後光を背負った老婦人を、俺はしげしげと眺めていた。割烹着を着、和服を身につけている老婦人は一瞬だけ怪訝な目つきで俺達を見ていたが、しばらくすると何かを理解したように、柔和な表情で微笑んだ。その後光と微笑みで、俺の緊張はだいぶ和らいだ。
 ちょいちょい、と袖を引っ張られる。美禰子だ。
(坊っちゃんて、こういう女の人がシュミなのかな)
 何、と小声で問うまでもない。ひそひそ声ながらも美禰子の大胆な発言にうぐ、と口が閉じる。いわゆる熟女? 的な? と美禰子は顎を引っ込ませて考え込む。
(いや……まさかそんなことはないだろ)
 どう見ても坊っちゃんのお母さんか、はたまたお祖母さん世代の女性だ。こんなこと思うのも悪いけど、熟女の熟がとっくの昔に萎れているくらいじゃないか。正直ドン引きだ。
(えーでも、わかんないよー?)
(そ、そんなこと言ったらお前のとこの健三さんはどうなんだよ)
 今度は美禰子が言葉に詰まる。俺自身にも微妙に響く言葉だった。
(それ、遠回しに私が幼児体型って馬鹿にしてるっ?)
(してねーよっ)
 俺の心境など知るところではない美禰子の怒りポイントは見事に逸れまくる。よっぽど気にしているのだろう。
「おい、どうしたさっきから。俺達に黙ってこそこそして」
 解せぬとばかりに眉を反らし、腕を組んで坊っちゃんは俺達を見下ろすような形で立っている。ああそうだった、盗み聞きしているところを見つかってしまったのだった。怪しいことこの上なく、ひそひそ話なんかしてる場合じゃなかった。俺と美禰子、あわわと二人して姿勢を正す。坊っちゃんはぷ、と困った様子で笑った。
「勉強、何かわからんところでもあったか?」
 先生らしい言葉だった。もっと他に言うことがありそうなのに、こんな事態でもマイペースだ。
「それとも何だ? ストレイシープの反応でもあったのか?」
 忘れかけていたけど一応その疑いを探る意味合いもあったのだ。だけど上手く言葉に出来なくていやあそのあのえっと、と二人して濁しまくっていると、坊っちゃんが俺と目を合わせて、何を思ったかちょいちょいと手招きする。怪訝に思いつつも近付いてみた。
(もしかして)
 小声でそう切り出されて続く言葉。
(なんだ? デートかあ?)
(ちっ!)
 ちがっ! と思わず大きな声で出てしまう。美禰子と老婦人はきょとんとお互いに首を傾げていた。ああ、大体こんな風にからかわれると十分予想出来たはずなのに。変な時に鈍る自分の勘を恨んだ。まあそうだわなあ、と不良教師は浮かれるように口笛さえ吹いている。
「こんなとこ連れて来るなんて、シケてんよなあ」
 そのシケてる所に住んでるのはあんただろうが! 本当のこと言ったろか! と爆発したくなる気持ちをぐっと堪えた。でも悔しいから、からかうなっと一言だけ放っておく。負け台詞みたいで余計悔しい。
「坊っちゃん、あの」
 この方達は、と老婦人が控えめな声を立てた。年輪を重ねた、しっとりとして品のある声。ああと坊っちゃんは咳払いをして身を引く。
「清、心配することはない。こいつらは例の、俺の教え子だ。女の方は違うけどな」
 まあそうですかと清と呼ばれた老婦人は完全に不審を取り除いて笑った。例の、と言う部分がちょっと引っ掛かる。
「ま、そんな所にいつまでも立ってるのもあれだ。中に入れ」
 せっかくだし茶くらい出してやると玄関の方を指し、飯時だったんだとぼやくように続けた。俺と美禰子は目を見合わせて、とりあえず向かうことにした。
「何か、聞いてた話と違うっぽい?」
「あの人、誰なんだろう」
「坊っちゃんのお祖母ちゃんかなあ」
「でもお祖母さんを清って呼び捨てにするか?」
 など言い言い、お邪魔しますと入り込んだ。
 外見はとんでもないあばら屋だったけれど、中はそうでもない。プレハブ住宅以下の簡素さかと危ぶんでいたけど、意外としっかりした造りだ。見た目は確かに昭和チックだけど風情がある。そして明かりがあるのだから電気は通っているし、料理が出来るならガスも水道もある。そうそう原始的な生活には戻れないこと、現代、じゃないか、近代科学ってのはすごいよなと今更のように感心していた。
 坊っちゃん達がいた所は四畳半よりは広い、おおよそ六畳くらいの和室だった。ちゃぶ台が一つ。あとは小さなテレビが一つあるくらい。教師の家とも思えないくらい殺風景で、寒々としている。だけど灯る明かりは不思議と暖かい。
「初めまして、養源寺清と申します」
 暖かいお茶を湯呑に二つ淹れてくれた老婦人は静々と、深々と頭を下げた。やはり品が良い。こっちが恐縮してしまう。
「坊っちゃんがお生まれになる以前から松山家にご奉公致しております」
「ゴホーコーなんてしかつめらしい」
 家政婦で十分だ、と対照的にぶっきらぼうな様子を返すのは坊っちゃんだ。まつやまけ、とちょっと呆然として美禰子が呟く。
「って、坊っちゃんて本当にお坊っちゃんなんだね」
「投げやりにつけられた名前だけどな」
 寺にでも入れるつもりだったんじゃないのか、とお茶をぐいと煽る。俺の名前の付け方もぞんざいな感じだから、気持ちはわかる。またそんなことを仰る、と清さんは苦笑した。
「本当はお家を継いでも十分過ぎるくらいのご器量がございますのに」
「こっちこそ、またそんなこと、だ」
 清は昔から俺のことになるとこうなんだ、と口を尖らせるけれど、情愛の籠っている口調と仕草に思わず美禰子と二人で笑った。家政婦とご令息の関係と言うよりは、祖母と孫、あるいは母と子。ほのぼのとした気持ちがそれとなく伝わっていて、まあと照れたように坊っちゃんは首を掻く。
「俺にとっては母親代わりと言うか、祖母さん代わりと言うか。お袋は早くに亡くしたもんでな」
「今はこんなおばあちゃんですけど、坊っちゃんがお子様の頃は、まだおばさんで通っておりましたわ」
 ふふと優しそうに微笑む清さんは俺も得られなかった母親の姿に近くて、素直に憧れる。坊っちゃんはこの人の傍で育ったんだ、いいなあと目尻が下がっていくのを感じた。それと、まだ知り合ったばかりだけど家政婦にしておくのが勿体ない気品の良さと、柔らかな印象の中どことなく感じられる凛々しさに、もしかしたら元は高貴な家柄の人だったのかも知れない。そう思った。
 でも初対面でそんな家庭の事情やら何やら、いろいろ込み入ったことを聞くのは失礼と言うもの。家庭と言えば、清さんのご家族……旦那さんや子供さんはいらっしゃるんだろうか。亭主関白よろしく、お茶、と湯呑をぞんざいに差し出す坊っちゃんと、はいとにこやかに受け取り、ついでにご飯もお持ちしますわと台所に向かう清さんを見ていてふと思う。
 坊っちゃんがトイレにでも行くのか席を立つ。むう、と俺は顎を撫でた。美禰子は首を傾げる。
「どしたの?」
「いや、推測なんだけどさ」
 考えれば考える程真実味が増してきた。

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