最後の希望の物語




 女は弱い。この世の女は、全て負け犬だ。
 私はそのことをきっと、生まれた時から知っていた。食べることと同じくらいに本能としてその事実は備わっていた。最初から全て負けているのだと、私は、女は、最初から諦めなければならない弱い生き物なのだと。
 そして私は、弱さを恐れた。
 ただ男に伏せ続けるだけ、いいように翻弄されていくだけの哀れな女に、なりたくなどなかった。
 だから私は駆け抜けた。昇りつめた。女というこの弱い身で世を生き抜く為に、美貌を始めとするあらゆるものを利用して、この小さな南の国の――そう、それはこの国全体から見ればあまりにも小さな国の、けれど――頂上にいた。男を翻弄し、利用したように見せて、それでもなお男という鎖に繋がれた、哀れな雌犬だった。

 そう。私は犬なのだろう。
 本当は弱いくせに、威嚇の為だけに吠え続ける野良犬だ。

 でも、私はただ「生きたかった」。この、女の生きにくい、女だけが涙を流すような世の中で、弱さに屈したくない私は己の信じる生き抜き方で駆け抜けていった。弱さに怯えたくはなかった。それは死ぬも同然だった。だから、ただ「生きた」。最初は、本当にただそれだけだ。私の言葉で誰かが死に、私の指図で何かが滅びる。――そんな権力が転がりこんでくる頃は、私はきっと悪にすっかり犯されていた。
 もとより、悪が私の本性なのだろう。いいや、私だけでない。女はもともと悪なのだ。
 女は陰で、男が陽。
 最初から負け犬の私が男に噛みかかったって、無駄だと言う? 少しくらい、少しくらいは、吠えてみせてもいいではないか。もとより、野良犬なのだから、いくら吠えたところで、何があると言うのだ。
 何をどうすることも出来ない弱い女達の為に、私は牙を見せた。研いだ牙をいからせて、この世の理に、私は吠えた。吠え続けた。いつの間にか私の知らないところで多くの血が流された。多くの涙と命が散っていった。でもそんなもの構いはしなかった。己の力量もわからずに吠えかかり飛びかかる哀れな犬である私に、そんなことわかるはずもない。

 でも、世界はやはり、こんな女一匹たやすく呑み込んでしまう。
 私がどれだけ吠えようが、同じことだ。

 世界はその大きな口を開けて、私の全てを食らい尽くしていく。私の依るべきところはもう、どこにもなくなった。城もなく、取り入る男達もない。この地にやってきた新たな若武者は善君であると言う。それならば、私にもう道はない。凛とした美丈夫だった。つけいる隙がまるでない。仁君になるだろう、とこの私でさえも思う。誑かされるような男でもまさかないだろうし、第一、誰がどう見ても悪いのは私。国を滅びに追いやったのは私だ。

 ああ。
 弱さになど、屈したくはない。伏せたくなどない。
 そうだ、ここでいっそ死んでしまった方が良いのだ。私は生きた。もう思い切り十分に生きただろう。潔く美しく死んで世の語り草になる方がまだましだ。

 そう、思っていた。
 思っていた、のに――。

「里見殿は仁君、と聞いております」

 私は何を、言っているのだろう。

「たとえ敵の士卒であろうとも、殿の元に参上する者は殺すことなく、用いることもあると聞きます。罪は、確かに私にあるでしょう。けれど、けれど女など、物の数にも入りますまい」

 私は、この期に及んで何を言っているのだ。

「願、わくば」

 こんなに見苦しく震えて、涙まじりの声で、醜いこと甚だしい。
 それでも、そんな醜態を曝してでも、なお生きたいと望むのか?
 生きたい、生きていたいと、そう吠えるのか?

