その日、私は研究所の裏庭のベンチに膝を抱えて座っていた。
「お嬢様。どうしたんですか」
 魔力がない欠陥とは言え、一応喜久井家の令嬢だ。時刻は日没迫る頃。誰もつけずに一人でいるところ、誘拐犯にでも狙われたら危ない。そんな心配をしてくれたのかどうか、多々良さんは私のもとにやってきた。
 私は何も喋らず、身動きもしなかった。多々良さんの方も何も言わず、隣に腰掛ける。自分の膝とにらめっこしていたから、その時彼がどんな表情でいたか、よくわからない。
「いじめられでもしたんですか」
 答えない。
「魔法が使えないことが、つらいんですか」
 随分はっきりと聞いてくる。頷くことはせず、膝に顔を埋めた。
 先生になんか、私の気持ちがわかるものか。
 彼は無理に間を埋めることなく、沈黙を選んだ。何を喋ればいいのかわからなかったのではなく、何も話さないのがいいのだと判断したのだろう。沈黙に耐えかねた方から口火を切ればそれでいい。そう狙っていたのかも知れない。膝に顔を埋めるのにも飽きてきた私は、隣の彼の横顔をちらりと見上げた。いつも浮かべている心の知れない微笑はなく、無表情に近い厳しい表情がそこにはあった。何を考えているのだろう。
 魔法が使える人は、どんな風に世界を見るのだろう。
「ねえ」
 今同じ状況にいても、そう思う。確実に。
「先生には、魔法の先生はいたの?」
 だから私がその質問を口にするのは至極当然なことだった。彼に魔法を導いたのは誰か。魔法を教えてくれたのは。
 私を見下ろした彼は、しばらく間を置いて薄く微笑した。
「いませんでしたよ」
 返ってきたのはそんな意外な答えだった。え? と、言葉の意味が通じず、最初は首を傾げた。彼はふふと笑う。
「私は最初から、いろいろなことが出来るんです。一人でね」
 へえ、と少女の私は目を丸くする。
「先生、すごい」
 語彙が足りなくて幼稚な返事になってしまった。それでも大きな驚きが心を打っていた。と同時に、一気に彼が遠い人のように見えた。最初から何でも出来る魔法使いと何も出来ないただの人間では、まるっきりカードの表裏じゃないか。
「でも、魔法使いじゃない先生はいましたよ」
 不意に湧き出た孤独に体中が染まりかけた時、彼の言葉が滑り込む。
「がっこう、の、先生?」
「学校の先生とは、言えるんでしょうけどね。教わっていたわけじゃないですよ」
 魔法の師匠でもなく、教えてもらっていた学校の先生でもないのにどうして先生と呼べるの。いつもだったら矢継早に訊いていた。でもその時は彼の言葉に静かに耳を傾けた。もう膝を抱えておらず、きちんとベンチに腰かけて。
「私にとっては彼が先生でした。ある人が、先生と呼んでいましたので」
 ふうん、と少し微笑むことが出来るくらいに気持ちは回復していた。遠くに思えた多々良さんの目が、然程遠くに向かっているようには見えなかったからだ。今ここには無いけれど、思い出は今でも生き続けている。それは思い出せばすぐ目の前に甦るもので、生き生きとしている。だから回想する多々良さんも決して枯れてなどいなくて、子供のように嬉しそうで、楽しそうだったのだ。
「どんなひと、だったの?」
「偏屈な人です」
「へんくつ?」
 彼がそうなるくらいだから、その先生と言う方はさぞかし立派で尊敬出来る、そして心温まる人だと思っていたのに。意外な返しにきょとんと目を瞬かせた。「偏屈」と言う言葉がまだよくわからなかったのかも知れない。そうですよと多々良さんは笑う。
「怒りっぽくて、胃が悪くて、ノイローゼ気味でいつも具合の悪い顔をしていて」
「まあ」
「柔軟な考えなんてまるで出来なくて、いつも皆やご家族から笑われて、また怒って」
「いそがしいひとね」
