「富子さん?」
 不思議なこともあるものだ。回想の中の多々良さんは星を見たまま動かないのに、声だけが掛かるなんて。
「富子さん? あのう?」
 姿もそうならば声だってこの人は全く変わらない。低すぎず高すぎない、控えめなテノールの声。この声が優しく語る中で眠りに就けたら夢も見ずぐっすり眠れそうだ。最近寝不足だったから、ちょうどいいかも知れない。
「富子さん。寝ているのですか?」
 寝てなんかいない。回想に耽っているだけですわ。ところで今聞こえるこの多々良さんの声はどこから発せられている? 誰が発している?
「って」
 瞬時に焦りが冷気になって体中を駆け巡る。椅子からがたん! と勢いよく立ち上がって勢いよく左を振り返れば、多々良さんがいる。回想の中でも現在でも変わらない姿形の生身の彼が。
 冷たい焦りは瞬く間に業火となる。
「ななななな! なあ! ななな!」
「な、が八つ……なぞなぞですか?」
「ちちち違いますわっ! な、何で多々良さんがここにいらっしゃるんですの! 何で何で何で!」
「そう言われましても、仕事場ですから」
 驚異のスピードで後ずさりしてちょっと机や機材にぶつかりかけてしまう。そんな滑稽極まりない私に多々良さんは笑いを隠さなかった。笑わないでちょうだいな! と金切り声を上げる私は一体どれだけ顔を赤くしているかしら。指先さえも真っ赤だ。怒りやら恥ずかしさやらで染まりきっている。
「一体どうなさったんですか」
「な、何でもありませんわ!」
 ぷいっと顔を背けた。ややあってちら、と目を向ければ、あくまで私の不覚だったと言うのに、理不尽な苛立ちを向けられた多々良さんはやれやれと肩を落としながら仕事を始める。子供の頃にもあった光景だ。数えきれないくらい。今でも続いている。毎日と言う程ではないけれど、今の様子が珍しくないのだから、しょっちゅうだ。
 少し時間が経って、息をつく。近くの椅子に座って、ようやく落ち着けた。
 多々良さんとの付き合いも随分長い。家族のようにべったりとはいかないけれど、少なくとも十年近くは親交がある。今や仕事仲間で、私が上司で彼が部下だなんて、あの頃の私が知ったらどう思うだろう。先生なのに、先生じゃないの? 無邪気にそう訊くだろうか。
 私の気持ちに気付いた素振りは見せない。
 彼のことだから察してはいるのだろう。外見は穏やかでそういった方面は疎そうに見えるけど、決して鈍くはない。けれど何もしてこないと言うのはつまり、興味が無いと言うことだろう。私から動けば何か違うかも知れないけれど、今は計画の方が優先されるし、私だって優先する。
 私が憧れた魔法を、本当の意味でこの手にする為に。
 友達と呼べた少女を一人、犠牲にして。
(多々良さんは)
 頭を振った。美禰子のことは考えない。辛くなるか、怒りが湧くかのどちらかだ。ただ苦しいだけだ。複雑な気持ちは身動きが取れないほど持て余してしまう。
(覚えていないかも知れないわね)
 視線をつ、と向ける。自分の先生について話したことも、私に星空を見せてくれたことも、彼は忘れているだろう。かなり昔の話なのだから。
 静かに作業を進める彼の背中は昔と変わらない。だから誤解してしまいそう。何もかも覚えていると。
(多々良さん)
 私が、こう呼んでいたことも。
「……先生」
 小さな声のつもりが、結構はっきり聞こえた。驚きはしたけれど、それでも失言を隠すように口を覆ったりはしない。第一私には大きく聞こえても、多々良さんには聞こえなかったかも知れないのだし。
 案の定、彼は作業を続けている。つまらないことやっていないで、私も仕事に戻ろうとした時だ。
 その白い背中の動きが、少し止まる。
「懐かしいですね」
 今度は私の方が背中で言葉を受け止めていた。言葉の意味が、けれどもすぐには通じなかった。
「急に、どうしたんですか」
 理解して、震えるように振り返った。多々良さんはこちらを向いて、小首を傾げて微笑した。お嬢様、と添えるように呼ぶ彼は微笑を小憎たらしい笑みに変えた。
「って! 富子です富子!」
「はいはい富子さん」
「はいは一回っ!」
 多分わざとやったのだ。私は多々良さんのことをもう先生となんて呼ばないのに、この人は今でもたまに「お嬢様」と呼ぶ。
「それで、どうしたんですか」
「な、何でもありませんわ。ただ、ちょっと昔のことを思い出しただけで」
 美禰子の居候先の住人が教師だったから、と言うところから話が広がっていく。関係ない、あくまでFの人間であった方の魔力が二人とも上がって美禰子の魔力はまずまずの成長率、これでは目標を下回るかも知れない等々、話を進める私達はもう先生とお嬢様ではなく、同じ計画に携わる研究員だ。そこに私情は挟めない。それはわかっている。
 でも、頭の隅でこっそり思う。
(どこまで、あなたは覚えているのかしら)
 ずっとずっとここにいる人だから、希望を抱いてしまいたくなる。多分報われない。私を異性として見る素振りも、あなたは一つも見せてくれないのだから。
(でも、それでも)
 全てを覚えていて欲しい。
 あの日の星空の下の私とあなたが、あなたの目の奥にも生きていたら。
 幻ではなく、確かな光景として。
 なんてわがままだろう。なんて欲深いのだろう。呆れて私は密かに微笑むけれど、悪い気持ちはしなかった。あの頃の煌めきに眩暈や疲れを感じることもなかった。性格も体つきもすっかり変わってしまったのに、その頃の魔法への想いや憧れだっていつしか黒く汚されて、衰えていったのに。
 すぐ傍に、いつまでも変わらない多々良さんがいるからかも知れなかった。
 いつまでも変わらない、年齢不詳の私の好きな人が、いるからかも知れなかった。

  
せんせいのまほう 間章・裏につづく

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