喜久井富子に初めて先生と呼ばれた時、多々良と呼ばれる男は不意の出来事に静かに驚いていた。不覚にも、百年は優に隠しているだろう己の素顔を、ほんの一瞬でも世界に露出させてしまっていた。
 自分が、遥か彼方の昔の日々にのみ、想いを向かわせている。表面上は研究所や当局の命に従い従順な素振りを見せながらも、かつての日々を取り戻すことにのみ情熱を燃やしている。誰にも明かしていない己の野望と己の郷愁を、思いがけず見抜かれたような気がしたのだ。さながら、王様は裸だと暴露する、かの童話の少年の如くに。
 しかし。多々良はきっぱりと思う。何も知らない、例えるなら自分の名前を覚えたばかりと言うくらいの極めて幼い子供に一体、多々良の何がわかると言うのか。そもそも多々良とも初対面だったのだ。多々良の歩んできた歴史も、内面どころか外面の性格もわからない。互いにまっさらな者同士、どうして因縁が結ばれることがあろうか。
 しかし不運は重なるものである。多々良が瞬時に隠した素の表情を目ざとく見ていたのか、富子と言う少女はやけに多々良に懐いてきた。それも先生、先生と呼んで。問題があるわけではないが、あからさまに先生と呼ばれるのも彼には少し困りものだった。
 呼ばれる度に、思い出す。
 教師と美学者、理学者と詩人と哲学者、そして、物言わぬ魔法使いの猫と共に過ごした、あまりにも無意味で、あまりにも何気ない、それでも多々良にとっては心穏やかだった日々の数々を。
 今すぐにでもここを飛び出して、あの日々に帰りたくなる。
 それでも、時は無情に全てを変えてしまっている。多々良は莫大な魔力を寿命に還元して長く長く生き続けていても、彼らはただの人間である。教師も美学者も理学者も詩人も哲学者も死んだ。あの屋敷は何の関係もない一族の所有となっている。猫のことは、その時は知らなかった。きっとどこかで野垂れ死んでいる。そう思った。
 だからあの日々は、もうどこにもない。
 故に、先生と呼ばれる度に、切なくなる。心臓が凍りついた涙の糸で縛られるよう。
 けれども決意も同時に、強くなる。
 いつか必ず、あの日々を取り戻すのだと。死に瀕する夢に、その度命が吹きこまれる。
 それに、富子は喜久井の令嬢である。研究所だけが居場所である以上、世界的にも有数の権力者である喜久井と縁を深めておくことは悪いことではあるまい。どうせあの日々を取り戻すまでの辛抱である。彼女の父を始めとする一族の者達も多々良のことを信用しきっていて、多々良は半ば子守のような形で富子と過ごすことになった。
 あの屋敷にも富子ほどの年齢の娘達がいた。故に少し、懐かしくもある。
 そう、喜久井富子嬢はその娘達のように年相応に我が儘を言い、頑固でもあったが、それ以外は非常に聡明なまさしく才女と呼べる少女であった。時々は内心舌を巻くようなこともはきはきと発言したりもする。長じれば優れた学者、あるいは論客にもなり得るだろう。周りはそう褒め称えることもあった。
 それでも無情にも、この研究所では異質であった。
 あらゆる方面で優れている故に、魔法が使えないことが誰の目にもより大きな欠落として見えていた。むしろ魔法が使えないが為に他のことは全て完璧に成し遂げていたのである。しかしそれがかえって大きな歪みを見せてしまう。そのことに気付けない程富子は無垢ではあるまい。故にその歳の少女にはあまりに大きすぎる苦悩を抱えていただろう。
 一族の者がどうしていたか、多々良は深く知らない。しかし、研究所の関係者は彼女の前でこそその境遇を慰めていたが、陰では心ない言葉で蔑んでは嘲笑していた。多々良にはそれが気に入らなかった。多々良の愛したFの世界の彼らを愚弄していた連中と、どいつもこいつも同じ顔をしている。そう軽蔑していた。世界が違っていても、人間とはなんとおぞましいことか。
 そして気付く。
 この令嬢は、ある意味ではあの屋敷に集っていた者達に近い。少なくともこの悪意の蔓延る研究所では一番。
 魔法が使えない、ただの人間である為に。
 彼女も彼女で、周囲の隠された中傷に気付いていただろうし、両親や一族の失望を深く感じ取っていたが故に優秀な人たらんとした。そして決して弱さを見せることはなかった。子供だと言うのに、泣くこともしなかった。思い返せば、多々良は彼女の涙など一度たりとも見たことがない。多々良にも弱さを見せなかったのだ。