「私を、お許しください。故郷へ、帰らせて下さいませ」

 そして浮かべた笑みを、私は見ることは出来ないけど。
 ああ、なんと嫌らしいのだ。

「お願いでございます、どうか、どうか。金碗殿、あなたも、同じ神余に仕えた身ではございませぬか、どうか、お許しを」

 本当に惨めだ。この世で一番情けなくて、哀れで、きっと犬なんかよりももっと、もっと、もっと酷い存在だ。
 私は、最後の最後で、あんなにも嫌っていたはずの弱さに平伏した。
 女の弱さに、頼ってしまった。
 弱い。おぞましい。あさましい。
 私の嫌いな女の姿だ。涙を流して、許しを乞い、命を乞うなど。

 ああ、いやだ。

 女になど、女になど、生まれたくはなかった。
 生まれたくは、なかった。

「確かに、罪は軽くはないが玉梓、お前は女だ。孝吉。この者を――」
「お言葉ですが殿。
 此度の戦、定包に次ぐ逆賊はこの淫婦玉梓であります。とても生かしておくことは出来ませぬ。いかに殿が仁君であらせられましても、この淫婦玉梓が生きているだけで殿の名声を疵付けることとなりましょう」
「ふむ――そうか」

 ほら。こうして。

「疾く、首を刎ねよ」

 男は皆、平気で言葉を裏返す。
 助けようと言ったのに。
 男は皆、女のことなど。
 ああ。

「助けようと」

 憎い。

「言って下さったでは、ございませぬか」

 まるで戦場のように荒れ切った頬を、透き通った涙が一筋、流れていく。
 零れ落ちる言葉は、子供のいとけない声よりもなお空っぽであった。

「里見殿も、金碗殿も、皆」

 ああ。

「人の、女の、命を、弄んで」

 憎い。

「何が、仁君、何が、忠臣、ですか」

 涙が火焔のように吹き出てくる。朱い血が煮だったように頬が熱く赤くなり、尖った歯と歯は今まさに獲物を懲らしめているとばかりに食いしばる。

「何が、何が何が何が!」

 憎い、憎い、憎い、憎い!
 なのに、なのになのになのに、どうすることも出来ない。

 私はただ、叫ぶばかり。
 吠える、ばかりだ。

「殺すなら殺せ!」

 私のこの咆哮が一体何になる?

「お前らなど、お前らなど!」

 私の願いなど全て儚いのに、何故この体はこんなに熱くなり、そして吠える?
 吠え続ける?

「子子孫孫に至るまで、お前らなど、全て! この世からなる!」

 こんなの、全て。
 負け犬の、遠吠えだ。
 ああ、そうだ。女は最初から、負け犬だ。
 私は知っていたじゃないか。
 全て、最初から。

「煩悩の、犬となさん!」

 諦めて、いるのだ。
 本当に。


 女になど、生まれたくはなかった。


 私の怒り。最期の、怨念を込めた罵声。
 あんなものは、怨念が籠っていようと嘆きでしかない。
 私の口を借りて出てきた、この世全ての女の嘆き。
 あんな風に息巻きながら、叫び吠えながら、結局は絶望していたのだ。
 男にはわかるまい。全てに伏せ続けねばならない女の悲しみなど。
 きっと、未来永劫変わるまい。いつの世も女が虐げられ悲しむだけ。愛欲に塗れ、そのまま男に繋がれる犬だ。それが罪業だ。


 ああ、でも私は、生き続けたい。
 あの里見に、金碗に、深く深く噛みついてやりたい。
 そんな願いが――叶ってしまった。
 それは、幾千年にも積み上がった、女達の罪業が成せる業だったのかもしれない。




 私の怨霊が狸となり、犬を育て、その犬が成長して敵の首を取り、そしてあの城の姫を奪った。
 その犬は私。八房は、私だ。
 あれだけ毛嫌いした雌が雄となって戻ってきた。おかしな話だ。私は男にも絶望していると言うのに。そして、忌み嫌う女を狙わなくてはならないのもおかしな話だ。けれどこれも因果というものか。
 私は私と言う女が何よりも一番嫌いだが、この姫ほど嫌悪を齎す女も他にいまい。こんな目的が無ければ存在を知ることも無かったか、それか、完膚なきまでに抹殺させるかするような存在。

 伏姫。滑稽にも、犬の字を名に持ってしまった女。
 伏。そう、その名の通り、八房の身である私が今まさに伏せさせている。
 こいつもまた、弱い女だ。犬の身に嫁ぐと決めたくせに泣いていた。八房との子を懐妊したことを恥じて入水しようとした。

 ――私の手で殺さなければいけない。そして腹に宿る子をこの世に放ち、里見と金碗に復讐せねばならない。この女を犯して宿した子。私の怨念でもある子。読経などいくらやっても効くものか。私の執念はもはや止まることはないのだ。

 伏姫。お前も結局は弱い女であるのだ。
 哀れだな。

 なのに、何故。

「あなた、八房?」

 どうして、そんなにも強い目で私を見るのだ。

「違うわね。八房だけど、八房じゃない。誰か、いるのね」

 そして、どうして。
 何故――
 手を、伸ばす?




