そのまま、黙々と授業を過ごし、坊っちゃんと何も話すことがないまま下校した。いつもは帰宅したら魔法の練習に入るのだけど、どうにも何もする気が無くぼうっとしていた。与次郎達が気を遣って遊びに誘ってくれたことを夢ともなく現ともなく思い出しながら横になっていた。あの時突っかかって、与次郎には悪いことをした。今度何かで埋め合わせよう。
 薄く目を閉じれば一連の出来事が再生される。あんな風に個人的な感情で前に出ていったのはきっと俺の生涯で初めてだろう。でもそのことで生じる興奮も衝動も、全部あの時間に出尽くしてしまって、今は抜け殻の状態だ。夢だったのではないかとすら思う。
(坊っちゃん、何にも言ってくれなかった)
 坊っちゃんが何か行動を起こすか、怒りを前面に出すべきだと思っている俺は、やっぱり思慮深くない、まさにお子様――「坊っちゃん」なんだろうか。そりゃ、坊っちゃんの過去に本当は何があったかなんて全然知らないけれど、坊っちゃんがやられっぱなしなのは負け犬みたいだった。それが、腹立たしかった。
(……腹立たしい、か)
 思い返してみれば俺は、怒りと言う感情を抱くのが酷く不慣れだった気がする。親父や兄貴達に失望や寂しさを抱いていても、憎しみや怒りを抱く道は辿らなかった。そんなことをしても無意味だと最初から何となくわかっていたんだろう。
 自分じゃない誰かのことで怒ったことがあるとしたら、思い出すのは一月ほど前のこと。
 始まりの魔法が、俺の中で荒ぶったあの時。
(そう、だ)
 大事なことを忘れていた。
(あの時……頭で響いたあれ)
 無機質でいて、悪魔の囁きのように甘くもあったあの声。どんなものだったか全然思い出せないけれど、俺の中にある怒りを直接撫で回されて挑発され、そして何かを暴走させたような声。自分の声じゃなかった。いや、自分の声だった? それさえも忘れている。
 思い出そうとすると、恐怖が体中を走り抜けていく。
 あの声に任せてしまったら、自分と言うものが根こそぎ奪われてついには空っぽになってしまう。あの、意識を落としたがらんどうの美禰子のように。あの美禰子を見たくない。自分だってそうなりたくない。息を飲む。冷や汗が背筋を通う。
 魔法。解き明かされていないfの神秘。声の正体を探るならそれだろうか。そうだ、あの時、魔法使いであるのをいいことに、人間を一瞬だけ見下してもいた。
 でもそう思い至った途端、ひたひたと恐怖が這い寄る。笑いも怒りもせず、現象としてそのまま、俺を呑み尽くす。
(ああ、もうっ!)
 ぶるると体が震えたのをいいことに頭も強く振りに振った。目がくらくら、ちかちかするくらいにまでやったら恐怖の気配はようやく消えた。考えないのが一番いい。
(それより……坊っちゃんのことだ)
 あの時の哀しい目を思い出すと、胸が切なくなる。初対面の時の遠い眼差しを突き詰めていけばああなるのだろう。哀しみの眼差しの向こうにある一つの感情は、きっと後悔だ。
(後悔、か)
 自分のしたことを悔いている? そうならざるを得なかった運命のいたずらをやるせなく憎んでいる?
(そうならざるって……やっぱり)
 噂は本当なんだろうか。何度も思っているけれど火のない所に煙は立たないんだから。黙っているってことはずるいことだ。嘘か本当かわからない。
「三四郎? ご飯出来てるよーっ」
 は、と瞬く。携帯電話のディスプレイで時刻を確認すれば、なるほど夕食時にはちょうどいい頃合いだ。半分寝てもいたのだろう。寝てるのー? と階段を上がって来そうな美禰子に今行く、と声を掛けた。
 飯を食いながらでも考えるのは坊っちゃんのことだった。伏し目がちに黙ってもそもそと夕食を口にする俺は、美禰子の目にもワガハイの目にも奇妙に映ったらしい。
「どったの? 元気ないよー」
 学校で辛いことあった? とお箸片手に訊く美禰子は誰かの奥さんと言うよりはお母さんのようでもあった。母。俺の母の記憶はほぼないし、もう一人の母にもいい思い出はないからあくまでイメージだけど。
「あの、さ」
 俺は坊っちゃんに関する噂話についてやっと初めて美禰子に話し始めた。ただ例の略奪愛のことは、上手くオブラートに包んだつもりだ。女の人と同棲してるんだけど、その彼女の元彼とごたごたがあったらしい。そんな風に。今日の落書き事件のことはちゃんと話したけど、謎の声のことは完全に伏せた。
「ってわけ」
「ふうん」
 美禰子はオレンジジュースがなみなみ入ったコップを掌で包む。
「わかった」
 にこっと笑う。何がわかったなんだ?