 泣いたところを見たことはないが、固く口を噤んでいるところは何度か見た覚えがある。彼女は泣かない代わりにただじっと固まって怒りや悲しみ、悔しさをやり過ごしていた。きっとそうだろう。
 その姿のなんと強く、なんと孤独なことか。
 多々良がこの雑多な人の集う研究所と言う社会で、ただ一人過去に、それも別世界の過去にのみ意識を向かわせている姿とその小さな面影は、多々良には不思議と重なって見えた。
 彼女はきっとその悲しい、悔しい想いを誰にも話すことはない。
 多々良も同じだった。あの日々は誰に話せるものでもない。
 彼女同様に強く、孤独であらねば、あの日々には戻れない。
 あの日々を覚えているのは私だけなのだから。


「先生には、魔法の先生はいたの?」
 いつかの夕暮れ、悲しみをやり過ごそうと蹲っていた少女はいつしか多々良に訊いていた。多々良を魔法の師と仰ぎたいのだろうか。しかし、そうではなさそうだった。多々良が見下ろしたその瞳は純粋な興味に煌いていた。いませんでしたよ、と多々良は薄く微笑む。
「私は最初から、いろいろなことが出来るんです。一人でね」
「先生、すごい」
 すごい、か。心中で冷たく繰り返した。そうとは知らず富子は大きな驚きに感動しているようで、けれど不思議と多々良の気には障らなかった。一人、柔く唇を噛みながら追憶の闇を潜る。
 そう。戦禍の中で生を得た――否、得てしまった多々良が持っていたのはあらゆる魔法の数々と、一人の人間の手に余りあるほどの莫大な魔力だった。何故かは未だわからない。けれど爪先からつむじの天辺まで魔法を駆使するただの兵器にも等しかった。己の原点を思う時、この世界とは違う次元から侵略の尖兵として送られてきたのだとデタラメを吹き込まれても、多々良は信じてもいいとさえ思えた。
 とにかく、人間的な記憶は何一つとして無かった。名さえも覚えていなかった。あるいは最初から人間でなど無いのかもしれない。侵略の尖兵。その通りではないか。どこか違う世界から堕とされたまがいもの。
 まがいもの。そう言う意味では、富子と同じであろうか。
 何でも出来る魔法使いと何も出来ないただの人間。どちらも極端であって、故に異質とされるもの。
 カードの表裏のような自分達。
「でも、魔法使いじゃない先生はいました」
 そう思ったからだろうか。多々良の口は滑っていた。
「がっこう、の、先生?」
「学校の先生とは、言えるんでしょうけどね。教わっていたわけじゃないですよ」
 永遠に背中合わせのような自分たちなのだから、あの日々のことを話したかったのかも知れない。少しでも少女に同情した? 仲間だと思った? いや、そこまで感傷的なものではないだろう。
「私にとっては彼が先生でした」
 あるいは、そう。「彼ら」に一番近い存在なら。
「ある人が、先生と呼んでいましたので」
 話してもいいと無意識に思ったのかも知れない。
「どんなひと、だったの?」
「偏屈な人です」
「へんくつ?」
 富子が話に食いついたのは意外ではなかった。むしろ多々良が意外だったのは存外楽しく感じた自分自身にだった。そうですよ、と笑いさえもした。作り笑いではないものなど、最後に浮かべたのはいつだろう。
「怒りっぽくて、胃が悪くて、ノイローゼ気味でいつも具合の悪い顔をしていて」
「まあ」
「柔軟な考えなんてまるで出来なくて、いつも皆やご家族から笑われて、また怒って」
「いそがしいひとね」
「それなのに新しいもの好きでいろいろ試してみてはすぐに飽きたり、文句を言ったりして、珍しいものにはすぐ飛びついて、痛い目見て」
「なんだか、だらしのないひと」
 少女にまでこう言われる始末とは。仮にも先生と呼ばれる人がこうであっていいのだろうか。それでも理学者には先生と呼ばれていたし、職も英語の教師であった。そして多々良もまた先生と呼んでいた。師と仰げる人ではなく、始終不機嫌で無愛想な人であっても、その不器用で愚かな所作の中に確かな優しさや情や親しみやすさを、多々良は感じていた。
「そんな人でしたけど、私のたった一人の先生です」
 先生と呼ばれる人からは遠くても、たったひとり。あの集まりの中心にいた人。
「先生、と呼んでいた人ですね」
 言葉は予想以上に深く、胸にしみていく。
