蛇神様の恋人



 神社の社務所の隣、犬小屋よりもずっと小さい、小屋と言えるかも疑わしい粗末な作りの小屋に私は閉じこめられていた。金網の壁は雨も雪も風も防ぐことはない。尤も私は温度に左右されない生き物であるから平気ではあったのだけど、人間であったかつて記憶は私をひどく惨めな気持ちにさせる。風雪に晒されても鱗は傷つかない。けれども確実に私の中の何かを削り取っていった。
 人間であった? そう。私は、思い出もそうでない記憶もわからないほど何もかも風化しているけれど、かつて私は人間であったのだ。蛇体では抱けない感情を体いっぱいに抱き、それ故の煩悩に振り回された、神様でも何でもないただの一青年であった。それが、どういうわけかこのような蛇の身になり、尊厳も何も感じられない小屋にその身を縮めている。呪いなのだろう。そんな呪いをかけられた由縁はわからないが、生きていく上で全くの偶然にしてなおかつ避けられない不幸だったのだろう。多くの災害がそんなものであるように。
 私は蛇になった。村の人間は勝手に私を畏れた。いい加減な理屈をつけ、私はここに繋がれた。今もなお繋がれている。
 生きる意味もわからず、ただ惰性に流されるまま死を待つ日々。神社に訪れる者は私のことなど誰も知らない。知っていても毛嫌いする。愚弄される。あんな小さな白蛇一匹、何が神なものかと嘲笑する。
 笑う者よ、その通りだ。私はただの人である。ただの蛇にも虫にも劣ろう。

 それでも、あの少女は笑って私の小屋の傍にいるのである。

「へびがみさま」
 金網の隙間から指を一本入れるが私には届かない。私とて少女の指に触れるのは躊躇する。それでも何に満足しているのか、ふ、と少女は微笑を続けた。
「きれいな白いお肌」
 息をついて彼女は言う。深い愛情と羨望が込められた暖かな息に私はいつも戸惑うばかりである。
「きっと雪もこんなに白いのでしょうね」
 彼女の瞳に光は指していない。一目見て盲目とわかる。親の参拝と共にここに訪れているらしいが、彼女の親らしき人物など見たことがない。それでも私が少女の気配を感じるとすぐ少女はこちらに歩いてくる。その足取りは盲目の子とは思えないほどしっかりしていた。暗闇の中で一つだけ見えている灯りに向かってまっすぐ歩いてくる。そう喩えられるほどの確かな足取り。

 そしてその盲いた目は私だけが見えるらしい。
 彼女が微笑した時、その光の微笑み以外私の視界に何も入らなくなるように。

 最初こそ私を困惑させてはいたが、次第に私は彼女の訪れを心待ちにするようになった。蛇として生き、人間らしい心が全て枯れ切ったはずの私は、枯れた心の土壌に次第に新しい心を芽吹かせていった。あるいはただの蛇にも、犬にでも猫にでも、こういった感情はあるのかもしれない。誰かが誰かに注ぐ暖かい愛、思いやり。


 私と少女のささやかな日々はきっと誰にも知られることなく、穏やかに続いた。
 呪術師から、突然の宣告がなされるまで。


 村に将来起こってしまう災い。飢饉、大地震、大津波、大噴火。それらは全てこの蛇が喚ぶ呪いだ。長きに渡ってこのような粗末な扱いを受け、蛇は怨念を募らせている。それらが爆発するのはそう遠くない未来であろう。
 私が蛇になったのが誰にでも起こり得る類の天災ならば、この予言もまたそのようなものなのだろう。以前の私ならきっとそう諦めて、むしろ早まってくれた死の時を甘んじて受け入れただろう。けれども私は少女と出逢ってしまった。諦めはしなかった。ようやく訪れた死の機会を祝うこともなかった。ただ、嘆きがあった。
 大きいことは決して望まない。人間達を恨んだりなどしていない。ただ彼女の笑顔を見ていたいだけ。彼女の目に唯一映る私。その私の姿をいつまでも見せていたいだけ。
 いつまでも、彼女に笑っていて欲しいだけ。
 だが呪術師は私を見つめて意味ありげに妖しく笑う。少女でさえも見通せない、私でさえもわからない私の心中を、その深層を、呪術師だけが見ていると言うようにせせら笑う。