 驚いたわ、と伏姫は笑っている。あの里見の殿に良く似た面影だ。ああ、憎らしい。聞けば金碗の息子もまたこの女に惹かれていたと言う。なお憎らしい。私の血塗られた憎悪を一身に受ける女はしかし、無邪気に微笑んでいる。
「八房が、実は女の人だったなんて」
「笑うな。憎き姫め」
 冷え切った声。月夜に割れる氷のような声。
「読経の効果があったのかしら。お会いできて嬉しいわ」
 対して、暖かな声。春の薫風に揺れる野花のような声。
 だがそんな声も、凛とした強い眼差しも、私を苛立たせるだけだ。
「嬉しい、だと」
 奥歯がぎしりと鳴る。何を思ったか、あいつは首に掛けた数珠を掌に流した。
「私とあなた――玉梓が立つこの空間。この世ともあの世ともつかない、過去とも未来ともつかない、境界の世界なのでしょう。如何なる縁かはわかりませんが、この数珠から、あなたの想いが伝わってくる。あなたと言う人がわかります」
 軽蔑するように鼻で笑ってみせる。
「だったら、お前は何をすると言うのだ?」
 わかっておるのだろう、私はどことも知れぬこの境界を遠い目で眺めた。
 あいつの言うことが本当ならば、あいつも私も、女と言うものは全て弱いとわかっているのだろう。絶望するだろう。

 あの強い瞳でも、絶望してしまうのだろう。

「そうですね、私は」

 だが。
 本当に、あの仁君のような愚将に似てか、愚か者なのだろう。
 手を、伸ばす。
 手を、伸ばすだと?

「私は、あなたを救いたい」

 救う?

「父上の言を、私が真にしてみせます」

 ふざけるな。

 最初は、小声。犬の呼吸よりもなお小さい。

「ふざ、けるな」

 広がっていく目と共に、声は上がる。

「お前になど!」

 それはまたやはり、私の嘆きであったのだろう。

「お前になど、わかるわけがない! 私のことなど、何一つ!」
 だから女は嫌なのだ。
 男以上に軽々しく、ものを言いおって。
「私の受けた苦しみが、男からの凌辱が、どれほど過酷であったかなど! それでも男に頼らなくてはならない絶望の深さを!」
 涙が、溢れだす。
「蝶よ花よと愛でられ育てられた陽なるお前に、私の心などわかってたまるものか!」
 ちっとも、変わっていない。
 負け犬の、遠吠えだ、こんなのは。
「私は、私は私は、誰にも救えぬ!」

 どうせお前も裏切るのだろう? あの愚将の娘なら、裏切るのだろう?
 お前もまた女なら、そうしてしまうのだろう?

「怨霊となり、生き続け、未来永劫、お前の一族を呪い続け、煩悩の犬に変えてくれる!」

 さあ早く。この呪詛に恐れ慄きまた首を刎ねるがいい。そして私はまた新たに呪って祟ってやろう。
 刎ねるがいい、のに。

 なのに何故、何故だ?

 涙に滲んだ視界に立つ、人と犬の名を持つ女は、少しもたじろぐことなく、ただまっすぐに私を見つめている。
 そして、その手を伸ばす。

 何故。どうして。
 何故、私に手を差し伸べる?
 こんな、弱いだけの、血塗られた私に。
 どうして。

「私は、諦めません」
 その佇まいと同じ凛とした、そして暖かな声だった。
「たとえあなたがどれだけ呪い続けようと、祟り続けようと、諦めない」
 一歩、私の元へ近付く。
「どんなに運命が過酷でも」
 二歩三歩、より近付いてくる。
「どんなに涙を流そうと、どんなに、血が流れようと」
 その手を、私が掴める距離まで。

