しばらく、穏やかに過ごした。気になっていた映画を一気に見たり、小説を読んだり、ジムに通って体を動かしたりしてみた。けれどまだ自分から音を――鍵盤を叩く気にはなれなくて、あの日浮かんだメロディも、数フレーズから先は続けられなかった。東雲さんからの連絡にも、まだ音楽は回復できていないと苦笑せざるを得なかった。
 それでもちょっと前に比べれば、随分ましだ。無意識の内に柵を越えることはなくなったし、手首の傷も回復している。眠れなかったら明け方まで待って散歩をする。決まって、あのマンションを通る。例の部屋にはいつも灯りがついていて、どうも消し忘れではなさそうだった。
 あの部屋にはどんな人が住んでいるのだろう。男か女か。もしかしたら、上京して一人暮らしをしながら名門校に通っている子供だったりして。伴侶に先立たれた老人かも知れない。
 どんな人であるにせよ、その人もまた、私と同じように停滞しているのかも知れない。
 勝手な思い込みは勝手な共感を呼ぶ。私だけではないのだと、やはり勝手に、ほっとする。
 ただそれだけの関係で在り続けるのだろう。私と、名も知らないあの部屋の主とは。
 そう思っていた。私が、部屋の主である彼女を見るその日までは。
(うそ)
 時間も時間だし、夢でも見ているのかと思った。でも何度瞬きしてもベランダにいるその姿は消えないので、今見ている彼女がその部屋の主であると考えて間違いなさそうだったし、すんなりと腑に落ちた。
 遠目では歳がいくつくらいかはわからないが、私より大分年下のようだった。長い黒髪が涼しい朝風に揺れている。ワンピースタイプのパジャマだろうか、薄いブルーの衣服は朝に変わりつつある世界に実に似つかわしい。手すりに持たれて、明けつつある空でも見ているのかと思ったけれど、彼女が見ているものは手元だ。何を持っているんだろう。
(羽根……ペン?)
 くるくると回しているようだ。彼氏や友人から貰ったんだろうか。やがて回すのにも飽きて、眺めるのにも飽きたのだろうか。そして――視線を感じたんだろう。私の方を見やった。やばい。咄嗟に息を飲む。怪しまれないように視線を逸らした先に、何かが落ちてきた。
 さっきまで、彼女が弄んでいた羽根である。
 見上げると彼女はベランダからいなくなっていた。無視するのも印象が悪い。私はその羽根を拾い上げた。ペンではなく、ただの羽だ。白くて、特に模様はない。手触りから本物の鳥の羽ではなく作り物のように感じた。届けようとマンションの入り口に目をやった時、カーディガンを羽織って出てきた彼女と目が合ってしまった。
「すいません。落としてしまって」
 助かりました、と近付きつつ彼女は微笑む。
「風に飛ばされでもしたら、わからなくなっちゃいますから」
「そんな。大したことじゃないですし」
 夜と朝の間のこんな状況で人と話すことを想定していなかった所為か、やけに早口になってしまう。弾みでくしゃみまでしてしまって、えらく恥ずかしい。ずっと彼女の部屋の灯りを見ていた決まり悪さも相俟って帰った方がいいと思う反面、切れ長の瞳は涼やかで凛々しいのに、あくまで穏やかに、柔らかに微笑む彼女を――ずっとどんな人だったか知りたかった部屋の主とこれでさよならしてしまうのも惜しいと思えた。
「まだこんな時間じゃ、寒いですよね」
 よかったら、とマンションの方を振り返る。お茶でもどうぞ、と羽根を揺らした。拾って下さったお礼です、と添えて。
「え、でも」
 誰かいるんじゃと思ったけれど、一人暮らしでと彼女は苦笑する。
「怪しいですか? いきなりこんなのは」
「いえ。そんな」
 やや図星ではあったけどお言葉に甘えさせて頂きますと慌てる私に、彼女はまた違った微笑みを返す。今度はどこかいたずらっ子のような、小悪魔めいた微笑だった。お互い、夢から現実へと世界が動いていく時間だから心を許したのかも知れない。これが昼間だったら挨拶だけでさようならだろう。
 表札には明保野、とあった。どう読むのかと思案していると、あけぼのって読むんですと彼女は言う。
「名乗らずにすみません。明保野空って言います」
 赤月翼です、と私も返した。売れていない作曲家だから知らないのも当然だろう、特にっぴんときた表情をしない彼女は、翼さんですねと頷く。名前で呼ばれるのかと少し驚いた。最近の子は積極的だ。私も、彼女を空と呼ぶことにしよう。
 部屋に通されて、目を見張る。
 ベランダの傍に、一台のグランドピアノがあった。
「音大生なの?」
 見た目からして学生だろうとは思っていた。そんなところですかねと空も曖昧に笑った。私のマンションも完全防音を売りにしているが、ここもそうらしい。とある音大も近いし、多分そこの学生の一人暮らしが多いのだろう。自分の学生時代を思い返して、ふと懐かしくなるのと現状に惨めさを感じるのは同時だった。グランドピアノか、と呟きながらそっと触れる。
「翼さんも音楽されるんですか」
 少しね。砕けた苦笑が浮かぶ。そればっかりは濁して答えるしかなかった。
「グランドピアノなんて、おばあちゃんの家と学校の音楽室にしかなかった」
 頂いた紅茶には冷えた体に優しい暖かさがあった。家にはアップライトのピアノしかなくて、と少し笑った。一人暮らしの子にグランドピアノとは、空はさぞかし裕福な家の娘なのだろう。
