朝の鳥が飛ぶまで待つ



 鳥の羽ばたく音が聴こえる。耳の奥底から微かに。まるで遠くの異世界から届くような、ほとんど幻に近い音が。もがく翼の、必死な音が。
 鳥はけれども、籠の中で飛べずにいる。羽ばたいた翼は羽ばたいただけ損で、舞えない羽根は白い血飛沫の如く周りに散っていく。
 羽ばたき疲れた鳥は、ただ空のあるだろう上方を見つめるだけだ。その瞳がどんな色をしているのか、どんな光を宿しているのかは私にはわからないけれど、でも、多分くすんだ、虚ろな瞳になっているのだと思う。私には、そう感じられる。


 目蓋を開くと部屋は真っ暗だった。パソコンもスリープ機能で稼働が止まっていて、モニタも消灯されていた。デスクに突っ伏していた上体を起こすと、その弾みでマウスに触れてしまいパソコンがスリープから復帰した。モニタに映し出されている画面には、意識を失う前から全く進捗が変わらないデータが無言で浮かんでいて、じっと私を見つめていた。溜息も出ない。今日もやっぱり、何にも進まなかった。何も生み出すことは出来なかった。
 うんざりして、またデスクに上体を倒す。このまま放置すれば、ほんの数十秒前に逆戻りである。そしてまた起きる。また現状をまざまざと見せつけられる。また寝る。その繰り返しは昨日にもあって、一昨日にもあった。正確に数えてないけれど、一週間近くは続いているような気がする。もはやずっとここに座っているような気さえしてきた。
 それくらい、曲を作れないことは私に想像以上の重みを日々与えているようだった。一ヶ月以上も休んでしまえば、最終的には岩にでもなってしまいそうだったけれど、東雲さんの好意を無駄にすることは出来ない。音を奏でられないただの岩に価値はない。
 曲を作れない。そう東雲さんに相談したのは何日前だったろうか。悩みを切り出すことは自分の肉片を自ら切り落とすくらいの痛みを感じていたのに、東雲さんの方はわりとあっさりとしていた。むしろそれくらいの落差があった方がよかったんだろうし、正直なことを言えば私も少し助かったところがある。
 一ヶ月休むといい。そのまま事務所をクビになるのだろうと覚悟していた私には意外過ぎる返答だった。よくあるスランプさとコーヒーの湯気を燻らせながら言って、里帰りでもしてリフレッシュしてくるといいと微笑んでもくれた。私も一応形としては微笑み返したけれど、今更地元に戻るにしても居心地が悪くてますますナーバスになるだけだ。仕事はどうしたのとか、そろそろ結婚はとか、家族や親戚からの言及がつらいことを東雲さんはわからないのだろうか。まあ、結婚の予定や恋人の有無を訊かないだけ出来た人ではある。
 家にいます。曖昧な微笑みと共にそう答えた。そうだよ、と東雲さんも微笑を返す。ゆっくりしなさい。これまで沢山の作品を作ってきた君の翼を休ませる時が来た。そういうことなんだよと、私の名前に引っ掛けて言ったことが存外照れ臭かったのか、クサいねと苦笑した。私も私で、何とも言えない苦笑を返すだけになった。
 そもそも、この赤月翼の翼が今まで本当に飛んでいたのか? 苦笑の裏で声に出すでもなく、私は己にそう問うていた。冷たい問いは、翼の根元に突き刺さったようだった。
 何が原因で音を奏でられなくなったのか。スランプなだけか。ただ単に才能の枯渇か。
 そうね、才能がなくなっただけなんだろうとあんまりにもあっさり認められる自分に純粋に驚いていた。危機感もなくそれをすんなり受け入れられたのは、微睡の中にいる所為だろうか。ポジティブだろうがネガティブだろうが、発想は分別もなく何もかもが夢見る隙間に吸い込まれて消えてしまう。それに、目蓋を閉じても閉じなくても、光の入り込む余地など悉くない闇の中ではそうなってしまうのは何も不思議じゃない。今が何時かわからないけれど、世界は夜に封じられている。
(昔はもっと)
 声にもならないモノローグが、夜の闇に吸い込まれて消えていく。
 昔はもっと、何?