「絶対に、諦めない」

 その言葉に姫の腹部が光り出す。姫と八房の子。
 ――おかしな話だが、姫と私の、呪われた子。

「私と八房、いいえ、私とあなたの子供達は、いかなる困難をも全て乗り越えて、必ず里見を救ってくれる。あなたの仕掛ける呪いも妨害も必ず突破する」
「それで、何が救う、だ?」
 涙を拭うこともしないで眦をいからせる。
「必ず私の邪魔するのだろう? 矛盾もいい加減にしろ!」
 だがこの愚かな女は私の怒声など聞こえないようにふる、と首を振る。まるで、わからない? と聞くように。
「私の子供達――そしてあなたの子供達は、あなたに代わってどこまでも戦い続けるのです」
「戦、う、だと?」
 そう、と目が細まる。――そうやって笑うと、母になると言うのにまるで少女のようだ。
「あなたが憎んだこの世界、そしてあなたが嘆いた理と」
 憎んだ世界。嘆いた理。
 女達が苦しむ世界。
 それをどうすることも出来ない。
 瞬間、見えてきたものはいつの時のものだろうか。ここに過去も未来も現在も混在するのなら、未来のものであるのだろうし、過去のものでもあるのだろうか。
「だが、だが私には見える」
 私には見える。
「近い未来、また、女が死んでいく」
 結局、女という犬は苦しむ運命だ。

「許嫁に去られ、実の兄に見殺しにされる少女の姿が。
 夫とともに血塗れで死んでいく女の姿が、
 夫に振り向いてもらえず、けれども、夫の為に胸を刺す女の姿が。
 裏切られたと誤解して、燃えていく女の姿が」

 私の怒りなど、怨念など、結局何の力にもならない。
 それでも彼女達に代わって、空しく吠える。

「あまりにも苛烈で、あまりにも悲しい姿が、私には見えるのだよ」
 ここにきて初めて、姫は弱気な顔を見せる。――ここは、ほれ見たことかと、してやったと笑うところなのだろう。だが、だが伏姫、こいつもまた女だ。考えてみれば、いくらか私の思惑があったとは言え父の――吐き気がする。こいつはやはり愚将であったのだ――何気ない戯言一つであろうことか犬に嫁されてしまった。それに逆らえず、従うのが是とした結果、今こうして私と向き合っているのだ。

 だが。
 この女は、どうも違う。

 きっと、と仄かに光る腹を撫でる。
「そうなってしまう彼女達の為にも、この子達は戦うわ」
 弱くてもなお、強い眼差し。
「決して無駄にはしない。忘れもしない」
 そして、と。
 笑ったりもするのだ。
 先程の弱気な顔など、嘘だったと言うように。
「あなたがいくら呪いをかけようと、嘆こうと、絶対に諦めない」
 諦めない、のか?
 私は、私は最初から全て諦めているのに。それをこいつもわかっているはずなのに。
 だと言うのに。
 まるでそれが当たり前のように、手を伸ばす。
 きっと、声に似て暖かな手なのだろうな。

 姫の目は手と同じようにまっすぐ私に向けられている。微笑んでもいる。まるで私のあらゆることを、受け止めようとしてくれているよう。私がどんなに息巻こうと、牙を剥こうと、噛みつこうと、そんな荒くれ者の野良犬であり負け犬であっても構わないと、朗らかに笑うのだ。抱きしめても、くれるのだろう。

 私がどれほど涙を流そうと、悲しみに暮れようとも、
 どんなに絶望していても、射してくる、光。
 救いと言う名の、何か。

「お前、は」

 伏姫という、愚か者は。
 何故諦めない?
 何故、手を伸ばし続ける?
 まるで愛しき者にじゃれつく犬のような笑みで、どうして。
 そんな想いが言葉にならず、ただ涙が流れる。
 あんなに、嫌っていた「女」という存在なのに。

 私は、私は。

 頼って、しまうではないか。
 信じて、しまうではないか。
 私も――。


 手を、伸ばしてしまうではないか。



 最後の涙が流れた時。
 私はまた、弱くなる。
 姫のその手はやはり、声と同じように、暖かかった。



 光が溢れだす。呼応するように姫の数珠の大珠が八つそれぞれ光り出す。何か字が浮かんでいたがそれはよく見えない。私の視界は涙で滲んだままだったからだ。そして何より、目を細めていたからだ。笑って、いたからだ。

 そう。笑っていた。穏やかに、そっと手折られた花の茎よりもなお優しく、口の端を上げて。
 ああ、やはり、私は弱い。
 こんな、わけのわからない自信に溢れた、愚かな伏姫に頼ってしまうのだから。
 憎みながらも、なお。

