夏服








 大学に入って初めての六月がきた。俺が乗るバスにも、夏服の高校生が目立つようになった。俺は大学生になり、高校生の頃歩いた通学路は、ほとんど通らなくなった。
 だけど、バスの中で出身校の夏服を見た時や、たまにその道を通った時、俺はふっと思い出す。去年の九月の帰り道、俺と坂間夏実の影が伸び、俺が終わらない夏を願ったその時を。







 高校一年生の春。四月の半ばだったから、新学期が始まったばかりの頃だった。
 俺は帰り道をとぼとぼ歩いていた。俺の家は自転車通学の範囲に惜しくも漏れてしまったせいで、中途半端に遠い距離を歩かざるを得なかった。しかし通学路にはわりと広い児童公園があり、そこに春は桜が咲き、夏は草木が青々として、秋は木々が最後の彩りを見せ、冬は近くの保育園の子供たちが雪だるまを作る。
 でも、それらのことがあるのを知ったのは、彼女と歩いたからだと思う。
 とぼとぼ歩きながら、神社の近くを通っている時、かつかつと俺じゃない靴音が聞こえた。俺が止まると足音も止まる。その神社の辺りは大きなケヤキの木が日を遮り昼間でも薄暗い。なんだか気味が悪くて振り返ったら、同じ高校の女子がいた。
 それが坂間夏実だった。
 俺と目を合わせた彼女はおずおず近づいてきて、こう言った。
「あの……同じ一年の人ですか?」
 頷くと、自己紹介されて、一つ、お願いをされた。
「その……この辺りって暗いし、危険な感じがするから、もしこれから会えたら、一緒に帰ってくれると、嬉しいなって……ごめんなさい、ずうずうしいこと言って」
 背の低い坂間は、確か上目遣いをしていた。黒いブレザーの制服、きちんと揃った前髪と、困った目の色が印象的だった。
 それがスイッチだったか、それともその頼みがそうだったかどうかは今になってもわからない。俺が快く返事をして、俺の心のアルバムには必ず彼女の姿が存在するようになった。
 話してみると俺と坂間は同じクラスだった。坂間は最近この近くに引っ越してきたことや、まだこの辺りの地理に詳しくないことを話した。俺は実力テストの話とか、担任の話とか、そういう話しか出来なかった。上手く、喋れなかった。




 やがて六月が来た。学校内では夏服の人口が多くなっていった。
 俺も夏服になった。坂間も夏服になった。黒が基調の制服からがらりと白がメインになる。スカートも黒ではなく灰色で、夏らしいというわけではないが、がっしりしたモノトーンよりも、夏の自由さが出ていると思った。
 そう、坂間は夏服になった。髪型もストレートから二つ結びになった。前髪は眉のあたりで揃っていて二つ結びで、そして綺麗な黒髪だったから、幼く見える気がした。実際そうらしかった。でも変えないんだ、好きだから、と彼女は言っていた。
 すらりと伸びる二本の腕に、よく目がいった。
 男の俺と違って無駄で黒々とした毛は生えてない。透き通るような淡い肌色の腕を坂間は持っていた。
 半袖から、ちょうど腕が伸びだしている部分の肌に、三つ横に並んだほくろが見えた。
「オリオン座みたいでしょう」
 彼女は微笑んで言った。
「でも夏にしかみんなには見えないのが残念。このほくろ、わりと気に入ってるんだ」
 今度はにっこりとえくぼを浮かばせた。その笑顔が薄暗いその道で、鮮やかで眩しかった。それは、今思い出しても色あせない鮮やかさだ。




 夏休みの間も文化祭の準備でその道を一人で往復したり、坂間と二人で往復したり、時には二人して秘密で自転車に乗って通った。夏の風が俺の頬を、坂間の頬を通り抜ける。夏の青空が、夕空が、俺と坂間を見守っていた。
 そうして時は過ぎていった。一年生のときに頬に受けた夏の風のような、実態のない時の風が俺の人生のページをぱらぱらといとも簡単に飛ばしていく。夏の時間だけが鮮明に浮かび上がっている。彼女の夏服が鮮明に浮かび上がってくる。




 坂間とは二年は別のクラスで、三年のとき再び同じクラスになった。
 二年の間に、坂間は進路を決めたという話を俺にした。でも猛勉強をして好成績をおさめていたことは話さなかった。そういえば二年の時は一緒に帰れる回数が一年のときに比べて少なかったような気がする。あれは、きっと勉強をするために早く帰宅したためだったんだろう。
 だからか、彼女はクラスでも勉強ができて、よく他の子の質問に答えていた。
 坂間の希望する進路は、隣の県の看護大だった。俺は市内の工業大を希望していた。二人が離れるのはかなり明白だった。そして、それにある種の感傷を俺は抱いていた。
 坂間が同じように抱いていたかは知らない。だがこう思い出している今、俺はまだ少し感傷を抱いている。
 坂間に、きっと恋をしていたんだろう。でもそれを確固たるものにする気は沸かなかった。俺も坂間も、受験勉強があったためだ。告白して失敗したら、もう一緒には帰れないだろうし、受験勉強にも障害が出来る。成功しても、二人は離れてしまう。俺は看護には興味はなかったし、今通っている大学に入りたい気持ちが強かった。まだ足りない学力が、それを考えるより先に問題集に目をやらせる。
 何より、大切に大切にしたかった。俺と坂間の帰り道を。補習でくたくたになったり、模試で頭が痛くなったりしていた二人は並んで、あの暗い道を通った。勉強ができて進路にある程度受かる見込みがあった坂間はどうだったかは知らないが、俺にとってあの暗い道は受験生生活を暗喩しているものだった。独りのときは真っ暗になるときもあった。だけど、坂間がいれば怖くない。坂間が輝いていたからだ。彼女が最初に怖いからといって始まったのに、と俺はおかしく思う。また制服が夏服になって、暗い道に少しだけ西日が挿すように坂間が笑う。最後の夏休みに彼女は輝く。




