美禰子はごちそうさまでしたともう一度言うとすぐさま表へ駆け出した。俺も飛び出し、坊っちゃんも、何故か清さんも続いた。
 表へ出てすぐ右に曲がると、生垣の茂みに隠れるように、奴はいた。少し踊り出るようにして姿を露わにしたところで、俺は月明かりが存外に明るいことに気付く。踊り出た割には大人しく様子を伺っている羊に美禰子はにやりと笑った。
「よし、楽に捕まえられそうっ」
 動かないで、動かないで、と囁きながらじりじりと間合いを詰めていく。
「まあ、可愛らしいぬいぐるみですねえ」
 緊張しているのは俺と美禰子だけで、坊っちゃんは煙草をふかしながら、清さんは羊をじっと見ながら感心している。二人を見やっているうちに、美禰子は杖を振りかざしていた。
「ええーいっ、もらったあ!」
 しかし、網が振り下ろされたその瞬間、羊は消えた。消えた、と思わせる程の俊敏な「逃げ」を選んだのだ。美禰子はあ、と漏らしながら呆然としていた。あまりに速かったのか、生垣の葉が少し散っている。よくあることだな、と坊っちゃんがぼやいた。少年の頃の虫捕りでも思い出したんだろう。
「右に逃げた、行くぞ」
「うん」
 俺の誘導に、しかし美禰子は気丈だった。当然だ。思いっきり失敗した様を見せてしまったとは言え、これくらいでへこたれる美禰子じゃない。
 羊が逃げたのは開けた場所だった。月明かりが、やけに明るくて幻想的な、それはまるで舞台だった。
 そう、舞台。
「わ……あ」
 何匹もの羊が、眠りを誘うように飛んだり、跳ねたり、踊っているのだから。
 まるで、安らかな眠りの前に語られる物語の、挿絵の一枚。柔らかで清らかで、それでいて暖かな月光の降りる、どこか懐かしい風景。
「おお、これはすごいな」
 坊っちゃんも清さんも見に来て共に目を丸くしている。
「まだまだ、こんなにいたのか?」
「さあ……全部で何匹いるかは、私も知らないんだけど」
 こいつら、もしかして今の今まで、わざと美禰子の近くを避けて、平和に暮らしていたのだろうか。そう思うくらいの羊の大群は、柔らかな月明かりに照らされていると言うのにどこか恐ろしい。幻想を通り越してもはや狂想だ。羊の一匹一匹が音符で、美禰子を置き去りにして長閑に奏でられるカプリチオ。近付けばきっと歌声だって聴こえてくるだろう。ステップを踏むように動いている羊だっているのだから。
「知らないんだけど、でもっ」
 もおっ! とどこか気色ばんだ声を上げる美禰子。
「それにしたっていっぱいい過ぎだよっ!」
 ぷんすか! とばかりに天高く杖を上げた。それが彼女の気合の入れ方だったのか、美禰子は数に驚きこそすれ、やはりへこたれてなどいなかった。
「いっくよー!」
 杖をぐっと握りしめがむしゃらに突き進んで、網を振り回す光景はまるで戦国の馬上の武将。しかし格好良くそう形容しても、羊はすばしっこく、一匹も捕まらない。美禰子を嘲笑ってはおいかけっこを続けようとする。美禰子はだから、哀れだった。敗兵のようだった。見てるこっちも苦笑いしてしまうくらいに。
「うぐぐ、収拾がつかないい……」
 ぐったりと杖を支えに肩を落とす。一匹も捕まえられてないのだからモチベーション下がりまくりだ。
「どうする? 何だったら魔法で誘導して、一ヵ所に集めたり、袋小路に追い込んだりした方がいいんじゃないか?」
「そうしたいけど、ほら」
 一応民家の付近だし? と目尻で示す。いつも結界を張ってくれるワガハイは留守番として家にいる。私も出来ないことはないんだけどさ、と言うが美禰子にばっかり負担を押し付けるのも決まりが悪い。
「人気もないけど、万が一ってこともあるしな」
「でもこれだけいたんじゃ、どっちにしろ時間の問題だよね……」
 可愛いのにっと口を尖らせ、やがて苦笑する。でも間を置かずに引き締まる横顔。使命に燃える美禰子も、俺をときめかせるものだった。