「面白い」

 でもその弱さも、悪くない。

「お前のその言葉、真だな」
「ええ、誓ってよ」
「ならば私は呪い続けよう。祟り続け、邪魔をし続けよう」
「では私は、私とあなたの子供達に掛けましょう?」
 笑顔は本当に、いとけない少女のようだ。
「必ずや、あなたを打ち破って見せます。どんなことがあっても。約束ですよ」
「出来るところまでやってみせるのだな。少なくとも、私が満足するまで」
 くす、と姫は一つ笑みを重ねる。不可解な奴だ。
「何じゃ?」
「何だか、まるで神話のようです」
「神話?」
「ええ。知りませんか?
 この国を作った父神と母神が黄泉平坂――この世とあの世で離ればなれになる時、母神が言うのです。毎日お前の国の人間を千人殺そうと。父神はそれに、では毎日産屋を千五百立てようと返すのです。
 その話に、似ていませんか?」
 嬉しそうに話す顔を見ていれば、もはや怒ることも無駄とばかり、さすがに呆れて毒気も抜かれると言うものだ。
「きっとこの南総安房、里見の国造りの礎となるのでしょうね。私と、あなたの邂逅は」
「何を言うか。崩壊の始まりじゃ」
「壊しても構いません。何度でも作り直しますわ」
 微笑む姫に、減らず口を、と私もまた笑う。

 こんなに。
 こんなに穏やかに笑ったのは、いつ振りだろう?
 初めて、だろうか?


 もうわからない。私はまた八房に変わっていく。
 気が付けば、姫がずうずうしく私に乗って二人――いや、一人と一匹、空を駆けていた。
「さあ八房。子供達に珠を授けに参りましょう」

 そして、とまた手を伸ばす。
 今度は空へ。黎明の天へ。

「見届けましょう。子供達それぞれの運命の至る先まで。
 見守りましょう。私とあなたの為に戦う子供達を」


 私が、どこまで出来るかわからない。
 案外簡単にやられるかもわからない。女は弱い。私も弱いのだからな。
 だが姿を変え、やり方を変え、どこまでやれるか。
 負け犬が、野良犬が、どこまで吠え、噛み続けられるか。
 今度こそ、私は思い切り生きてやろう。


 負けたとしても構うまい。どの道、最初から負け犬なのだからな。
 それに、負けた時はそれは、つまり。
 私の背に感じる暖かさを想いながら、私は空を跳躍する。


 負けた時。
 その時私は、初めて穏やかに笑った時と同じくらい確かに。
 初めて安らかに、眠りにつけるのだろうよ。


 伏姫。
 お前もきっと、それをわかっているのだろうな。







「大輔? 父上? そこに、いらっしゃるのですね」

 里見の姫が数珠の効力で僅かに息を吹き返し、浮かべた笑顔は清らかだったと伝わっている。

「ああ、そう、悲しい顔をせずとも良いのです」

 猟銃で撃たれ、その白い毛を血の海に浸しているのは伴侶であったとされる大犬・八房だ。もはや動くことも無い亡き骸を哀しげに見て、それから腹に手を当てた。
 僅かに膨らんでいる、その腹を。

「私は、犬の子を孕んだのではありませんよ」

 ええ、決して、あなたは負け犬なんかじゃないわ、と姫は呟いたのだとされる。
 玉梓、と――姫が決して知り得ないはずの、かつて安房を滅ぼしかけた傾国の名を最後に付け加えて。


 里見の姫神、伏姫がその腹を自ら裂いたのはそれからすぐ後だったとされる。
 その傷口から閃き出た一朶の白気が姫の数珠の包んで虚空へ昇り、八つの珠を八方に放ったのも、姫が八房に乗った霊体が、その珠を追いかけていくように蒼天に浮かんで消えていったのも、そのすぐ後だったと言う。




 さて、その珠を持つ八人の若者が、己の背負う運命に時に涙を流し、時に血を流し翻弄されながらも、決して諦めずに立ち向かう武勇伝がその後に綴られていくのだが――
 それは、哀れでいと弱き負け犬でしかない絶望しきった女が、それでも信じたこの最後の希望の物語とは、また別の物語である。



(了)

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