「随分弾いてないわ」
 ピアノだけに言った言葉じゃない。
「なら、今少し、弾いてみます?」
 空はそれを言葉通りに取って言う。そんな、と手を振る。
「早朝よ」
「早朝だからこそ」
 そう言えばこの子は、何をしていたのだろう。ずっと気になっていたことだけど、浮かぶ微笑みを見ているとどうにも適当に誤魔化されるような気がしてならない。
 なんて、そう判断するのも早い話だけど、そうしてしまうのは、とピアノの方を振り返る。どきん、と胸が鳴る。指が疼く。その感覚は実に久しぶりで、まるで初めてそうなったかのように新鮮だった。
「じゃあ」
 少しだけ、と言うなり私は躊躇もなく鍵盤の蓋を開いていた。そしてそっと触れる。重たい鍵盤とささやかに響く音。すとんと椅子に腰を掛けて息を吸う。壊れ物を扱うように、慎重に指を置いた。
 きっと、怖くて弾けない。そう思っていた。途中で止まってしまう。だって私はそれまで、長く音を見失っていたのだから。
 でも、どうだろうか。
「素敵」
 空の拍手が聴こえた。早朝だと言うのに数分間、没頭して弾いてしまった。先日の自殺未遂よりはずっといい意味で意識を失っていた。無我夢中で、弾いていた? 興奮で震える指は、自分のものじゃないみたいだ。
「でも何て言う曲か、わかんなかったですけど」
 申し訳なさそうに言う空にオリジナルよと苦笑した。即興で新しい曲を弾いたわけじゃない。とは言え、いつ出来た曲だったかも忘れてしまった。すごい、と空はまた小さく拍手する。
 マンションに住んでる人、迷惑じゃなかったかなと苦笑しつつも、心地良さにゆっくり呼吸した。朝の光が満ちようとしている世界で、何もかもが煌いて見えてきた。
 その時、また聴こえた。鳥が羽ばたく音が。
 今度は映像もふっと脳裏に浮かぶ。まさしく今そうであるかのように、日の出と共に優雅に飛ぼうとする鳥がいる。それでもまだその鳥は、窮屈そうな鳥籠の中にいた。でも何かが思い出せそうな気がして、飛ぶ鳥の姿を必死で追い求めた。何とかイメージが掴めた時、そっか、と思わず言葉が漏れた。
「どうしました?」
「あ……その、ね」
 空にかいつまんで説明する。鳥の羽ばたきを幻聴すること。今ここでピアノを弾いたら、イメージを幻視したこと。何か予感がして、鳥の飛翔するイメージを掴んだこと。
「なんとなく、全部が懐かしいと思ったの。それで、うーんと思い返したら」
「思い返したら?」
「最初に曲を作った頃に、同じイメージを見たなって」
 奇跡的に思い出せたの、と私は微笑した。初めて作曲した時のこと。小学生の頃だったはずだ。やり方もわからないのに、見えないメロディを求めて、私の感性は鳥のように飛んでいたのだ。
 今はどうだ。鳥籠の中で、もがくばかり。
 昔は、そうだ。そんな風に、自由に飛べていた。制約も何もない自由な空を、自由な道筋で、楽しく朗らかに。
 大人になるにつれて、背負うものやつまらないプライドや怯えや恐怖が増えすぎて、やがては堅牢な鳥籠を作ってしまった。
 そしてその鳥籠は、何か不気味で大きな力を働かせて、私を殺そうとまでした。
 そんなようなことを、私は空にこぼしていた。気付いた時は、もう遅い。やだ、と照れ隠しなのか申し訳ないのかただ苦笑した。
「ごめんなさい。いきなりこんなことを言って」
 爽やかな朝が来ると言うのに、ぐだぐだとした愚痴に付き合わされるのは気分が滅入るものだろう。けれど空は、ゆるりと首を振った。そして微笑みを消して、翼さん、と真剣な眼差しで私を見つめた。
「あなたの心の思うままに、弾いてみてください」
 空? と首を傾げる。さっきまで笑っていた若い女学生はどこへ行ったのか、真剣な表情は消えない。
「怖がらなくてもいいんです。その先に、たった一つのメロディがある」
 ぺた、ぺた、と空はベランダへ近付いていく。
「その旋律の空があります」
 薄紫の空は、徐々に神々しい、黄金の光に塗り替えられようとしていた。
「翼さんは、そこに向かってきっと飛び立てるはずです」
 朝日を背負って、空はこちらを振り向く。今度は薄く微笑して。私を遠くから見守る誰かのよう。それは小さくあるようで、とても大きな存在でもあるように見えた。何を返すべきか。迷いの間は実際のところ、彼女に見惚れていた間であったかも知れない。
「あなた、は」
 誰なの? あるいは、何なの?
「明保野空。ただそれだけです」
 はぐらかしに微笑みを添えただけの返し。ただの名前じゃないの、と私もまた微笑を返すことしか出来なかった。
「時々、ピアノを弾きに来てもいい?」
 不躾なお願いにも関わらず、勿論、と空は笑顔で受け入れた。
「あなたの言った通り」
 ピアノを眺めて、ふと気付く。
 部屋の片隅に、小さな羽根がいくつも落ちていた。空が鳥を飼っている様子は全くなかった。
「ここでなら、飛び立てるかも知れないから」
 もしかしたら私の他にも、誰か苦悩する作曲家が、ここで羽ばたいたことの証でもあるのかも知れない。そう信じてみるのも悪くないかも知れない。何せ、明け方の夢の時間帯なのだから。

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