今夜、亥の刻、あの場所で



 私に姉が出来た。と言っても血の繋がった本当の姉ではなく、かといって再婚や兄弟の結婚等で出来た義理の姉でもない。学園の制度で上級生の誰かしらと仮の姉妹関係を結ばなくてはいけなくて、それで私の姉に選ばれたのが時浪(ときなみ)依織さんだった。
 それなりに歴史のあるところで、世間からはセレブ御用達の学園とも言われてる、所謂お嬢様学校の女子高だった。だから、なんとなくお耽美と言うか、女だけの秘密の花園と言うか、そういういかにもなイメージも周りは勝手に抱いているようだけれど、実際のところは何と言うことは無い。勝手のわからない新入生をお世話したり勉強の面倒を見たり単純に友達になったりする、結局はそういう制度だ。
 ただ一つだけ、「お互いの秘密のお願いを打ち明ける」と言う、明文化されてはいないけど、ひっそりと言い伝えられている決まりがあった。何でもそれでその姉妹は本当の姉妹になれるらしい。でもそれは後世の人が勝手に拵えた、それこそ「いかにも」な雰囲気を匂わせる偽物の決まりごとに過ぎないらしい。第一血の繋がった本当の姉妹でも、そこまで行きつける二人が果たしてどれだけいるって言うんだろう。
 依織さんはそこまでにはなれない。友達になることもないだろう。清々しい青空と桜のコントラストが美しい春の日。ウェーブのかかった長髪を靡かせる彼女と初めて出会った私、猪口千代子はどこか申し訳ない気持ちでそう思っていた。


 依織さんは私よりも背が少し高いだけでそこそこ小柄な人だった。でも顔つきは周りよりもとても大人びていて、全体的な雰囲気もとても落ち着いていた。けれどその顔は時々気難しく見えて、機嫌が悪そうにも、怒っているようにも見えた。
 私と言う妹に初めて出会った時は、どちらかと言うとあまり嬉しくなさそうな顔をしていた。周りは姉になれた嬉しさや妹が出来た喜びで賑やかに華やいでいたものだから、きっと知らないうちに彼女の機嫌を害してしまったんだろうと委縮してしまうより他なかった。だから私は申し訳ない気持ちだったのだ。
 それでも食堂で一緒にお昼を食べないかと誘ってくれたのは依織さんの方だった。それは単に姉としての必要最低限の義務を果たしているだけなのかも知れなかったけれど、私は単純に嬉しかった。
 でもやっぱり依織さんの表情はそれほど明るくなく、嬉しそうにも見えなかったから、やっぱり今日はいいです、また今度にしましょうと言い出そうかどうか、ぎりぎりまで迷ってしまったくらいだった。それでもせっかくの誘いだ。私はこの人を姉として一年間過ごしていくのだし、居心地が悪くても我慢しよう。そう覚悟を決めて臨んだのを覚えている。
 結果としてそのランチタイムはある気付きを齎してくれた。簡単な自己紹介や家族のこと、家業のこと、好きな科目のこと、これまでの中学校生活、これからの高校生活への不安。そんな程度のことしか私達は話さなかったけれど、その短い会話の中で、依織さんは特別私をものすごく嫌っているわけではないと言うことはわかった。それだけでもほっとして、私は依織さんの表情をよく見られるようになった。確かに基本は機嫌の悪そうな顔をしてはいるけれど、時々は優しく微笑んでくれる。そして私が「嬉しくなさそう」と見ていた表情は、どうやらよく見てみると、感情で言えば切ないや寂しいや悲しい、と言ったものであるようだった。
 時々思い出したように、その大人びた眼差しに憂いが纏われる。その時依織さんは私じゃなく、どこか遠くを見つめているようだった。ここではないどこかに想いを馳せている。私は、そう感じた。


 依織さんのお家の時浪と言うのはものすごい一族だった。一族と言うか大企業? いや、大組織、と言えばいいのだろうか。経済は勿論政治、芸能、文化の分野でも活躍しているし、噂によるととある宗教団体にも関わっているようだった。
 とにかく幅広く権力を有する、世界を股に掛ける組織であって、依織さんもゆくゆくはあらゆる業界のトップに行く人だと期待されているらしかった。私の家もそれなりに裕福だけど、時浪と比べれば月とすっぽんもいいところ。それも委縮の原因の一つとなっていた。
 でも依織さんに期待が集まっているのには理由があった。
「お姉さん? 本当の? 血の繋がった?」
 依織さんとではなく、クラスメイトと食堂で昼食を食べている時にそんな話になった。
「そ。でもその姉さん」
 あ、(まとい)さんって言うんだけど、と向かいの友達はカレーを掬いながら言う。
「何でも突然海外留学を決めたらしくってー」
「進路についても、のらりくらり回答先延ばししてるらしいよー」
 隣の友達がそう言ってうどんを啜る。
「時浪のトップを担う一人になる、って重圧がいきなり自分一人だけに課せられて、徳浪先輩正直迷惑してるっぽい、って話」
「突然海外にふらりと行っちゃう自由人なお姉さんのこと、羨ましいってよりは憎んでるー、なーんて噂もあったりなかったりー」
「ほら、チョコならよく知ってると思うけど、いっつもむすっとしてんじゃん? あれ、ずっとお姉さんのこと、怒ってんじゃないかって言われてるよ」
 そうなんだ、と私は目の前の天丼に箸を付けられないでいた。思っていた以上にその呟きには覇気がなかった。お姉さんのこと、一言も私に話してはくれなかったから?
「せっかく姉妹になったんだし、本当のところはチョコちゃんが解明しちゃえば?」
 友達はそう気軽に言ってまたうどんを啜るけど、話すら聞かされていなかった私にそんなことが出来るようには思えなかった。ようやく箸を付けた海老の天ぷらは、何となくいつもよりも味気なかった。


