歌う犬の冒険



 犬が私に歌をくれたんです。今年デビュー十周年を迎えるIは、ぽかんとするインタビュアの私に、はにかみながら言葉を続けた。急に何をって話ですよねと苦笑を挟みながらもIの言葉は淀みなく、嘘だとか、作られた物語だとか空想癖が齎した産物だとか言った胡散臭さは何一つ感じなかったのを覚えている。
「子供の頃の話をさせてください。きょうだいはいなくて、父と母と私の三人暮らしでした。家計は豊かではなかったんですが、母も父も私によく習い事をさせてくれたんです。水泳、習字、そろばん、お花……その中でも結構続いたのがピアノで、それが私の今の音楽活動に繋がっていると言えばそうなんだと思います」
 十年前にデビューして以降、誠実で堅実な歌手活動を重ねてきた彼女。彼女の行いは神に祈りを捧げる敬虔な信者そのもので、だからこそ天から祝福がなされたのであろう。音楽不振と言われる昨今でもヒットを飛ばし、老若男女に好かれ、さらには海を越え、世界各地でも支持される。
「でも私が一番好きだったのは、誰に習ったでもない歌でした」
 清らかな旋律を伸びやかに、そしてはっと息を飲む程ひたむきに歌うその姿に、誰もが魅了されるだろう。そんな奇跡のような存在が身に宿す歌の秘密を、今まさに私に明かしている。
「私が歌を歌うと父も母も喜んでくれました。三人で出掛ける時、嬉しくてずっと歌っていた時だってありました。私自身も音楽を自ら奏でられることが心地良くてたまらなくて、歌こそが言葉だったような気がします」
 もっともそれは今もそんなに変わらないんですけど。付け加える彼女はどこかいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「全てが上手くいくと思っていました。今日という日が永遠に続いて、輝く未来を誰に言われずとも信じられていました」
 穏やかに笑み、細まっていた彼女の目じりがやや悲しげに歪んでいく。
「でもそんなの、ただの思い込みでした」
 優しい音楽をプツリと切ってしまったかように、声は冷たい。
「そうですよね。誰だってそんな約束を結んだりしません。神様さえも。
 父と母の仲が悪くなっているだなんて子供だろうが大人だろうが簡単にはわからないことですし、私自身もそこまで見渡せる心の視力が備わっていない頃でした。でも不思議ですよね。母が手紙を一通だけ残して父と私を置いて出て行ってから、明確に私はいろんなことを、子供には早すぎるスピードで理解していったように思います」
 彼女の詳しい身の上話は、インタビューの前に集めた資料のどこにも記されていなかったことだった。いつも朗らかで笑みを絶やさず観客を盛り上げていく彼女にその背景は意外の一言で、私としてもどう反応すべきかわからなかった。言葉を探していたのか、彼女の方もしばらく黙り、ややあって口を開く。
「していったと言うよりも、ソフトが強制的にアップロードをかけられていくような印象に近いでしょうか。まるでずっと今までおとぎ話の映画を見ていた大人が、現実に戻ろうと劇場の席を立ったような……そんな印象もあります。私が全てをきちんと理解しようにも、事実の方があまりにも大きく、それに呼応したショックも自分の想定を超えていたんでしょう」
 幸せだった家庭は幻想に過ぎず、取り戻そうにも全てが手遅れだった。幼い彼女自身にもどうしようも出来ず、またどうにかさせようと言うのも酷な話だ。
「父の職場の関係もあって、父と私は親戚の家で暮らすことになりました。伯父一家は優しくしてくれて、特にこれと言って困ったことがあったわけではなかったのですが、私は迷惑を掛けるわけにはいかないと思って、努めて「いい子」であろうとしました。
 母がいなくても大丈夫だ、迷惑をかけていないから大丈夫だ、授業の成績もいいから大丈夫だ、と。だって今時片親の子供なんて一クラスに何人もいるような時代です。私が子供の頃だって珍しくはなかったです。何があったって、いつでも子供達は懸命に生きています。私もそうだっただけです」
 でもそれもまた、思い込みに過ぎませんでした。そう一度言葉を締めるIの浮かべる微笑は悔しさや切なさ、そして悲しさと寂しさが滲んでいるように見えた。
「そうやってやり過ぎして生きている中で、ある日突然、私は歌を失ったんです」
 歌を。私の思わず口をついて出た呟きにIは神妙に頷いた。