(もっと、音は、自由だった)
 小さな指がピアノを鳴らす。デタラメで弾いていたそれは段々と整えられていく。楽譜の音を再現するのが楽しくて、やがては自分でメロディを創り出していくことに喜びを感じていた。いくつかの賞を貰って、東雲さんに声を掛けてもらって、いろんな仕事をした。
 でも。段々と目蓋の裏に映る映像が霞んでいく。ノイズが入り込んで、次第に黒に塗り潰される。何も見えなくなる。
 そもそも、一番大事な音が、最初から聴こえてこない。
 そして残るのは今の自分。だらしなくデスクに上体を倒して、情けなく涎を垂らして顔を汚している自分。何も奏でられなくなった自分。生きているだけ。呼吸をして、血液を巡らせているだけ。生産性の欠片も夢も希望も未来もない。
 なんて意味のないものだろう。
 音を紡ぐことを、自ら放棄しているよう。
 自分自身でさえも、目を背けたくなる。
(いっそのこと)
 ならば簡単な話だ。
(いなくなればいい)
 どこへも進めないのなら。夢も希望も気力も音も、失くしたのなら。
 生きていく価値はどこにもない。


「え?」
 気付けば、五月でもまだまだ肌寒い風が肩を撫でていく。むき出しの肩だ。カーディガンも何も羽織っていない。Tシャツも着ていない。だらしなく、キャミソール一枚だ。部屋にいた時と全く変わっていない。ほとんど下着姿もいいところの格好で、私は外にいる。幸い下はスウェットを履いていたけれど、と足下を見てぎょっとする。思わず声も出さず後ろず去った。やがて柵にぶつかる。冷たさと鉄臭さに体中全ての息を吐いた。安堵と不安と緊張が充満した息だった。
 ここはきっと、私が住むマンションの屋上。
 誰も越えたことのない場所。
「何……」
 やっと、声が零れる。誰とも喋っていないわりに、掠れた声だ。
「して、るんだ、ろう」
 もしあのまま意識を取り戻さなかったら。心臓がどんどんとうるさいくらいに早鐘を打っていく。あんなに無気力だったのに、もしものその先に待ち構えている事実にこんなに警鐘を鳴らすのは、笑えない駄洒落の方がいくらかマシだった。
 もし。
 意識を、取り戻さなかったら。
(私、は)
 絶対に、あそこから飛び降りていた。
 そうして、死んでいた。この真夜中に、血塗れになって。
 一体どうしてここまでやって来たのか? 全く覚えていない。誰かが連れ出すなんてことは考えられない。だって、私は全く記憶にないことだけど、掌には柵を越えてきた感覚が残っているのだ。体が覚えているということは、私が自らここに来たと言うことに他ならない。いくらなんでも、嘘でしょう? くしゃり、と髪を掴んだ。夜風に晒されて、随分冷たい。
 このままここにいたら風邪を引く。来た時と――多分。覚えてないけど――同じように柵を越えて部屋に戻らなきゃ。マンションの他の住人が起き出していて、こんな姿を見られたら困りものだ。あっという間に噂が広まってしまう。曲を生み出せないだけでも大変なのに、これじゃますます、この世に居づらくなる。空を見上げた。明るみはない。まだ星も、月も見える。今が夜明け前なのか、それとも深夜なのか。一向にわからない。部屋と同じように、やはり世界は密閉されている。
 運動不足の体に柵越えは案の定しんどいもので、掌にも額にも汗が滲んだ。上手く足を引っ掛けるところが無かったらあのまま柵の向こう側に取り残されていたに違いない。たまの運動と考えて、一眠りしよう。そう考える辺り私はせこい。このまま気持ち良く眠れるだろう。いつか元気になった時に、これを笑い話にしてしまおう。そう思った。起きた事態に比べて随分とポジティブな思考だった。
 でも、そうも言っていられなくなった。
 こんな事態が、四回も続けば。