 あの日々のことを少しでも他人に話したのが初めてだったからだろうか。確かに体験したことであるのに、もはや幻想になりかけていたも同然だった。ふとしたら夢ではなかったかと思わないこともなかった。けれども本当なのだ。むしろ、今まさに目の前にある。あの日々は遠くなどなっていないし、霞んでもいない。意味だって無くなっていない。
 ただ話を聞いて相槌を打っていただけ。それだけなのに、少女は自分がどれだけ多々良に静かな感動を与えているかを、きっと知るまい。
 屋敷に集う者が皆、こうして生きている。
 今にも誰かが、自分を呼び掛けそうで。
「多々良さん」
 だからその呼び声はまさにその空間から聞こえて来たのかと一瞬驚いたが、声の主は少女だった。不思議に思っておや? と富子を見た。
「どうしました? 先生とは呼ばないんですか」
 気に入っていたようですのにと笑った。そう呼ばれることに少しの喜びを感じていたことは、もはや自分にも隠すことはないだろう。しかし富子の方はどこか真剣な表情でええ、と首を振る。
「あのね」
 じっと自分を見つめる富子。幼いながら聡明な眼差し。鳶色の瞳は夕暮れに煌く。
「多々良さんの先生は、たったひとり、でしょう?」
 一度、瞬く。それだけで余計な微笑の仮面は剥がれていた。だが繕うことはしなかった。
 たったひとり。自分で言った言葉だ。大した意味はない。あくまでそのままの意味だ。それがどうだろう。少女が口にするだけで、深い響きを持って自分に返ってくるとは。
 たったひとり。心中で多々良は繰り返した。
「私が呼んだら、先生が二人になっちゃうわ」
 そう。どんな気難しい人であろうと、愚かであろうと、彼が先生と呼べる唯一の人だ。
 そしてあの日々こそが、たった一つ、意味のある場所。多々良を今もなお生かす、唯一のもの。
 より改めて鮮やかにその事実が多々良に迫ってくる。何も知らない者だからこそ真実に近付ける。昔からよくある話だが自分に起きようとは思わなかった。彼らに話せば笑うだろうか。参ったな、と苦笑に近い微笑を浮かべた。
「私もその名前は気に入っているんです」
 彼は本当の名前を知らない。親から贈られたはずのそれは記憶に残っていない。名前も含めて戦禍は多々良の何もかも焼き尽くした。そうである上にそもそも名前にこだわりなどなく、故にいくつも名を持った。曰く、子規。走兎。丈鬼。士清。香雲。漱石。数字でも呼ばれアルファベットでも呼ばれた。無名の彼は呼ばれる名の全てを受け入れた。
 多々良と言う名も拾いものにしか過ぎなかった。それがいまや、百年を超える程の名として彼に馴染んでしまっていた。確かに取るに足らない、大した美も意味も感じられないものだが、彼が今更この名を捨てるつもりなど欠片もなかった。
 屋敷に集う彼らが、多々良と呼び続けたから。
「ありがとうございます。お嬢様」
「お嬢様はいや!」
 久しぶりの元気な我儘だ。しみじみとする余韻の訪れをぶち壊してくれる。
「富子よ、私」
「失礼しました。では、富子様」
「さまもやだ!」
 黙っていれば利発な美少女なのに、こうまで庶民的な反発をされるとは。どこかかの先生を思わせて、多々良はこみ上げるものを堪えるように笑ってしまった。
「では富子さん、ではどうですか」
「ええ。多々良さん」
 裏表の似た者同士、幼すぎる者と長く生き続けている者は呼び方だけでも同じ地平に立てた。多々良の秘密をほんの少し知ったと言うことも考えると、どこか共犯者のような気もする。多々良は知らず薄く微笑んだ。
「あ、一番星」
 綺麗ねえと少女は目を細めた。すっかり機嫌は直ったようだ。多々良も今は気分が良い。
 だからこんなこともしてみせる。
「もっと素敵な星空を、見せてあげましょう」
 褒美としてはいささか大袈裟かも知れないけれど、構わないだろう。多々良はさっと手を振りかざした。そして一秒も置かず、別の空間に二人は誘われる。
 満天の星空の下に、二人はいた。突然の出来事と夢のような光景に、富子は驚きと感動で言葉もないようだった。熱い吐息をついて、多々良の見せる幻に酔い痴れている。
「魔法って」
 瞳はその星々を映したように輝いていた。
「魔法って、素敵ね」
 そんなことはない。多々良は心で返した。今見せているこれは実に嘘つきな魔法だった。本当はこんな美しいものばかりではない。富子が感動するようにすごくもなく、素敵でもない。研究所では兵器的な面から研究してばかりで、誰かの命を奪う戦争の道具でしかない。魔法が使える人口だって決して多くはない。リスクが伴うものもあり、魔力の暴走による被害、幻覚や幻聴などの作用、魔法による後遺症も多数報告されている。最悪、死に至ることもある。文字通り、魔なる力だ。