 そして最後の夏休みも最後の文化祭も終わった。三年の文化祭は模擬店で、俺のクラスは中華料理になった。クラス会長がやけに熱心で、皆その熱に押されて準備をした。メニューから、外装、衣装、ポスター、食券作り、パンダの置物製作など、受験生という身分を忘れて夏休みの半分を模擬店準備に当てたような気がする。受験勉強ももちろん大切だが、クラスでのこういう思い出もやはり大切だ。そして坂間もそこにいた。
 文化祭前日か、準備をサボって俺は中庭を眺めながらジュースを飲んでいたことがあった。校内は賑やかで、そしてうるさくて、時計は四時をまわっていた。すうっと頬をなでた風に俺はつい、ああ、こんな日々が続けばいいなあ、と思った。日は傾いて、風は生ぬるくて、みんなうちわを動かして、絵筆を動かして、はさみを動かして、坂間が夏服を着ていて、三つ並んだほくろをみせて、笑って、俺はこんな喧騒の中でサボっている。その空間を何度もループさせたい、そう思った。もちろん疲れからそう思ったんだろう。
 でも確かに、あの日々が続いたら、俺と坂間を繋ぐ糸は途切れないでいただろう。その先には進めないが、未来はないが、そういう願望は多分誰にもあるんだろう。




 文化祭が終わって、受験勉強に専念し始める頃が、お互いにやってきた。九月も中旬にさしかかると、長袖の人がちらちらと目に付いた。みんな夏服を脱いで、それぞれの未来に向けて加速をつけようとしていた。俺はまだ半袖の夏服を着ていた。坂間も着ていた。
 二人はやはり変わらず並んで歩いて帰っていた。日が暮れる時間が、だんだん早くなる。夜が輝く時間が早くやってくる。歩いている時実感は出来ないが、その事実は俺に静かにこう呟き続けていた。もう別れる時が来る。二人は別の道を行く。
 少し歩く速度を落とし、坂間の後ろにいく。そしてその呟きが聞こえたとき、俺はまた思った。この時間が続けばいいと。西日に揺れる坂間と俺の影、細長い雲にオレンジの夕焼け空。まだ夏服の二人。
「私、明日から長袖にする」
 ぼやんとした俺の思いが坂間のその一言で霧散した。かあかあと、カラスが鳴く。坂間の後ろを歩いていた俺は少し立ち止まった。彼女のうなじ、髪が遠くに見える。表情は知らない。
 夏服を、脱ぎたくない。
 夏服を、脱がないでくれ。
「そうか。俺、坂間の夏服、好きだったんだけどな」
 だけど、そう言って、俺は俺の願いにさよならを告げた。
 坂間はそのとき急に振り返った。驚いた表情をしていた。この三年間、見たことのない種類の驚きだった。まるで、その返事を偶然心の中で当ててしまったような感じで、俺もびっくりした。
 そして急いで彼女は言った。
「私も、私も夏服の方が、好きなの!」
 そう言って、一息ついてから、微笑んだ。きらりと、光が彼女の背後から差し込んできた。彼女の名前が夏実というからか、夏生まれだからなのか、幼く見えるが気に入っている髪型が出来るからか、気に入っている三つのほくろが人に見せれるからか、思いつくふしは沢山あった。
 だけどそのときの俺は、そして今の俺も、俺と通じ合ったからかもしれないと思った。
 そのときの俺も今の俺も、そんな自分勝手な解釈で満足だった。
 いつまでも同じ時が巡るはずはないし、俺も坂間も目指す道があった。結局は、二人は別れてしまうし、二人の間にあったかもしれない淡い恋を固めることもしない。二人は長袖に着替えて、寒くて厳しい冬を乗り越えていかねばならないのだ。だけど俺は、あの時坂間と通じ合えたかもしれないという自分勝手な思いさえあれば、なんだってやっていける気がした。
だから、寂しくなんてなかった。




 また夏が来て、二人が受けたような風が往来を駆け抜ける。
 俺の夏服の制服は、タンスの奥にひっそりと眠っている。隣の県に行った坂間は、夏服はこの街に置いていっただろう。好きと言っていたから、捨てはしないだろう。

 


 あの時と同じ夏の空がまた始まっていく。
 同じ空の下、俺と坂間は違う人生を歩み始めたばかりだ。







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