 そしてそれは羊にとってもそうなのだろう。
「うみゅ?」
 張りつめていたはずの美禰子は目を瞬かせる。てとてとてと、と寄ってくるのは羊の妖精の輪から抜け出した一匹だった。くりくりしたつぶらな、三日月の浮かぶ目で美禰子を見つめた。
「な、なになに」
 どうしたの、としゃがむ。その愛らしさに惹かれてか、それともその眼差しに伴侶を感じてか、心なしか美禰子は頬を上気させていた。俺は固唾を飲めばいいのか、同じようにほんわかと頬を緩めればいいのか、それともぽかんとしていればいいのか。
「お、おいでおいで」
 今がチャンス、と野良猫をおびき寄せるように手を伸ばす。ちちち、と音も鳴らす。だが羊は動かない。視線だけが言葉とばかりに、見つめ続ける。
「ああっ」
 たたたっとその羊は興味なし、とばかりにか去って行った。最高に面白くない、と口をへの字に曲げる美禰子。そりゃそうだ、夫の分身にあんな風に袖にされれば。しかし羊は少し立ち止まって美禰子を見やる。その仕草に俺達は顔を見合わせた。
「もしかして、呼んでるんじゃないか」
「えへへ。パーティのお誘いかなっ」
「そんな暢気なもんじゃないだろ」
 可愛さとドリーミーな光景故にそう思いたくなる気持ちはわかるけど、相手は魔法を使う羊で、こんなにも密集してるのだ。と俺は再び集団に目を向ける。
 見えたものに、何とも言えない嫌な予感がすうっと背筋を通った。瞬きが、一度。
「さん、しろう」
 美禰子も一度。坊っちゃんはどうだろう。清さんは。
「文字通り密集してる」
 みちっと、と美禰子は力なく付け加えた。
 そう、美禰子の言う通り、あちこちに分散していた羊達が隙間なく集まっていたのだ。ぎゅうぎゅうと、まるで押しくらまんじゅうでもするように。別に俺達は魔法を使って羊達を熱くさせたり、あるいは寒くさせたわけでもない。あいつらはただ気ままに踊っていただけだ。
 それがどうだ。羊はもはや巨大な毛玉になって、ぐわぐわと蠢いている。その集団に、美禰子に意味ありげな視線を投げてから、例の一匹が戻っていく。
 清さんと坊っちゃんを後ろに置いた俺達は、ストレイシープ達がどんどん、個体の境界を曖昧にしていくその様子を、なすすべなく固唾を飲んで見守っていた。見守っている場合ではなかったのに。
「ってえ! 何か、何か変だよ!」
 見ればわかるけど! と美禰子が慌てた時にはもう遅かった。言い終わるか終わらないかの内に、羊の塊から灰色の煙が勢いよく噴き出されたのだった。体全体を守るように目をぎゅっと閉じてしまう。生ぬるい煙風は髪、耳たぶ、服の繊維をかまいたちがするように裂いて駆けていく――そんな錯覚を起こさせた。
 そして目を開けた時、そこに待っていた現実は。
「な……なんだ、ありゃ」
 今まで過ごしていた非日常の上に、更に非日常を重ねていた。
 子供の頃、テレビか何かで見かけた遊園地にあった、あのアトラクションはなんて言うのだろう。実際に遊んだことは無い。連れて行ってもらった覚えなんかないのだから。でも、確か中はトランポリンのように、どこもかしこも跳ねられる構造になっていたはずだ。外見もぶよぶよしていて、不安定に揺れる、巨大な起き上がりこぼしのように見えるもの。そう、巨大な。
 現実は――過去からそのアトラクションを持ってきていた。
 何の郷愁も起こさせない。これだったら坊っちゃんのぼろ家の方がよっぽどいい。
 巨大な巨大な風船のように膨らんだストレイシープが、眼前にのっそりとそびえ立っていた。
「巨大化……?」
 坊っちゃんが驚いた。清さんもあら、と言う風に口をぽかんと開けて言葉は無い。滅多に驚かない坊っちゃんがそうなのだから当然、俺も美禰子も目を点にしてその異常を眺めていた。

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