私はもう死んでいた
私にはこの夏からの記憶しか無い。けれどそれを疑問に思ったことはない。
記憶の始まりは夏のある日。太陽が沈んで間もないころ。夜になりかけの空気が満ちた。
肌は夕顔のように白く、髪を結い上げたうなじは扇情的に汗が浮かんでいる。生地の薄い浴衣だから、生ぬるい水中を歩くような宵でもそんなに苦しくない。
行く先を照らすのは、牡丹が描かれた提灯だ。
歩くたびにゆらゆら、ゆらゆら、灯りは踊る。
今日はお祭りなのかしら。いろんな所に燈籠や、提灯があって、まるで蛍がとまっているよう。
その幾多の光に照らされた道の途中で、あなたに出逢った。
どこか寂しい、虚ろな目に、提灯の明かりが魂のように揺れ映って、それから先は、あっという間だった。
私は夢と、恋と、愛と、性と、悲しみと、恨みと、辛さと、そして幸せを覚えた。
感情の回路は一晩の内にすべて新しいものに作り替えられ、そこを通る情の遺伝子はどんなものであれ瑞々しさと祝福に満ち満ちていた。
つまり私は、生きることを得たのだった。
だけど、私とあなたの恋を引き裂く誰かがいる。
私達の閨事を見ていた隣の枯れた爺だ。何をあなたに吐いたのか、呪いでも施したのか、
私はあなたの家に全く入れなくなってしまった。
どうして。私は何も悪いことをしていない。
もしかして――あなたが亡くなった奥さんの喪に服している時に、出逢ってしまったから?
たったそれだけで、こんなに苦しい思いをして眠らなければならないの?
――それならば、いい。私は罰を受けよう。
だけど、刑を受ける前に、あの人に逢いたい。逢いたい。逢いたい。
思うだけでは駄目だ。私はここから、何としても、出ていかなくちゃ。
また牡丹柄の提灯を持って、あの日のように、巡り逢いたい。
あなたの悲しみを癒せるのは、私。
私に生を感じさせるのは、あなた。
そうと決まれば、とっておきの浴衣で着飾ろう。
髪結も上等のを呼ぼう。髪飾りや簪も下駄も、一等のもので。
肌はもっともっと美しく見せられるように、白粉も上等のものを。
そういえば、あの提灯はどこにあるのかしら。でもきっとすぐに見つかる。
どこかにあるはず。探して、探して、探して。
――どうして、無くなってるの。
あの光がないと。あの牡丹の光じゃないとあの人は見つからない。
どこ? 誰が持っていったの! でもここには最初から私しかいない――
取り乱す私の元に、一つ、見慣れない、細長い箱があらわれた。
開けては駄目――
声がする。私の声。
いいえ、聞かない。もうあの人の声じゃ無ければ、私は止められない。
ここに提灯があるんでしょう! 何で私なのに、そんな意地の悪い真似をするの!
私は――蓋を開けた。
はたして、提灯はあった。けれど。
微かに、腐臭がする。
ほの暗い箱の闇に食われていた何かが厳然とその姿を現した。
白骨。動物のものではない。
頭。胴体。二本の腕。掌。指。二本の脚。
風が吹いたらたちまち塵芥と化する、脆い、人間だったもの。
終わってしまった白骨はしかし大事そうに、愛おしそうに、提灯をしっかと抱いている。
ひらひらと何かが舞落ちる。表面には、私の名前。
そう――
私はもう、死んでいたのだ。
俄かに一陣の風が吹く。白骨は予想通り白い砂となって空中に散布されていく。
同じように私とあの人の光輝く生の喜びの記憶が粉々になって吹き飛んで行く。
ただ牡丹の提灯だけが、生きている。全く、何一つの崩れもなかった。
儚い骨を悼むように――どこか、嘲笑うように、完璧だった。
ああ――さようならとも、言えないなんて。
私の涙も、最後にきらりと強く光って光って、空気になった。
原作 浅井了意「伽婢子」収録 「牡丹灯籠」