているように聞こえた。話してやりなよ、と長姉は顎をしゃくる。こくりと頷いて、妹は一歩下がった。
「わたし……も」
 勇気よ出ろ、とぎゅうっと手を丸める。
「嫌……だったの。自分の、ちから」
 ぶたれた真ん中の妹は動かなかった。けれども、声を聞いていないわけでもなさそうだった。だって、と言結は少しどもった調子になりながらも続ける。
「わたしの放つ声で……何かが、消えたり、死んじゃったり、するの」
 嫌、で。
 その消え入りそうな声に、見結さんは静かに肩を落としていた。
「それが……悪いもの、でも」
 言結の言葉は、そのまま聞結さんの言っていた言葉と重なる。
「だから……わたし、人と喋るの、少し……苦手、で……怖く、て」
「アタシもね」
 少し唐突に、姉は色眼鏡を外しながら話し始めた。
「本当は見たくなかったんだ、怖いもの」
「見結ちゃんも……?」
「そう。気持ち悪いもの、見たら吐いちゃいそうなものとか、ちびっちゃいそうなのとか」
 ちょっと下品だね、ごめん、と笑う彼女も、どれだけ恐ろしいものと向き合ってきたのだろう。
「本当はさ、何度も逃げ出したくなったんだよねえ。わかる?」
 わかんないか、と妹に少し背を向けた。
「わかんないよね。あんた達には。アタシが」
 どれだけ、怖かったかなんて。
 それもまた、妹達の言葉と重なる。
「でも、アタシが逃げたら……あんた達が怖がっちゃう」
 言結なんて怖がり中の怖がりだもんねえ、とこんな空気の中からかう。
「何にもしてこないとわかっていても、あんな恐ろしいものの傍に、キコも言結も、行かせられない。置いていけない」
 だから、と眼鏡を再び掛けた。
「アタシ、ずっと見てきたの。見てこれたの」
 その眼鏡は、怖さの表れなのだろう。
 少しでも、見たくないと思ったから。
 本当は、自分だって怖いのだ、嫌なのだと、伝えたかったから。
「聞結と言結がいてくれなかったら、ダメだったよ」
 へへ、と情けなく見える微笑は、それでもどこか誇らしげでもあった。
「だからアタシ」
 ずっとお姉ちゃんしてこれたのよ。
 レンズ越しの細めた目に、今近付けば涙が見えるかも知れなかった。
「何よ」
 亀裂を入れるような冷たい、固い声だった。
「何よこの流れ。お涙ちょうだいがしたいの?」
 しかし次第に、感情を帯びてくる。怒りと戸惑いと呆れ、それに更に怒りを重ねた声。
「笑わせないで!」
 聞結さんは怒号を上げるけれど、借りたとか言う「力」で姉と妹を吹き飛ばすことはなかった。
「見結、あんたは三つ子でいることに誇りすら感じてるのかも知れないけど、私はそんなの反吐が出るわ!」
「き、きこちゃ……」
「いい? 言結。見結も」
 そして、と僕と小猿の方を見た。証人になれ、とでも言うような強い眼差し。
「私達こそが呪いなのよ」
 杉の木から放たれた怨念は、化け物だけでなく人の形をして現れたのかも知れない。それだけの呪いを溜めた人間全体への罰として、未来を生きる子供そのものに呪いを掛けた。そう言うことだろうか。
 そう考えるのは、そんなにおかしなことではない。
「一人だけが「見る」ことが出来て、一人だけが「聞く」ことが出来て、一人だけが「言う」ことが出来る、なんて」
 三姉妹のそれぞれの恐怖と嫌悪。
「私達、三人とも欠陥なのよ」
 天から掛けられた呪い以外の何と呼ぶに相応しいだろう。
「もともとは、きっと一人の人間として生まれてくるはずだったのよ」
 一人で背負えばいいものを、何故三人に分けたのか。そのそれぞれはお互いに、理解に苦しむものであると言うのに。
「いっそ、本当にばらばらになれば」
 聞こえる彼女は下を向いて言う。呪詛のような、泣き言のような言葉。
「もう、もう」
 その拳は震えていた。姉妹に対してではなく、きっと、理不尽な世界への怒りで。
「こんなことからは、離れられるじゃない!」
「でも」
 弾けた次女の声は、場違いなほど冷静な長女の声が消してしまった。
「アタシが、見たくなくても見えるのと同じで、キコ」
 あんただってさ、と呼ぶ声は優しかった。
「聞きたくなくても、聞こえちゃうじゃない」
 三つ子の姉妹と離れたからと言って、宿命からは逃れられない。どこか遠い地に行ったところで化け物の声は聞こえるだろう。けれど聞くだけの彼女に始末する力はない。それを野放しにしてしまうことに、罪悪感は募るだろうし、無力感もなお嵩むだろう。
「……どうすんのさ」
「姉貴面するの、やめてくれない」
 どうにも! と叫ぶと同時に、手が振り上がる。これで何度目だろうか。
「どうにも、出来ないくせに!」
「きこちゃん!」
 やめて! とまた止めに入ったのは言結だった。
「わたしが、こんなこと言えた口じゃないのはわかってるの」
 わたしだけだもん、となお二番目の姉の腕を抱きしめる。何も見えなくて聞こえないんだもん、と声には涙が滲んでいた。そうだ。武器となるのは言結の言葉だけど、始末する為の言葉を持つ彼女だけが恐ろしいものを見聞きしないと言うのは、どこか皮肉めいている。
「わたしだけが……安心で、安全、で」
 声には嗚咽が混じり始めた。本当だよね、と言結はしゃくりあげる。
