メモリーズ



 新居となるアパート二階、端っこの部屋に荷物を運びこんだはいいけれど、パソコンやテレビのセットだけで疲れ果ててしまう。まだまだ手つかずの段ボールで満ちた部屋に俺は思いきって横になった。フローリングがひんやりして気持ちいいけれど、段ボールというのは結構熱を籠らせる素材なので段々と蒸してくる。これは早く片付けろってことだなと起き上がろうとした俺の視界にふと妙なものが映った。
 それは壁の隅にあった。コンセント? だが出っ張ったスイッチボタンのようなそれはとてもそうは見えない。かといってなんでスイッチ? 何かの起動ボタンだとか?
 興味が湧いて腰を上げて実物を見に行くと、どうもスイッチではないようだった。オーディオ機器についているような丸い、いわゆるツマミであり、何かの度合いを示すような目盛もそのツマミ周辺に刻まれている。こんなの、部屋を下見した時には付いてなかったぞ? 何だ? 備え付けの何かの装置か? 俺は頭を捻った。
 押すな触れるなと書かれているものを押したり触ったりしてしまうことが人間の習性だと言うのなら、触れるな動かすなと禁止すらされていない、むしろ回してくださいと言わんばかりにその存在を主張しているツマミを動かしてしまうことは至極尤もなことで誰にも責めることは出来まい、と俺は頷く。勝手に決め付けてぐい、と時計周りにツマミを捻ってみた。
 途端に、背後で紙鑢を擦り合せたような激しいノイズが聞こえた。やはりこれは何かの音響装置に影響を与えるもの? でも、そんなもの無いはずだし、備え付けでも見当たらなかった。怪訝に思いながら振り返った俺だったが、一呼吸分間を置いて首を傾げた。それから何か小さいものにピントを合わせるように眉根を寄せ、目を凝らす。
 スクリーンに映し出された何かを更に別のものに投影して映す。それを何度か繰り返したかのような薄い薄い映像が、俺の目に確かに見えていた。目の錯覚か疲れ目か、と何度も擦ったり瞬きをして視界を改めたけど、その映像は消えやしない。試しに手を伸ばしてみるがその映像の淡さで触れられると思う方がおかしい。まるで木漏れ日を掴むかのようなものだ。
 映像に映し出されているものは、どうやらこの部屋らしい。段ボールがいくつかある。いや? と小首を傾げる。俺の段ボールとは引っ越し会社が違うし、置き方も違う。
 腕を組んで考えていたところ、急に、その映像の部屋に誰かが入ってきた。いや、始めからその映像にいて、映っていなかったらしい人物だろう。男性だった。俺とそう年が変わらないか、少し年下くらい、二十代前半の若者だった。どうやら俺と同じくこの部屋に越して来たらしい。
 段ボールを開けて部屋を整理し始めている。そして、彼の後を追うように歩き、かいがいしく作業を手伝う別の人物も見えてきた。女性だった。こちらも二十代前半、もしくは二十歳手前といったくらいの、どこかあどけない印象が抜けない女性。おそらく男性の恋人だろう。二人は仲睦まじく引っ越し作業をこなし、時にはしゃいだり、じゃれあったりしている。ある程度部屋が片付いてくると彼女は昼食にでも作ったのか、二人がパスタを食べている姿も映し出された。
 いいな。俺なんかまだろくに何も食べちゃいないのに。別にそのことに腹を立てたわけではない。むしろ空腹を満たすかのように好奇心が膨れ上がって何をしたかと言うと、気まぐれにツマミを動かしたのだ。
 すると場面が変わり、部屋が片付いた後の二人を見ることが出来た。何か一緒に映画でも見ているのか、テレビの前で肩を寄せ合っている姿。またツマミを捻る。クリスマスか誕生日の映像か、二人してケーキを食べているところ。ゆっくりツマミを動かせば、それこそラジオの周波数を合わせて様々な番組を受信するように、あるいはまるで万華鏡を覗いているかのように実に色々な光景が浮かんでくる。普通、こういうよその恋人同士のいちゃいちゃを見せつけられると多少なりとも不機嫌を催すものであるが(心の狭い考えではあるけれど)俺には自然と笑顔が浮かんでいた。いつまでもその行く末を見守っていたい善いカップルだった。
 かちり、とまたツマミを捻る。しかし、ぎょっとした。仲睦まじいならば当然の結果として考えられるであろう、男女がひとつ布団の中で睦み合う光景。これは見ちゃいけないだろ! 顔を背け急いでツマミを動かした。けれども焦りの所為で思った以上に深い目盛の位置まで回してしまった。
 音は聞こえないのに、どうしてか不穏な気配を感じる。映像のもとに視線を戻してみると、そこに微笑ましい二人の姿は無かった。

 あるのは、いがみ合う男女の姿。数分も見ていない俺が言うのもおかしいけれど、とても同じ二人だとは思えなかった。確かに、二人の顔はそれほど変わっていない。けれども、その表情は悲痛そのものだった。
 二人は言い争う。内容は聞こえなくても、二人に何があったかわからなくても、何となくわかる。
 この二人は、仲直りする為に喧嘩しているんじゃない。どのように別れるかで議論しているんだ。もう、その段階にまで進んでしまっている。分岐のしようが無い。どこへ行っても、待っているのは寂しい結末だ。