 多々良自身、自分に何故、一人の人間には手に余り過ぎる魔力を持たされているのかわからない。暴れることも出来ず、放棄することも叶わず、一人生き続けて果てない夢を見続けている。魔法を持たない故に孤独を強いられている少女と全く立場が違うはずなのに、どういう皮肉か同じ結果になっている。
 それでも今は、その少女を夢中にさせることも出来る。
 夢と希望に溢れたものばかりではないのに、魔法があるから少女は堪えきれない悲しみや悔しさを抱えなければいけないのに。そんなもの全てを、けれども今だけは忘れさせてくれる。
 もしこれを彼らに見せたら、どうなるだろうか。魔法の是非を巡ってあの屋敷ではああだこうだと話を繰り広げるだろうか。自分はその時、何と言おうか。
 遠い日々だ。だけど確かにここにある日々だ。星空にそれを浮かべていた自分の目は、どんな眼差しをしていただろう。
 少女はそれを、見ていただろうか。


 喜久井富子との付き合いは、かれこれ十年以上は経っている。普通の人間からすれば長いだろうが、多々良からすればそう長くもない。関係は今も変わらない。彼女が研究者としてこの研究所に属し、上司と部下の関係が追加されたくらいだ。時々理不尽に彼女の不機嫌をぶつけられる的にもなっているのも昔から変わらない。つい今しがたさっそく怒鳴られてしまった。一体何があって、顔をあんなにも赤くしているのか。
 あの頬の赤味が怒りや恥じらい以外の時があることは、既にわかっている。
 ほのかに抱いているらしい好意と言うものにも、気付いていないわけではない。
 しかし多々良自身はそれに価値を見出せなかった。むしろ恋など罪悪でしかない。あの日々が終わってしまったきっかけも色恋に関係するものだった。いっそ軽蔑してもいいくらいのものだ。第一、あの富子と言う少女にそこまで深入りする必要はない。無駄な関係を築いたところで邪魔になる。まして彼女のことは幼児の時代から知っているのだ。そんな感情を抱ける余地などなかった。全て多々良には切り捨てられるべきものだ。まっすぐただ一つの野望に向かって突き進む己には、意味のないもの。
(意味か)
 しかしその到達点の特別な意味を、多々良に改めて示してくれたのは誰だったか。
 かつての夕暮れを、もう彼女の方は覚えていないだろう。
「……先生」
 かつて多々良をそう呼んでいた少女は。
 そこまで考えて、作業の手が止まった。呼び声は、あの日の「多々良さん」と同じく現実から響いている。多々良の表情は、知らず崩れた。三度目だ。この少女に虚を突かれるのは。
「懐かしいですね」
 背を向けていたのがせめてもの幸いだ。
「急に、どうしたんですか」
 十年ぶりかに先生と呼ばれたことに不快感を催したわけではないが、お嬢様と彼女の嫌う呼び名で呼んだのはちょっとした意趣返しも兼ねてであった。案の定彼女はまたまた怒りを露わにする。忙しい少女だ。
「それで、どうしたんですか」
「な、何でもありませんわ。ただ、ちょっと昔のことを思い出しただけで」
 美禰子の居候先の魔法使いが教師だった故だ。その後少し話をしたものの、呼び名を変えた夕暮れのことを切り出す必要はなかった。覚えていようがいまいが、あの日々のことを唯一知る少女は、その点でのみ少し意味を持ってもいいのではないか。多々良は少しだけそう思えた。
 そもそも富子の姿勢には一定の価値がある。彼女は強く気高く、そして孤独であり続け、今やストレイシーププロジェクトの主要メンバーにまでなっている。相変わらず魔法は使えず、魔力もないが、この計画でいよいよ彼女は魔法を手にすることが出来るかも知れない。
 そして多々良もまた、本当に一番欲していたものに手が届くだろう。
(その為には)
 Fに降りている夏目坂美禰子の魔力を早急に高めなければなるまい。少し手荒な真似に出てもいいだろうか。計画を練り始めた多々良の不敵な微笑は心中に留まるのみで、表情に出ることはなかった。


第二章 せんせいのまほう(了)

第三章 ゆめみるまほうにつづく

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