 柵越えを四回もこなせばコツが掴めてきて、最初ほど痛みや疲労を伴うこともなくなった。その一方で当初期待していた安眠など悪い冗談のようになってきた。部屋に帰れば気持ちの悪い汗が体中にべたついて、そのくせ疲労でシャワーを浴びる気力もないのだ。ぐったりしたまま、ソファーに横になる。それで目が覚めれば、もう朝を通り越して昼になっている。そして決まって天気は悪かった。梅雨が一足先にやってきたかのように、雨の日が続いていた。
 記憶にないことは、もう一つある。
 起き上がった時、うんざりする寝起き特有の痺れの中で、自分の左手首を走る傷を見た。最初は目の疲れからくるものだと思った。触れてみれば、ごわごわとその存在を主張してくる。まだ生々しいものもいくつかある。
 深さは大したことなくても、深くならないという保証はない。
 勿論自分に、リストカットの趣味などあるわけがない。でも度重なる無意識の飛び降り未遂に比べたら、身近にあるだけ恐怖は同じくらいかそれ以上だった。
 この世界に居づらいのなら、この世界からいなくなればいい。
(だか、ら?)
 何もかも放り出してまた眠りに逃げ込んだけど、すぐに目が覚める。丑三つ時と称される深夜二時に、私はベッドにいたのではなく玄関のドアを開けようとしていた。まただ。また、飛び降りようとしていた?
(そんな風に、考えてしまっているから?)
 否定は出来なかった。でもそれはあくまで消極的な願望であって、逃避であって、何も本当に死にたいと思っているわけじゃないのだ。確かに、何も希望があるわけじゃないけれど、未来が明るいわけじゃないけれど、でも。
 駄目だ。
 きっとどんな風に言っても、死神はどこまでも私を追いかけてくるのだ。
(怖い)
 玄関先で蹲る。頭が痛みを伴ってがんがんとなり始める。旋律もリズムも何もない、不協和音のモデルのような破壊音。思えばきちんとしたメロディを紡いだのは、もうどれくらい前だったか? 私は少しでも、音楽を聴いていただろうか? 弾いていただろうか?
(怖い)
 段々、何かわからない意志に潰されていくのが、ただひたすらに恐ろしい。
 私に音楽が残されていないから。生み出せもしないから。
(音楽が消えていくから、私は)
 声にならない声しか出せない。空っぽの、掠れた声だけしか出ない。押し殺した悲鳴と嗚咽に裏打ちされた僅かな雫が、膝頭を濡らした。一体何に対しての涙なのか、意味を決定づけるほどの気力は残されていなかった。
(嫌だ)
 掠れた声で、世界を撫でる。
(嫌だ、嫌だ。こんなのは)
 全てを出し尽くした後に残るのは、自分でも意外なものだった。音こそ否定の意味をなすものだけど、それは強烈な飢餓感に裏打ちされているものだと私はどこか感づいていた。酷く冷静な私が私を見下ろしている。だからわかる。
(こんな風に終わりたくない)
 まだ微かに涙を流す私に燃える想いは、熱さのわりには空っぽだった。どこかに向かおうとしていて、けれども道がわからない。ただこのまま死にたくない、終わりたくない気持ちだけが、全ての根源のような熱さの塊だけが燃えていた。
 それは多分、危機に瀕した人間が発揮する瞬発力のようなものなのかも知れない。
(何としてでも)
 生きなくちゃ。
 そう思った時だった。
 頭を打ちつける破壊音を打ち破る、鳥の羽ばたく音が聴こえた。既に何度か過去に聴いていた音。聴く度に思い出して、聴き終わる度に意識から消えていくもの。同じように籠から出られていないけれど、がむしゃらに羽ばたく音が。
 そうだ。私は立ち上がる。多少の立ち眩みにもめげず、壁に手をついて体を支えた。
 動こう。死神の意志に屈するわけにはいかない。
 部屋の灯りをつけてぎょっとした。自分では綺麗好きのつもりだったが脱ぎっぱなしの服、畳まれていない洗濯物、食べ残し、ごみくず、散乱する資料の本や楽譜など、やけに汚れている。もっと放置すれば足の踏み場もなくなるだろう。異常な行動をとったのも、部屋が汚れている所為じゃないか?