「それなのに新しいもの好きでいろいろ試してみてはすぐに飽きたり、文句を言ったりして、珍しいものにはすぐ飛びついて、痛い目見て」
「なんだか、だらしのないひと」
 これのどこが「先生」たる者なのだろう? 私はただ呆れるしかなかった。それにしても、今こうやって思い返してみると、未来の、つまり今の私のようだった。自分が似たような人間になるなんて、予想も何もしていなかった。
「そんな人でしたけど、私のたった一人の先生です」
 たったひとり。
 心の内で密かに復唱する。
「先生、と呼んでいた人ですね」
 心の声を聞いたのか、注釈のように言って、またふんわり笑んだ。
 たったひとり。私はまた、同じように心で繰り返す。
 そして次に、私はこう言った。
「多々良さん」
 初めて名前で、彼を呼んだ気がする。おや? と彼は片目を丸くする。
「どうしました? 先生とは呼ばないんですか」
 気に入ってたようですのに。双方に、ちょっと皮肉に聞こえるように微笑して言ったけれどええ、と私は首を振った。
「あのね」
 彼の目をまっすぐ見上げる。オニキスのような漆黒の瞳。じっと言葉を待つ。
「多々良さんの先生は、たったひとり、でしょう?」
 彼の目が瞬いた。同時に微笑が、少し崩れた。まさに虚を突かれたように。
 初めて彼を「先生」と呼んだ時に見せた、あの表情に近かった。
「私が呼んだら、先生が二人になっちゃうわ」
 私が呼びたいのは、多々良さんだけだ。彼の過去も気になるし、知りたいけれど、あくまで私が今呼びかけ、話をしたい、その横顔を見ていたいと思うのは、彼だけだ。多々良さん。多くの人がそう呼ぶのに、まるで自分のものに出来たかのような気持ちにもなる。
 その想いが届いたわけではないだろう。けれど彼は優しく笑った。
「私もその「名前」は気に入っているんです」
 その名前。まるで自分のものではないように言う。彼の本当の名前は、もしかすると彼さえも知らないのだとしたら。いえ、今はいい。
「ありがとうございます。お嬢様」
「お嬢様はいや!」
 言葉の余韻をぶち壊すような殴り込みの声。今と大体変わらない。多々良さんの眼鏡がずれた気がする。
「富子よ、私」
「失礼しました。では、富子様」
「さまもやだ!」
 またしても殴り込む。やだ、だなんて、愛しい人の言葉をそんな突き飛ばすこともないだろう。さすがの多々良さんも苦笑いしていたような。でも私の駄々っ子な様子はつぼにでも入ったか、わかりました、とくつくつ笑っていた。
「では富子さん、ではどうですか」
「ええ。多々良さん」
 多々良さんと同じ「さん」付けだ。同じ視点に立てた感じがして嬉しさが満ち満ちた。気分が良くなって空を見上げたら、すっかり夕暮れが深まっていてもう東の空は藍色を見せている。でも西の空はまだ少し茜が燃えていて、徐々に藍を見せていく中にきらりと光るものも見える。
「あ、一番星」
 綺麗ねえと目を細ませていると多々良さんも見上げてくれた。
「すっかりご機嫌がよくなりましたね」
「あら、ばかにしているの?」
 むうと唇を尖らせた。勿論ポーズなだけ。冗談ですよと彼も笑った。見上げるものはその一番星しかないけれど、心地良い沈黙だった。もっと多々良さんの話を聞きたい、そう思わなくもなかったけど、彼と共にいる静寂を選んだ。ほんのり伝わる彼の熱を感じていたかった。
「富子さん」
 名前で呼ばれるのは嬉しいけれど、くすぐったくもある。なあに? と照れがばれないように澄ました顔で返す。
「もっと素敵な星空を、見せてあげましょう」
「え?」
 首を傾げる間もなかった。既に彼は腰を上げ、さあっと宙に手を翳し、指揮者のように動かした。すると、どうだろう。
「わ、あ」
 音もなく辺り一面が夜に変わる。見上げれば群青の空には、見たこともないような幾千の星が煌いている。目が丸ければ口も開けっ放し。突然のことに胸が熱くなって、頭の中にははてなが飛び交う。