「何で……わたし達、三つ子になんか生まれたんだろう」
 一人だったらよかったのにね。その後は言葉にならないようで彼女は静かに泣いた。
 一人だったら、こんな風に衝突し合わなかった。
 三人いることで、何があるというのか。
「例えばさあ」
 答えるのは一番上の、見える彼女。
「三人で抱き締め合う為、とかだったら、さすがに笑えるよね」
 結びついているような妹二人の肩を、ぎゅっと抱く。
「見結……」
「見結、ちゃん……」
「お姉ちゃんはさ、どうやら大分独りよがりだったみたいだわ」
 いつのまにか妹二人の真ん中に割って入る彼女は、両隣の暖かさを満喫しているらしい。
「アタシだけが苦しんで、キコと言結が大丈夫ならそれでいいって思ってて……でも、二人とも全然大丈夫なんかじゃなかった。アタシは全く気付かなかった」
 ダメなお姉ちゃんだよ全く、と笑って軽く空を見上げた。ごめんね、とそれも笑って付け足すけれど、語尾に少し涙の気配を感じた。
「ダメだから、アタシは二人がいなくなるとすーっごく悲しいし、ますますダメんなっちゃうんだな」
 いなくなっちゃ、やだよ。そう言い長姉は顔を深く伏せた。
「見結ちゃん……大丈夫?」
「全然。キコにぼこぼこにされたからさあ」
「見結……」
「でも、最後にいい思い出になったかな。ほら、アタシ達って今日まで滅多に喧嘩らしい喧嘩なんてしなか」
「最後じゃ……」
 見結さんを打ち消した聞結さんの言葉は着地点を見失って空気に消える。もともとどう言おうか、末尾を決めていなかったのかも知れない。感情だけが先走ったのだろう。きっと本心である、一つの想い。
「無理しなくてもいいよ。……自由になればいいよ」
「自由になんかなれないって……わかってて言ってるでしょ。この鬼姉」
 ばれてたか、と見結さんは誤魔化しなのか本気なのかわからない笑みを浮かべた。
「わたしは、三人でいたいな」
「アタシも。てか、ホントに化け物やっつけるだけでいいのかって疑問もあったんだよね、昔から。もっと根本を正さなきゃいけないんじゃないかなあって。アタシらそれぞれの悩みもこうしてあるわけだし」
「バカ姉……そう思ってたなら言いなさいよ。大学生になるまで黙ってたなんてふざけてるにも程がある」
「言うのはアタシの本業じゃないし」
「わ、わたし、わかんないよっ」
 心読めるわけじゃないんだよっ、と慌てる妹を二人の姉がくすくす笑う。見ているだけだった僕はどうしたものかとどことなく居心地の悪さを感じた。三つ子の方も、僕の存在なんか忘れてしまっているようだ。でも、さっきまで険悪なムードでしかなかった同じ顔の姉妹三人が、少し和解出来て微笑み合っている光景を見ると言うのはなかなかに悪くない。ききっ、と子猿も嬉しそうに鳴いた。
 もう借りた力による術も解けているだろう。そろそろお帰り、と僕は子猿の背中を押す。きいっと駆け出した。そのまま見結さんの肩に乗って、大団円と言うやつかな、軽く言結に挨拶して帰路につこう。そう思っていた。
 けれど、次の瞬きで信じられないことが起こった。
「え?」
 猿が三人のもとへ辿り着いたかと思うと、柔らかい光が三人を包んだ。と言うより、三人が光になったのだ。言葉を失う僕をよそに光は球体となり、やがてぱちん、と弾けた。
 そこに女子大生三人の姿は無く、代わりにいたのは、着物姿の三人の少女だった。
 市松人形のようなおかっぱ髪に、同じ顔。あの猿が、真ん中の少女の肩に乗っている。
 ききっ、と猿は笑うように鳴いた。少女の肩を降りて、小猿はどこへともなく駆け出す。少女達もまた、導かれるように。
 可憐な笑い声が、遠ざかってく。
「ま」
 待って! と言う言葉にならない内に、三つ子と猿の姿は霧のように消えてしまった。もうどこにも見えないし、聞こえない。あの三つ子は、と声に出すことも出来ない。道まで出てみて三つ子のことを訊こうとしても、やはり声に出せなかった。
 猿園神社の人に、この家に姉妹はいるかと言う風に訊いてみたが、神社を継ぐ予定の一人息子しかいないと言う答えだった。僕の大学からも、猿丸言結と言う存在は跡形もなく消えてしまっていた。
 だから僕だけが、あの呪われた、けれども共に生きる三つ子を覚えているのだ。


 でも最初に書いた通り、消えてしまった以上見えないし聞こえないし、言うことも出来ない。だからあれは、あの小猿が僕をからかおうとしただけの幻か、単なる遊びだったのかも知れないと思うようになってきた。何せ僕の名前は犬近だ。犬猿の仲である猿に一芝居吹っかけてもそれはしょうがないと言うものだ。三つ子の葛藤も涙も愛情も、それらに意味など何もなかったのかも知れない。
 それでも時々、杉の木を見たり神社を通りかかったりすると、あの三つ子の少女がどこかにいるのではないか、どこかで化け物を退治して、いつかは自分達の呪いを解こうとしているのではないかと、ふと思う。その度、嘲笑めいた猿の鳴き声を感じるのだけど、その猿も三つ子が退治してくれたらと僕は時々考えるのである。

(了)



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