 でもある休日、二人で買い物に出掛けた時、話の流れでつい口が滑ってお姉さんのことを訊いてしまった。やっちゃった。今度こそ本当に依織さんの機嫌を悪くしてしまった。そう血の気が引いて、けれど言い訳しようにも口がどもって上手く言葉が紡げなかった。
「……あんな姉」
 そんな慌てる私に反して依織さんは声を荒げることも怒りで顔を歪ませることもせず、はあ、と溜息をついただけだった。確かに顔色こそ曇ったけれど、決定的に気分を害していないようでほっとした。けれど、声のトーンが暗いのが気になった。
「自分勝手で嘘つきで……いつもまるで猪みたいにいきなり向かってきて、嫌だって言ってるのにわたしにベタベタ纏わりついてきて」
 依織さんのお姉さんだから、きっと品行方正な方でうんと落ち着いていて、素敵な大人なんだろうと思っていたけれど、猪、と私は苦笑してしまう。本当に煩わしいったらないのよ、と口を尖らせる依織さんだったけれど、すぐにその表情をもっと翳らせた。
「それなのに勝手にいなくなって」
 ぎゅ、と下唇を噛む。ぐっ、と拳を握る。
「……大嫌いよ」
 言葉ではそう言う。強く握った拳だけ見れば、確かに怒りの籠ったものと見られるだろう。でも私には激しい怒りを感じられなかった。だって依織さんが見せる横顔は、どこか寂しそうだったから。ちょっとでも突いてみたら今にも泣き出しそう、と言ったら、依織さんはどんな顔に変わるだろうか。
 話を無理やり終わらせようとしてか、もう帰りましょうと彼女がパスケースを取り出した時だった。依織さんは手を滑らせてそれを落としてしまう。拾い上げた私は思いがけず、ケースの裏面を見ることになってしまう。
「見たわね」
 裏面に入っていた写真は、依織さんと、誰か知らない人のツーショット。依織さんは私に見せたことのない、まるで幼い少女のような笑顔を見せていた。そんな彼女を愛おしそうに抱きしめているのは依織さんにどこか似た、同じように無邪気な笑みを浮かべたショートヘアの女の人。
 この人が誰かなんて言われなくてもわかっていた。
「姉さんは留学したんじゃないのよ」
 時浪纏さん。依織さんの、本当のお姉さん。
「別の世界に行ったのよ」
 私には見せない笑顔の依織さんと、依織さんが大好きな纏さんをじっと見つめていた所為か、最初は聞き違いかと思った。目を瞬かせる私に別の世界よ、ともう一度言う依織さん。でも私はやっぱりどう言っていいものかわからなくて、きょとんとするより他なかった。比喩じゃないわ、と彼女は頭を振る。
「この世界以外に無限に存在する世界線。その内の一つに、旅立ったの」
 え、と声を漏らして、目が点になる。依織さんがそんな突拍子もない、現実味のないことをもっともらしく言うなんてありえない。でも依織さんは冗談よと否定することもなく、ずっと真剣な表情で私と向き合っていた。
「【イノコク】って知ってる? 学園の七不思議のひとつ」
「そんなのあるんですか?」
 パスケースを返して、私達は駅に向かって歩き出す。
「特別な条件の揃ったある日の亥の刻に、学園の展望台で儀式を行うと……別世界への扉が開くのよ」
 へえ、と頷くだけする私。でもわざわざこんなことを話すなんて、まさか。
「もうすぐその日が来るの」
 思うよりも早く、予想が現実になってしまう。依織さんは立ち止まって、どこまでも真剣な目で私を見つめた。影を縫われたようになって、動けなくなる。その眼差しは語る。
「わたしは姉さんをこっちに呼び戻そうと思ってるの」
 お願い。一緒に来て。私とその儀式を行って。
 それは姉からの、脅しのような強要とは言えなかった。どこか何かを祈るような、希うような、胸が切なくなる眼差しだった。私は何も言えず、やっぱり頷くことだけしか出来なかった。


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