 数分前の、完璧なまでに恋人同士だった二人。数分前のはずが、うんと遠い。

 俺はツマミを動かす。もはや動かせる余地は少ない。最後の目盛に到達する。映ったのは、ほとんどがらんどうの部屋で段ボールに物を入れていく男の姿だった。この一連のフィルムを無理やり歪ませて、もう一度再生しているかのように見える。いや、そうではないか。彼女は、そこから欠けていたのだから。
 やがて映像は終わる。

 おそらく、男は部屋を出て行ったのだろう。そこに二人の破局が関係しているのは間違いないと思われた。そして空っぽになったかつての二人の部屋に俺が越して来たのだ。ぽり、と頭を掻く。やおら立ち上がって窓を開けた。空は見渡せる限り青く、降り注ぐ陽光の中を鳥達が楽しそうに囀りながら飛んでいく。俺が引っ越してこようが、恋人同士が別れようが、この世界には何の影響も及ぼさないのだ。
 家というモノはそこに住んだ者や起こった出来事を「記憶」している、とどこかで読んだ気がするし、別に確たる証拠がなくても信じられる。俺達が歴史的に有名な観光地に行ったりするのもそういうのが何となく信じられていて、そしてその想いや記憶に触れたいと思うからこそ訪問客が絶えないのだろう。この部屋もそうで、たまたまあんなツマミがあっただけだ。
ツマミはまだそこにある。真ん中くらいの目盛まで動かせば、再び仲の良い二人が映し出される。

 この頃の二人はまだ知らずにいたはずだ。予感さえしていなかった。二人の結末を、その終焉を。

 俺がじっと二人の姿を見ていると電話がかかってきた。彼女からだった。
『もっしもーし! どう? 荷解きは順調?』
「全然片付いてないね」
『もう! 私が手伝いに来ること計算してサボってるんでしょー』
 言葉は怒りながらも、声ははしゃいでいる。
「ていうか腹減ってさあ」
『引っ越し蕎麦でも作りに行ってあげるから、それまできりきり働きなさーい』
「でもそれってご近所に配るものだろ?」
 思いついたんだし食べてよ、と軽くいなす声。引っ越し蕎麦か。目盛を戻していけば、パスタを食べている二人が映る。同じ麺類だなあ、と電話中だと言うのにぼけっと黙ってそれを見ていた所為か、ちょっと聞いてる? とややぷりぷりしたご様子の声が入りこんでくる。
「うん、聞いてる。海老天そばがいいな」
 海老なんて持ってきてないし! やや的外れだった俺の答えに唇を尖らせているだろう。その顔が容易に浮かんで、俺は自然と微笑んでいた。それは映像の二人に向けられた笑顔と多分根っこは同じものだったと思う。

 急に、彼女にものすごく会いたくなった。

「なるべく早く来てくれると嬉しい」
『嬉しい? ありがたいの間違いじゃないの?』
 あやしいなあ、あざといなあ、と疑うようなその声は半笑い。微笑みを噛みしめるように深めていた俺の心にぽこぽこ、泡のように生まれてくる、浮かび上がってくる何か。俺をいっぱいに満たすこれは果たして何だろう。
「ねえ」
 彼女への愛じゃなければ、何だと言うのだろう。
「なるべく沢山、遊びに来なよ」
『何? どうしたの、急に』
 確かに唐突に過ぎる言葉だった。いや、と苦笑しながら、窓辺の手すりにもたれ緩々と話を進めていく。一緒に部屋を作っていって、蕎麦を食べて、周辺を散歩して、店や銀行や郵便局やコンビニの位置を把握して、そして、この部屋へ帰る。夕飯を食べてテレビを見たりする。その後泊まるか泊まらないかは彼女次第だ。
 そんな風に思い出が作られていく。そんな風に愛が形になっていく。

 確かに、恋はいつか終わるかもしれない。でも俺達が結婚して家庭を持ったりしてそれこそおしどり夫婦のようになって、恋は死ぬまでずっと続いていくかもしれない。だけど、そんなの誰にもわからない。意外と早く終わるかもしれない。かつてこの部屋で言い争った二人のように劇的に、もしくは小雨が上がるように、誰にも気づかれないくらい穏やかに。
 それでも、愛は確かにここにあった。愛し合う二人が、恋の記憶がここにあった。あの二人からしたら、よしてくれ、やめてくれ、忘れてくれと言われることかもしれない。けれど、俺は覚えている。この部屋も、覚えていたのだから。

 覚えていよう。死した恋の為に。
 忘れずにいよう。俺の恋の為に。
 これまでとこれからの、全ての想い出達の為に。

『んじゃ、そろそろ出発するから、少しでも荷物解いててよね』
「海老買ってきてね」
 私と蕎麦とどっちが好きなのよーと半分怒りながら、けれども半分愛しさが溢れた声を聞きながらツマミがあった場所を見ると、もうツマミは消えていて、二人の数々の想い出も静かに、まるで美しい夢のように消え去っていた。

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