「気付いたのは音楽の時間で、合唱曲を歌おうとした時に声が出なかったんです。声は普通に出せるし、会話だって出来るのに。その時は口パクでやり過ごしましたが、何度も通用するはずがなく、音楽の先生と担任にこっそり呼び出されてしまいました。素直に話してみたところ、病院を紹介しようかと提案されましたが断りましたし、家族……父や伯父達に伝えるのもやめてくれと頼みました。担任は私の家庭の事情を知っていたので、落ち着けばすぐ戻るだろうと楽観していましたし、音楽の先生も一時的なものとその場は判断してくれました。
 一時は言葉の代わりにさえなっていた歌を、失っていたこと。母を失ったその辛さを上回る喪失感がありましたし、何より、それにすぐ気付けなかった自分にもショックを受けました」
 こう話している今も、思い出すと。胸の空虚を掴むIの手は弱弱しく、また悔しそうにも見えた。
「好きだった歌のメロディを鼻歌にすることも出来なかったし、無理に歌おうとしてもむせるだけでした。そうやっていると急に、「いい子」でいる毎日に、どっと疲れを感じてきました。放課後は友達と遊ばず、早く伯父の家に帰ってお手伝いをしていたりしましたけれど、それもやる気がなくなって、かといってどこか行く場所もなく、ぶらぶらと河川敷を歩いたりしていました。
 もしかしたら母がこの近くを通って、私を見つけてくれるかも知れない。どうしたのと話しかけてくれるかも知れない。父がやってきて、仲直りして、また三人で暮らせるかも知れない。そうしたら、また歌えるようになるかも知れない。なんて、そんなこと起こりっこないのに考えずにはいられませんでした」
 沈む夕日を眺めて、暗くなる前に帰ろう。そうぼんやり思いながら膝を抱えていた毎日だったと語るIの表情には、苦笑では拭いきれないくらいの寂しさの陰が降りていた。
「景色に合わせて、ゆうやけこやけ、を歌ってみようかと思っても、意味のない掠れた音が疲れを訴えかけるように出るだけです。何だかもう全てが嫌になって、その場で眠ってしまおうかと思った時です。
 白い犬が、私の隣で尻尾を振っていたんです」
 犬。そういえば彼女のコンサートグッズは犬のモチーフや意匠を施されていることが多いし、ファンクラブの名称も犬にちなんでつけられていることに今気付いた。犬、と繰り返せば、犬ですとIは頷き返す。
「野良犬にしてはとても綺麗だったけれど、首輪をつけていないんです。中型犬と言ったところでしょうか、座った私と大差ない大きさでした。突然の犬にびっくりしつつ頭を撫でてみると目を細めて、尻尾はもっとぱたぱたと靡きました。この辺で散歩している犬がたまたま逃げ出してきたのかも、しばらく待っていたら飼い主さんも来るだろうと思っていたんですが、一向に現れません。そうこうしている内にさすがに陽も沈んできて、もうそろそろ帰らないと心配されてしまうと腰を上げた時でした。
 犬が、歌い出したのは」
 この話を聞き始めた時のように、私はただぽかんとした。事実を言っているだけなんですけどねとIは苦笑しつつ言葉を継ぐ。
「遠吠えのように聴こえたそれは、うまく言語化出来ないんですが確かにメロディを伴って私の耳にすっと入り込んできたんです。犬はコーラスを入れるように、あるいはスキャットを弾ませるようにどんどん軽快に吠え声を重ねていきます。近所迷惑だろうとか、何だろうこの現象はと考える余裕もなく、不思議な歌う犬に私はただただ呆然としていました。
 でもある瞬間にはっと瞬きすると、犬の存在は消えていました。歌も聞こえません。私に歌が戻っているわけもなく、さっきまでの犬の歌を表現しようにも声は出せず、一瞬のメロディは夢のように輪郭を失っていきました。でも夢が確かに見たものであるように、あの歌も確かに私が耳にしていたんです」
 白昼夢のようなものだったんだろうか。私が呆然としつつそのようなことを呟くとそうですね、とIは頷いた。
「あの犬が幻覚か何かだと言うことはすぐにわかりました。授業中、学校の敷地内に入っているのを見た時は生きている本物の犬だと思っていたんですが、音楽の時間に音楽室で見た時には言葉を失いました。勿論私以外に見えているわけありません。微かにだけど、犬はやはり歌っていました。驚きで私も声が出るかと思ったんですが、なかなか、そうはいきませんでした」
 それから何度も、Iはその歌う白い犬と邂逅したのだそうだ。一番信じられなかったことはこの後起こるんです。神妙そうな、それでいていたずらっ子のような笑みを浮かべて彼女はそう言った。

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