「三四郎、寂しいんだ!」
 いい加減なこと言うなよな、と返そうとしたけれど美禰子の発言は斜め上だった。
「はっ、な、何? 寂しい?」
「坊っちゃん坊っちゃんって弟みたいに懐いてたじゃん、寂しいんだよーきっと」
 弟って何だ、と唾を飛ばすけど美禰子は聞いちゃいない。
「わかるんだよー美禰子ちゃんには。私も、上の二人のお姉ちゃん結婚したらさ、なんか無性に寂しかったもん。あー、もう私だけのお姉ちゃんじゃないんだなーって」
「結婚してるのか」
 美禰子が結婚してるくらいだから当然かも知れないが。
「そそ。上のお姉ちゃんの旦那さんの円覚寺さんはいかにも男らしい魅力に溢れてて豪放磊落って感じで頼もしくって、そんでもって私に優しくて、勿論那美姉にも優しくて超素敵な旦那さんなんだけど、もう一人がねー、何で藤尾あんな人と結婚したんだろってくらい、捉えどころのない不思議な人で、男の人って言うか妖精って感じでさ、全然藤尾に似合わないって言うか」
 那美姉――那美と藤尾と言うのがお姉さんの名前だろう。ぶつくさとその藤尾さんの旦那さんに文句を垂れる美禰子をしばらく眺めていたが、はっと喋り過ぎに気付いてえへへと首を掻く。素直に可愛かった。素直に。
「ま、ともかく、三四郎も同じでさ、その同棲してる彼女さんに、お兄ちゃん取られた感じが嫌なんだよね?」
「お、お兄ちゃんって、何だよそれ」
 よせって、と顔を背ける。多分頬に赤味が差している。それを自覚しているのも最高に恥ずかしい。照れちゃって、とにやにやする美禰子の向こうでワガハイもにやにやしているように見えた。
 お兄ちゃん。つまり兄。俺には実兄が何人かいるけれど、誰とも疎い俺にとって兄と言う存在はありそうで無い存在も等しかった。もしかすると、一人っ子がきょうだいを羨むよりもずっと、羨望していたかも知れない。
 そうだと意識しない内に、坊っちゃんが、空いたその位置を埋めてくれていたんだろうか。
 それはともかくとしてさ、と美禰子は両手で頬杖を突き、ふふんと笑う。
「何だかその噂話、ストレイシープの仕業みたいじゃない?」
 二、三度瞬く。その発想は無かった。
「そう、か?」
「こういうこと……その人に不利な噂や情報を流すことが出来る魔法を持った子がいても、不思議じゃないよ。トチメンボー……魔法の種っていうのは、あらゆるジャンルの魔法への可能性を秘めまくったアイテムだもの」
 一つの魔法の種で二つの異なる魔法を習得できる人もいるんだよ、と自慢げに話していた。そんなものをぶちまける富子は、聞いている以上に裕福そうだ。
「じゃあ、学校の辺りに潜伏しているってことか?」
 美禰子の杖に感知されないぎりぎりのところで暗躍している。ストレイシープは見た目は非常にファンシーで何も考えて無さそうに見えるが、その実意外と頭の回転は速い。そういうストレイシープに出くわしたこともある。
「そうなるのかな」
 オレンジジュースをごくりと飲み干すと、美禰子の目が不敵にきらめいた。何だか嫌な予感がする。ずいっと、内緒話をするように、ねえねえと体をこちらに乗り出した。
「坊っちゃんってほんとに、女の人と同棲してると思う?」
「え」
 その噂が本当かどうか。まず、女の人と同棲しているか否か。ううん、と俺は腕を組む。坊っちゃんとの付き合いはまだ大して長いわけじゃないけど、誰かと結婚を前提にした生活をしているような感じはしない。いや、高校一年生にそんなことわかるか? どうだろうなあ、と言葉を濁すことしか出来ない。
 年齢的には何ら不思議ではないけど、美禰子も加えた上で冷静になって考えてみると、坊っちゃんなんて言うマイペース上等の人間が他人と生活――同棲なんて出来るだろうか。急に胡散臭くなってきた。何だか、魔法が解けてしまったよう。
 美禰子はニコニコしながら俺をじっと見つめていた。
「何?」
「ねね、確かめに行こうよ」
 なるほどそういうことか。胡散臭いからこそ、確かめたい。本当でも嘘でもいい。自分の害にならないなら、覗いてみたい。人間の、俗なる好奇心は厄介なものである。
(でも)
 美禰子に伏せている事実がある。同棲しているにしろいないにしろ、もしそれが本当なら。
(きっと、坊っちゃんは傷付く)
 あの一瞬の、後悔に向かう目。どこかで傷を負っていないと――そしてその傷が今も生きていないと、あそこまで陰らない。
「でも、やっぱ、さ」
 それでも俺は後ろ髪惹かれるような想いがあった。だから言葉は煮え切らない。
 何があったか、知りたい?
 でも知ってどうする。どうすることも出来ない。何が出来るわけでもない。本当に単なる好奇心は厄介だ。そりゃあ猫だって殺される。
「そりゃ、さすがに」
 それでも心が揺らぐ。
 目の前に美禰子がいて、その向こう側には羊が寝ていた。
「やっぱその……めいわ」
「三四郎は気になんないの?」
 言葉を遮り、蠱惑的に首をひねりにかっと笑ってみせる美禰子は、最初から誘う気満々なのが見え見えだった。断ってでも一緒に連れていってやるぞという強引さをちっとも隠そうとしない。
 別に美禰子の勢いをこいつは都合がいい、と利用したつもりはない。けれども月が見え始めた頃、ワガハイを留守番に残し、俺と美禰子は坊っちゃんの家へ出発した。

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