「すごい……これ、魔法ですの? 多々良さんの?」
「ええ」
 魔法以外にこんなことが出来るわけがない。でも思えば、多々良さんの魔法を見るのはその時が初めてだったのだ。深呼吸してちかちか輝く星を眺めた。本物の星ではないことはわかっている。これは幻を見せる類の魔法だ。それなのに、空の濃さも夜気の冷たさも何もかもがリアルだった。
 それに加えて、術者と私だけにこれを見せているとして、一定の空間をまるごと夜に変えているのか、それとも空間を現実から切り離して別の空間に持ち出しているのか……ともかく並大抵の魔法ではないことも同時にわかっていた。使えないからこそ、焦がれているからこそ、私は知識を貪欲に得ていた。だからどんなものか判断し得る。
 多々良さんの計らいか、星が徐々に回転を始める。学術書の写真そのもののような日周運動を実際に見れるなんて。
「魔法って……」
 深く、熱いため息をついた。
「魔法って、すてきね」
 それまでの魔法は、手の届かないものだった。私が手に入れられない幻。私に孤独を強いるもの。私には与えられなかった才能と栄光。苦しさと切なさと寂しさと、そして悲しみだけしか齎さないものだった。喉から手が出る程欲しかったものなのに、与えられないが故に、それはどこまでも私に冷たく見えた。物語に描かれる夢に溢れた魔法使い、魔法を掛けられて救われ、夢を見る人々を見て、こんなのは嘘だと、そう感じていた。感じる度に、心に悲しみの石を一つ乗せていった。
 それに、私が研究所でよく見ていた魔法は、常に兵器的な面を重視したどこか恐ろしいものだった。殺戮の為に発動され、いかに破壊を効率よく実行出来るかのみを目的として磨き上げられるもの。実際の戦場で使われたら、どれだけ血腥いものに見舞われるだろう。幻想が語る煌きと輝きに溢れるような魔法を、研究所のみ見ていたら私はついぞ知ることは出来なかったかも知れない。
 でも違う。魔法は恐ろしいだけのものじゃなかった。孤独を強いるだけのものでもなかった。
 綺麗だと感動することが出来る。素敵だと楽しむことが出来る。私もやってみたいと、夢を見させてくれる。人を呪わすものではない夢を、人を縛りつけるものではない希望を与えてくれる。
 紛れもなく偉大なもの。尊いもの。
 言葉をなくして見惚れてしまう程に、美しいもの。
 私はこの時、初めて純粋な意味で魔法と言うものに憧れた。悲しみもない。悔しさもない。怒りもない。
 切なくなるくらいに、そこにはただ、愛しさだけがあった。
 いつか、いつの日か私も、こんな風に誰かを喜ばせたい。今思い返せばまるで嘘のような気持ちを、嘘ではなく本当に思っていた。
 そして、もう一つ。
 多々良さん。心で呼びながらこっそり見上げた。微笑は保たれたままだ。外向きの仮面をつけたままだったのだろうけど、眼差しは少し遠かった。「先生」について語っていた時でさえ、それほど遠くなかったのに。
 でもよかった。こちらを向いてしまえば、気持ちに気付かれたかも知れないから。
 そう。
(多々良さん)
 回想する私が呼びかけても、勿論、こちらを見ない。
(この時、私は、私はね)
 幼児の頃の勘違いだと人は笑うだろうか。でも、笑いたければ、どうぞ笑って。
 いつかこの人みたいに、こんな素敵な魔法を使えたら。
 いつかこの人と、同じ場所で、同じものを見られたら。
 だから、魔法を使いたい。私にも、多々良さんと同じ魔力が欲しい。
 幼い私は、それらの気持ちを一言で言い当てた。
(多々良さん)
 この時私は、あなたのことを。
(初めて、好きになったのよ)

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