「掃除」
 声に出してみる。何だか久しぶりに聞く、自分の声。
「掃除しよ!」
 決めてからは夢中だった。脱いだ服は畳むなり洗濯するなり、洗濯物は畳むなり仕舞うなり。大まかにいるものといらないものに分けて、いらないものはいっそどさっとごみ袋に入れてしまう。があっと掃除機をかければ、その音で余計なことは考えられなくなる。シンクに溜まった食器を無心で洗っては仕舞っていき、テーブルの上や窓、キッチン、台所を越えて風呂場に至るまで磨いた。
 何袋かごみ袋が丸くなる頃には、東の空が白んでいた。ぼうっとしていると、どんどん光が満ちていく。あっという間に朝だ。朝の光がゆっくりゆっくり、この部屋にも届いていくのだと振り返って見れば、見違えるほど綺麗になった部屋がある。ごろん、と大の字になっても支障がないくらいだ。
 朝なのに、このまま眠りに就く。逆転生活だ。まあこの休養期間ずっとそのようなものだったけれど。
 でも。薄く閉じた目に入り込むのはごみ袋だ。穢れは全て部屋から出してしまうに限る。とは言え今日は燃えるごみの日だから、全て持っていくわけにはいかない。三つ器用に掴んで私は、陽が上がりつつあると言えど、まだ寝静まった家庭に満ちた外の世界へと出て行った。
 所定のごみ捨て場に捨て、ぱんぱん、と手を払う。ほんの数時間前までの自分とは大違いだ。手首の傷を隠すリストバンドを見て、何度か柵を越えた屋上を見上げながら思う。典型的な引きこもりも同然だった私には外に出るのも久しぶりで、少し散歩でもしようかと適当に歩き出した。
 時々、深呼吸をする。時折車が通る。ジョギングをする人や、早起きの人が犬を散歩させていたりする。でもまだ誰もいないに等しい。夜と朝の間。そんな中を、私は歩く。音楽を紡げなくなって、無意識の内に自殺しようとする危ない女だとはきっと誰も知らないだろう。
 そう考えるだけで、悪しきものを感じる。だから、深呼吸をする。体の中を、全部入れ替えるつもりで呼吸する。
 朝は空気が瑞々しい。朝を迎えるだけで全てが清められる気がする。許される気がする。
 もうそろそろ私のマンションが見えてくる。けれどこの辺は似たようなマンションが多いから、全然違うところに入ったりしたらどうしようなどと考えたりする。どの部屋も見る限り、灯りが灯っていない。まだ寝入っているのだ。時計を持ってこなかったけれど、五時半は過ぎただろうか。
 そんなことを思いながらすっと上空を見つめた時、目の端を灯りが掠った。気の所為かと思って辺りを見てみると、確かにある部屋にだけ灯りが灯っていた。二階の一番端の部屋。消し忘れだろうか。
(それとも)
 私と同じように夜通し掃除をしていた人とか? まさか。たまたま起きて、灯りをつけただけだ。それか、眠れなかった人か、徹夜した人か。
 その部屋の灯りには、どこか目を離せない不思議な暖かさがある気がした。
 歩みを止めて、その灯りに見入ってしまう。
 零れた灯りが、私の中の柔らかい部分にそっと、触れていく。
(あっ)
 それもまた、随分と久しぶりの感覚だった。降りてくる旋律は僅かで、レコーダーもメモも持って出なかったことを悔やんだ。作曲家なのにと不甲斐なさで地団駄を踏むより、部屋に帰って録音する方が早い。
 私は走った。ありがとう、と灯りに呟きながら。
 またその時、鳥の羽ばたく音が聴こえた気がした。

next
novel top

inserted by FC2 system