(清さん、結婚されてたけど、もしかしたら早くに旦那さんが亡くなったのかも知れない)
 子供も、もしかしたらいないのかも知れない。松山家と何かしらの縁があって家政婦として雇ってもらって、末っ子でお母さんのいなかった坊っちゃんに特に目をかけた。それこそ本当の親子みたいに坊っちゃんも懐いた。
 そんな坊っちゃんに、清さんと一緒に暮らしたいって言う気持ちが生まれたのはそうおかしな話じゃない気がする。親の老後のことを考えて一緒に暮らすって言うのはよくある話だ。今は単に家政婦や女中さんとして置いているようにしか見えないけど、清さんは多分自分から坊っちゃんの身の回りの世話をしたいと願い出たんだろう。まあ、それがどうしてこんなぼろい家で暮らしているのかはわからないけど。
(旦那さんが亡くなっている、と仮定すれば)
 一応、噂と辻褄は「ちょっと」合うことになる。でもこのちょっとがミソだ。噂と言うものはいわば伝言ゲームみたいなもので、伝わっていく途中から、省略されたり、誇張されたり、事実とまるきり違った情報や、事実と微妙に合っているけど違っている情報なんかが、さも本物のフリをしてどんどん加えられていく。最初から悪意を持って事実と全く違う情報を流すこともよくある。当然、悪意がある分、そっちの方が悪質だし、そう言うことの方が世の中にはよくある。
 今回の噂の主題は「ある男から奪った人」と「同棲している」と言う内容だった。
(昔からお世話になっている清さんと一緒に住んでるってことが、悪質な尾ひれがついて広まってっただけ?)
 だよな。俺は自分に頷く。
(そう、だよな)
「三四郎? 推測だけど、何?」
 美禰子を放置してしまっていた。ごめんと慌てつつ、元彼とどうのこうのあった、と話しているから、その辺は適当に誤魔化してそれを伝えるとうんうん、と頷いた。
「きっとそうだよ、そう!」
「だよなだよな」
 誰かにそう言ってもらえるとほっとする。なあんだ、と美禰子も安心したように笑うけれど、俺の方は多分より深い安堵が広がっていた。
「大体、あの坊っちゃんがいざこざ起こしたり、こじれるようなことするとは、私思えないんだよね」
 面倒くさそうなこと嫌いそうじゃん? と美禰子は微笑む。確かに、と俺も苦笑して頷くけど、美禰子には隠している、今日見たあの悲しげな表情がふっと頭をよぎる。まだ少し気になるけど、いいやと心中で首を振った。
(あれはたまたまだ。鋼メンタルの持ち主の坊っちゃんでさえも、さすがに傷付いたってことだ)
 いや、メンタルが強いと言うよりはただ単に神経が図太いだけなのかも知れないけれど。本当の親のように慕っている清さんのことをそんな風に誤解されたのもショックだった、と言う見方もある。むしろそっちの方が理由としてずっと信憑性があった。
 ともあれこれで、一応は一件落着だ。噂を流したのは誰かと言う問題はまだあるけれど、そこまで突っ込むのに、今日はもうくたびれ過ぎていた。はあ、と深く息をついた。その効果音でもあるかのように、ぐうと腹が鳴る。
「何かほっとしたら腹減ってきたや」
「って、さっきご飯食べたばっかりじゃん」
「気分が沈んでる時に食ったから食べたって感じがしないんだよ」
「あらあら、じゃあちょうどよろしかったですわ」
 と言いながら清さんはお盆を持って戻ってきた。盆の上には坊っちゃんのご飯とお味噌汁、おかずであろう肉じゃがが載せられている。目で確認する前からその香ばしい香りは既にキャッチ済み。腹が鳴った理由は安心よりもこっちにある。
「空腹でいらっしゃるんなら、三四郎さんと美禰子さんも良かったらご一緒にいかがですか」
「えっ、私も!」
 嬉しい! 食べます! と手を挙げる。飛び上がらんばかりに。
「お前こそさっき食ったばっかりじゃんかよ」
「ここまで来るのでお腹空いたのー」
「燃費わるっ」
 なにさーと口を尖らせる美禰子にぷっと笑うとますます空腹が体中に広がる。
「おい清、茶を出してやったんだ。何もそこまでしなくていいぞ。世話になってるって言っても所詮招かれざる客なんだから」