 ほらご覧。ああ、そう言ってもお前は見えないのか。お前の中にこんなにも汚い気持ちがあるよ。お前の中の、理不尽な運命への憎しみ、虐げる人間たちへの怒り。そして、そう、一番深いところにあるのはね、お前が愛と勘違いする何か。

 何が清らかなものであるものか。
 想いを寄せる少女をひと思いに犯したいと言う衝動。

 それが、こんなにもぎらぎらと光っているよ。
 お前のその、白い雪のような鱗よりも一層強く。

 ――違う。違う! 違う!

 呪術師は災いを未然に食い止める為に、蛇神として私を祀るように村長達に告げた。そして村の女を生贄として捧げよとも告げ、どことこ知れぬ場所へ去っていった。私は小屋から豪華な社へと移された。何人もの女が私の元を訪れた。場所が変わろうが、女が何人来ようが関係ない。私は私を一心に否定し続けた。私の中にある邪の心――蛇の音に通じるその心もまた、少女との交流によって新しく生まれたもの、生まれてしまったものである。ああ、なんと浅ましい。煮え滾るような恨みや怨恨や獣欲。私は結局、そのようなものに囚われるつまらない人間――いや、人間以下の存在でしか無かったのだ。
 少女との出逢いで、少女との日々で、何を勘違いしていたのだろう。
 こんなにも醜い。果てしなく醜い。


 やがて私自身の姿も見えなくなる。
 忽ち世界は、闇に閉ざされる。


 形は無い、音もない、意味するものは何一つない。
 そんな虚無の世界を彼女は見ていたのだろうか。
 そんな絶望の世界で見つけた私は、彼女にとってどれほどのものだっただろう?

 彼女にとってどれほどのものを、与えられたのだろう?
 私の方が、与えられてばかりだったのに。




「蛇神さま」
 盲いた彼女が私しか見えなかったのと同じように、私もまたいつのまにか、彼女しか見えなくなっていた。
 清らかな彼女。あの恐ろしい、怒りと懊悩の如き灰色の空から降りてくる、神の恵みのような真っ白い雪そのものである彼女。
 今、この闇で唯一見える光。
 私がどのような汚れに塗れていたとしても、嘘ではない。勘違いでもない。

 少女への想い。真実そのものである想い。
 私を私たらせる尊い熱情。

 もう少女と私を遮る網は無い。少女は手を伸ばす。私は体を伸ばす。盲いた目いっぱいに私を映して彼女は笑っていた。私も笑えるだろうか。蛇の身で笑えるだろうか。出来れば人間に戻りたい。戻って彼女を抱きしめたい。彼女は、それを嫌がるだろうか。


 いいや、いいや。蛇でも人間でも神様でも、何でもいい。
 彼女に届くならば、何でもいい。







 そして、世界は開かれる。
 闇だけの世界は光と色、形と音、全てを取り戻す。
 村の全てを壊してなお世界は存在している。時は流れ、空は色を変える。私が喚んだわけではないが、災いは確かに訪れたらしい。生き残っている者は私と少女だけなのだろう。
 少女に抱かれながら、呆然としてまっさらとなった世界を見ていた。首をもたげて見れば少女もまたどこか呆然としていたが――未だ目は盲いているようだ――私に気付いて当然のように微笑した。荒れ地に芽吹いた花のような微笑は、私を一層穏やかにさせる。

 これからどうなるのかはわからない。世界は壊され原初に戻り、私の中にある汚れた想いは熱情と同じくらい確かに、尚も存在している。

 それでも彼女がこうして私を見ていてくれれば。胸に私を抱いていてくれれば。

 首を伸ばし、私は彼女の唇に口づける。冷たさに驚いて、彼女はまた弾けたように笑った。

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