 ぬっと俺と美禰子の間に割って入る坊っちゃん。いつの間に戻ってきたのやら。心なしかちょっとだけ膨れ面だ。世話になってるとはどういうことだろう。
「この家には俺と清しかいないんだ。お前らに分けてやる米も食料もない」
「まあそんなこと仰って」
 いけませんよと嗜める図も本当に母と息子だ。普段から子供っぽいところのある坊っちゃんがますます子供に見えた。ちえ、と舌まで出してるし。何か可愛いの、とにやにやしてしまう。
 清さんはてきぱきちゃぶ台の食卓にご飯を並べていく。隙間のない、ぎゅうぎゅうの食卓は、きっと二人が食事するのにちょうどいい広さなんだろう。なんかご馳走みたいでわくわくする、と美禰子は心を弾ませていた。ただの肉じゃがですよと謙遜する清さんだけど、香りだけでなく見た目も生唾が湧くくらい美味しそうだ。
 小さめの椀に盛られた、肉と脂身の比率が見事な牛肉、宝石のような輝きとつやを持つじゃがいも、それぞれの色がアクセントとして映える人参やグリーンピース、絹糸のような糸こんにゃく、脂分が揺らめくつゆ、何として劣り欠けているものは無い。脇上がる唾液はただ邪魔なだけだ。ごくりと飲み込み一口頬張る。
 いただきますと綺麗な号令、そして合掌。誰かが作ってくれたものを食べるのは、美禰子や外食以外では随分久しぶりだった。
「おいっしー!」
 美禰子、一口食べて第一声。俺も何度も頷く。
「うん! 美味い!」
 これぞ至極の一品! 白ご飯、味噌汁、肉じゃがのうま味は休む暇も容赦も与えず俺と美禰子に食の快楽を与えたのだった。どんな料理漫画の気難しい批評家だって黙っちゃいないぞ、これは。
「うううんっ、一口食べるごとに幸せハピネス!」
「まあまあ大袈裟ですこと。でも嬉しいですわ」
「いや、本当に幸せですよ」
「うんうん。これがまさしく『ご飯』だよねえ。理想形っ!」
 はああ、と頬を上気させて至福の息をつく美禰子。あらあら、と清さんも嬉しそうに頬を包んだ。
「美禰子さんったら、お世辞はいけませんよ」
「いやいや、お世辞だなんて。こんなに美味しくて家庭的な肉じゃがは初めてです」
「こっちに来て初めてこんな美味しいもの食べましたよっ」
 その通り、美禰子も俺と同じで、俺が作るもの、外食、インスタント以外の食事はこれが初めてだ。こんな素晴らしいものを食べてしまってはこれから食べる他の食事がいっそ可哀想なくらい。
「こんなにお褒めの言葉を頂くのも、大勢で食べるのも、もう何年ぶりになりますかねえ」
 やはり褒められると人は嬉しくなるもので、すっかり上機嫌といった様子の清さんは肌を上気させながら坊っちゃんの言葉を求めた。坊っちゃんは黙々と食べていると思ったが、やけに恨めしそうな顔でこっちを見ている。
「おかわりもありますから、どんどん召し上がってくださいね」
「じゃあじゃあ早速、おっかわりー!」
「ちょっと待て」
 遠慮なくお椀を差し出す美禰子の前に苦々しい顔の坊っちゃんが割り込んだ。
「さっきも言ったがこれは俺と清の食事だっ、大体客の身分でおかわりなんか求めるかっ」
「なによう坊っちゃん、さては清さん取られて悔しいんだっ」
 俺に言ったことと似ていたそれは、図星だったのだろう。ああ! と声を上げる美禰子。お椀を坊っちゃんが奪っていったのだ。ふふんと勝気に笑う。なんと大人げない。
「清、やらんでいいからな」
 清さんは本当に可笑しそうにくすくす笑っている。そんなに意地悪しなくてもいいじゃありませんか、と拗ねる子供をあやす母親のように、坊っちゃんの肩を優しく叩いていた。
 おそらく、俺達の絶賛の嵐の所為だろう。普段食べている坊っちゃんからすれば当たり前の清さんの食事だが、その真の価値は俺達が来ることによって見出されたのだ。それを永遠に自分のものにしようと、決して奪われまいとする坊っちゃんは本当にただの子供で、可笑しくて可愛かった。俺も思わず笑ってしまった。
 結局、美禰子と坊っちゃんと俺と清さんとで、鍋が空っぽになるまで食べ尽くしてしまった。

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